29 Aug 2021

三つ巴 二つ巴

 雅楽の左方楽と右方楽のマーク

左方楽は唐伝来の楽を中心に仏教系の林邑楽等がまとめられている。そのシンボルマークが三つ巴で、太鼓には龍のマークと太陽のオブジェが付いている。

右方楽は朝鮮伝来の舞楽を中心にまとめられている。そのシンボルマークが二つ巴で、太鼓には鳳凰のマークと月のオブジェが付いている。

月のマークは月支国に関係するか、鳳凰は?二つ巴は?右方楽は高麗楽とも呼ばれる。高麗(918-1392)は百済と新羅を合わせているので音楽文化は多様だったと思われる。

平安時代(794-1192)は高麗と時代が合うが、正式な国交の記録は少ない。

主に民間レベルでの国交だったか。

Wikipediaの高麗のページでは音楽文化には触れていない。


雅楽の高麗楽には短い旋律の繰り返しを繋げたものや、中規模の構造の曲が多い。どれも旋律が洗練されていて、聞いていて楽しい。仏教系と思われる曲が幾つかある。

28 Aug 2021

味摩之

Wikipedia:  味摩之

『日本書紀』によれば、612年(推古天皇20年)に帰化したと言われており、呉(中国南部)で学んで、伎楽の舞を修得したという。『令集解』の『職員令』の項目によると、伎楽と腰鼓などは呉楽であるとされており、その舞は滑稽卑俗なものであったと言われている。


桜井(豊浦寺のあったところ)に住居を与えられ、少年を集めて伎楽の舞を教えたとされる。真野首弟子・新漢済文がその舞を習い、伝承している。


新羅本紀

402 新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師(356-402)今の子、未斯欣を人質として倭に送った(新羅本紀)

未斯欣(みしきん)が味摩之(みまし)に音が近いなと思った。紀では百済から帰化したとあるが、百済の人っぽい名前じゃない。未斯欣の方がまだ近い。



24 Aug 2021

卑弥呼

Wikipeida: 卑弥呼 

魏志倭人伝に

骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占うとあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。


時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。

景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた

卑弥呼が死んでからは卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

殉葬したり、生口を献じたり、占いしたりというところが殷の習慣に似ている。

殷があったのは紀元前17世紀-紀元前1046年なので、それからずいぶん時間が経っていることがわかる。

殷の王族と思われる箕氏が朝鮮に渡り、衛氏朝鮮(紀元前195年? - 紀元前108年)に負けた。海へ逃げて半島の南部へいき、馬韓を平定して韓の王となった。

これが、紀元前12世紀 - 紀元前194年。

馬韓は紀元前2世紀末から4世紀中葉続く。

この馬韓の中の伯済国が中心になって百済になる。4世紀前半-660年続く。

238に卑弥呼が魏に使いを送って封じられているので、百済になる前の馬韓の時代の話になる。殷の王族の箕氏が馬韓の王となっているので、殷の習慣が広まっていただろう。そしてそれが238以前の九州の邪馬台国へ伝わっていたのだろう。

魏志倭人伝では朝鮮半島の南の端は倭と書かれている。その上には三韓がある。

しかし邪馬台国への道のりでは狗邪韓国から海を渡って進んでいる。

女王国までの国

  • 狗邪韓国
  • 対馬国
  • 一大国
  • 末盧国
  • 伊都国
  • 奴国
  • 不弥国
  • 投馬国
  • 邪馬台国
遠方にあって名前だけしか分からない国
  • 斯馬国
  • 己百支国
  • 伊邪国
  • 都支国
  • 彌奴国、
  • 好古都国
  • 不呼国
  • 姐奴国
  • 對蘇国
  • 蘇奴国、
  • 呼邑国
  • 華奴蘇奴国
  • 鬼国
  • 爲吾国
  • 鬼奴国
  • 邪馬国
  • 躬臣国
  • 巴利国
  • 支惟国
  • 烏奴国
  • 奴国
  • 狗奴国 この王が狗古智卑狗で女王に属さない。


23 Aug 2021

つのがあるひと

 倭人が来た道 第9章 確かな足あと

Wikipediaで殷について読んでいたところ、山海経や淮南子という中国の神話などが書かれた書物があることを知った。

それらには天地開闢の話や足の3本ある烏の話、太陽神の話など載っている。これがかなり古くからあったらしく淮南子の方は前世紀に成立している。また日本には古くから入っていたらしい。

つまり古事記や日本書紀の元ネタになっている可能性がある。

上のブログにはミャオ族の信仰、頭が人体が蛇の神さまの話とか、タイのアカ族の鳥居の話とか三角が連続する模様とかしめ縄とかあるのだが、驚いたのは女性が角みたいに飾りをつけている。これは劉邦が軍に採用したらしい。

都怒我阿羅斯等ってこの部族の人か漢以後の人だろうか?”つのがあるひと”に漢字を当てただけなのがおもしろい。

この人は大加羅(金官国)から来たと考えられているらしい。この国は三韓時代にはどこにも存在しない。弁韓時代の弁辰狗邪国

半島南の倭のあたりが3世紀から6世紀中頃に伽耶になってその中に存在する。

その辺りでは5世紀後半から6世紀中葉に前方後円墳が作られる。日本産の翡翠が大量出土している。

日本では3世紀中頃から7世紀と半島よりちょっと長い。

3世紀半ばから奈良を中心に作られたらしい。

前期 3世紀中頃から4世紀中頃、数は東国に圧倒的に多い。

中期 4世紀後葉~ 5 世紀末葉 は規模が大きい。奈良近辺よりも西と東に数が多い。

後期 6世紀後半、西と奈良近辺では作られなくなるが、東で大型が作られる。


半島南部の倭と呼ばれた地域と弁韓は一体化したのか?そして日本列島と同時期に同じ形状の大規模墳墓が作られる。しかも日本では関東地方に圧倒的に多い。

日本に渡来した王族に国を分け与えたのだが、九州と近畿では間に合わなかったので関東を分けたか?それにしても王に比肩するレベルの大きさのものが多数あるのは、半島諸国の中枢がそのままやってきたのか?

 Wikipedia:

殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。


この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。


またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。


これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。


建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。


日本の動物信仰

 Wikipedia: トーテム

また海神族・出雲族とされる神には出雲の大国主神(蛇)、事代主神(鰐)、建御名方神(蛇)、大物主神(蛇)といったように蛇、鰐のトーテムがあり、天孫族にも賀茂建角身命(八咫烏)、天日鷲神(鳥)、天鳥船神(鳥)、熊野大神(熊)といったように鳥、熊のトーテムがある[11]。

 Wikipedia:

海沿いの国では無かった。王の名前に熊がつく。

ミャオ族の祖先が建国したらしい。6代目の熊渠の時に蛮夷だから中華の爵位を受けないと拒否した。

越を滅ぼした。

動物信仰が盛ん

シャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中


Wikipedia: ミャオ族

ミャオ族の多くはすべてのものに霊魂や生命が宿ると信じ、樹、岩、山、川、泉などを崇拝する。祖霊や祖先の祭祀を怠らない。

毎年旧暦10月頃の卯日や辰日を年越しの日の苗年(ノンニャン)として祖先に感謝する祭りを行う。男性は蘆笙(キー)を吹き、女性は華麗な銀飾りと豪華な刺繍の衣装をきて舞う。この時は、男女の自由恋愛の機会でもあり、ユーファンと呼ばれる歌掛けで感情を表現した。

世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。


陽界の精霊は基本的には善意のある守護霊 (Dab quas) と森などに住む悪意のある精霊 (Dab qus) に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護している

天界の精霊には雨をつかさどる龍 (Zaj Laug) や虹 (Zaj sawv) もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊 (Nkauj Hnub)、月の精霊 (Nrang Hli)、雷神 (Xob) などが知られている。

射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。


Wikipedia:

敵国の楚を呪詛する内容の文。

法治主義 法家
厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。商鞅は戦国の七雄に数えられた秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献した。

天智、天武帝の頃に法令が整備されていったが、それは中華の歴史を学んだからか。

この時代の宗教に日本と通じるものは見当たらない。

 朝鮮半島にWikipedia:箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年))があった。

Wikipedia:箕子朝鮮によると
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

漢書によると
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。

史記によると

殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

再びWikipedia:箕子朝鮮によると

秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。

魏志韓伝によると

(朝鮮)侯の(箕)淮は勝手に王を称していたが、燕からの亡命人、衛満が攻撃して奪うところとなり、その左右の宮廷人を率いて海に逃がれ、韓の地に居住して自ら韓王と号した。その後裔は絶滅したが、今でも韓人でその祭祀を奉る者がいる。漢の時は楽浪郡に属し、季節毎に朝謁した。

後漢書によると上記の韓王になる下りが詳しい。

『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。

馬韓内の伯済国が後に百済になる。三国史の百済のところは日本の記録と合う箇所がある。新羅は基本的に合わない。

このサイトの著者の解説が次。

馬韓の箕氏を滅ぼしたのは魏の楽浪、帯方二郡で、魏志三少帝紀、正始七年(246)に「韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて落ち降った。」

この数十ヶ国は馬韓だけでなく辰韓の国々も含む。

この時の数十ヶ国が弓月君が率いてきた120県ではないか?


Wikipedia: によると

現代の考古学調査によると、殷は占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要とした。中国の文字である漢字は、骨に刻むための象形文字として始まった。これまでに(2012年現在)、少なくとも14000体の殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘されており、それらは殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され、献上された人身御供であった。

倭も生口を中華帝国に献上していた。殷程古くはないが。この人身御供の手法はその後中華圏で用いられたのだろうか?

後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。

Wikipedia: 殷に系図がある。29代の隣に箕氏が書かれている。箕氏朝鮮は殷の王の系譜か。

仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。


上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話(十日神話)は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落される(射日神話)のは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。


倭と百済が仲良かったのは、この王族を共有していたからではないのか?


Wikipedia: 羿によると

天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。

Wikipedia: 三足烏
東アジア地域の神話や絵画などに見られる伝説の生き物である。この烏は太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴であった。最も古い考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域にさかのぼる。

先の9の太陽に住む9の烏を射落としたとしているものもある。
淮南子(えなんじ)という思想書。(著者:劉安(B.C.179-B.C.122))日本には古くから入っていた。

昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという

とか

天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」

日本書紀の初めの
古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。

羿の奥さん嫦娥が夫の分の不死の薬を飲んで月宮殿に逃げてヒキガエルになった。。

離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。

帝夋(ていしゅん)は、上古の中国神話に登場する東方の天帝(帝舜と同じといわれる殷の祖神)。帝俊とも書く。羲和(太陽の女神)と常羲(月の女神)は帝夋の妻である。

政治もおもしろい。殷王は神界と人界を行き来できるシャーマン。

殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。


魏志韓伝の馬韓の習俗の説明には

五月に種まきが終わると鬼神を祭る。群衆は歌って舞い、酒を飲み、昼夜休まない。その舞いは、数十人がいっしょに立ち、円形に一列になって地を踏む。手を下げたり上げたりし、足もそれに合わせてうごく。節回しは(中国、漢の)鐸舞に似たところがある。十月に収穫が終わるとまたこのようなことを繰り返す。

鬼神を信じ、主邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる。これを天君と名づけている。また、諸国にはそれぞれ特別な集落があり、これを名づけて蘇塗(ソト)とする。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える。さまざまな理由で隠れたり逃げたりしてその中に至ったものは皆これを引き渡さず、好んで賊を作っている。その蘇塗を立てる意義は仏教の寺に似たところがあるが、行いの善悪に違いがある。その(馬韓の)北方は(中国の)郡諸国に近く、やや礼に通じているが、遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しい。

  • 自治体の単位が邑となっている。
  • 主邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる
  • 鬼神を信じる。
これって殷の信仰を引き継いでいるということでは。

日本の天皇が天照の子孫としているのは殷の信仰が引き継がれているからでは。
殷の王族の1つが月支国で、その中で秦の労役から逃亡してきた人々を束ねる王が選ばれていた。つまり弓月君は秦の皇帝の子孫ではなくて殷の王族の子孫か?
朝鮮半島で辰韓の王となっていたから辰の王だっただけで、秦の始皇帝の子孫ではないのか。

単に淮南子の影響か?

青銅器の生産と加工が盛んであり、遺跡からは動物を模ったものが大量に出土

婦好は、商王武丁の妻の一人で、紀元前12世紀前半、祭祀や卜占をつかさどるとともに、軍を率いて周辺の他民族を討伐し、大いに功績をあげた、その業績は、甲骨の卜辞に記載されている。婦好の死を悲しんだ武丁は、現在の河南省安陽市小屯村に婦好の墓を造った。1976年、この墓はほぼ完全な形で発見され、大量の玉器や宝石などが出土したのである。

また商代は、神権と王権を同じように重んずる時代で、神権と軍権がともに女性の手に握られていたことも付け加えておかなくてはならない。考古学的には、今までのところ、商王が用いた鼎はまだ発見されていない。これは商代には、司母だけが神器である鼎を使う権力を持っていたことを説明している。

商代の人々は女神を信仰していた。それは原始的な女性崇拝で、すなわち現代で広く認められている「薩満」(シャーマン)である。現存しているシャーマニズムでは、女性祭司は唯一な権威であり、鬼神に通じる巫女である。祭祀の際には歌いながら踊る。

商代の人々は女神を信仰していた。それは原始的な女性崇拝で、すなわち現代で広く認められている「薩満」(シャーマン)である。現存しているシャーマニズムでは、女性祭司は唯一な権威であり、鬼神に通じる巫女である。祭祀の際には歌いながら踊る。

商の時代、「司母」は軍隊を統率する権力を持っていた。それは「司母」の名に、「天の兵」を意味する「天干」が用いられていることからわかる。婦好墓から出土した甲骨文には、はっきりとこのように記載されている。


婦好は、商王の命を奉じて、兵を募集し、数回征戦し、中原を平定した。また大軍を率いて、「巴」を征伐するため、殷(今の河南省安陽)から出発し、黄河を渡り、数千里を長駆、急襲し、長江・漢水流域を攻撃して、ついに巴人を打ち負かした。

22 Aug 2021

魏志韓伝

「魏志韓伝」解説

古代朝鮮と倭の歴史を年表を作ってみたら噛み合わない。そこで中華史書に年代のはっきりした情報がないかあたっている。三国志(180-280)。

このリンク先でおもしろいのは馬韓の国が載っているところ。

  • 桑外(サウグワイ)国
  • 月支(ゲツシ)国
  • 伯済(ハクセイ)国
  • 駟盧(シロ)国
  • 不彌(フウビ)国
  • 卑彌(ヒビ)国
  • 狗盧(コウロ)国
  • 一難(イツダン)国

カタカナは漢音。桑外(サウグヮイ)国はソガ国かもしれないというような違いまで含めて良いでしょう。とある。

月支国は辰韓12ヶ国を統治していた王族を輩出していた国。この国自体は馬韓国に属していた。辰韓が秦から逃げてきた人々の国で月支国の王は秦の始皇帝の子孫。弓月君が120県人々を率いて帰化している。

嶋津氏系図によると弓月君である融通王の次に竺達王([208]-)がある。これって筑紫王?土地名+王っていうのが中華の名付け方らしい。

隋書に筑紫国の東に秦王国がある。これって月支国の弓月君がつれてきた120県の人達の国か。華夏と同じというのは当時の漢民族と同じという意味で隋の使者はそれに驚いていた。

弓月君の一団は筑紫と隣の豊日別に住んだのか。そして弓月君の子供が筑紫の王族になったか。

伯済国が後に勢力を増して4世紀に馬韓を統一して百済となす。

不彌国って、魏志倭人伝にある不弥国と同じ漢字。
(不彌國)は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあり、長官は多模、副官は卑奴母離と呼ばれ、1000余の家がある。
北九州辺りにあると思われる。

桑外の読みがソガかもしれないと著者によって言及されている。これを読むまで気づかなかった。蘇我氏の国か。蘇我氏は半島の技術者や仏教者と通じていて、日本に仏教ベースの新風を吹き込んでいた人なので、半島出身者でもおかしくない。また多利思比弧と思われる聖徳太子が実は弓月君の子孫で秦の始皇帝の子孫で、蘇我氏に担がれて筑紫と隣の秦王国の国勢を担っていてもおかしくない。これが奈良や飛鳥の田舎なら新風吹き込むのは不可能と思うが、北九州なら少々の反対があってもできそう。

中大兄皇子は秦の始皇帝の子孫にあたる山背大兄皇子の一家を自殺に追い込んだ恨みを晴らすため、蘇我氏を討ったのでは?九州で斉明を連れて朝倉宮に入れて政権を運営するし、蘇我氏の傍流を手下にしている。やりすぎた入鹿を討伐して巫女の下に王がついて政権を担当するというやり方に戻したのか。

卑彌国の読みは卑弥呼に共通しそうだけど。
卑彌国に続いて狗盧国ってあるけどこれって狗奴国?
こいつらペアで北九州へ移ったのか?

一難国って倭奴国じゃない?

馬韓伝
五月に種まきが終わると鬼神を祭る。群衆は歌って舞い、酒を飲み、昼夜休まない。その舞いは、数十人がいっしょに立ち、円形に一列になって地を踏む。手を下げたり上げたりし、足もそれに合わせてうごく。節回しは(中国、漢の)鐸舞に似たところがある。十月に収穫が終わるとまたこのようなことを繰り返す。

現代の日本でも収穫後にはお祭りやってる地域ある。田植え前にもやっているので1年に2回。これって古代の日本の2倍年歴ってやつでは。鐸舞っていうのが銅鐸の使い方か。


鬼神を信じ、主邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる。これを天君と名づけている。また、諸国にはそれぞれ特別な集落があり、これを名づけて蘇塗(ソト)とする。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える。さまざまな理由で隠れたり逃げたりしてその中に至ったものは皆これを引き渡さず、好んで賊を作っている。

統治者の村邑では一人を立てて天神の祭りをつかさどらせるって。天君と呼ぶって。これって日本の天皇。。町の神社か。主邑って月支国じゃないか。

諸国の特別な集落ってやくざ?鬼?なまはげ?小角の使役した鬼?

辰韓伝にも国があげられている。
弁辰狗邪國
斯盧國

斯盧國は後の新羅。弁辰狗邪國は狗邪韓国で倭へ渡る際の港。

首都は月支国。ここに辰韓12ヶ国を収める王がいた。伯済国が勢力を伸ばして百済となる。


(朝鮮)侯の(箕)淮は勝手に王を称していたが、燕からの亡命人、衛満が攻撃して奪うところとなり、その左右の宮廷人を率いて海に逃がれ、韓の地に居住して自ら韓王と号した。その後裔は絶滅したが、今でも韓人でその祭祀を奉る者がいる。漢の時は楽浪郡に属し、季節毎に朝謁した。

箕氏は殷の王族。太陽信仰や占いで政治やってた。



弁辰伝
弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。鬼神を祭ることに違いがあり、かまどは家の西側に作る。

これって竈祭りにつながるか?
弁辰には各国に王がいて、辰韓国には馬韓の月支国の一族が王となっている。

246
魏の楽浪、帯方二郡が馬韓の箕氏を滅ぼした。韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて落ち降った。(魏志)

那奚は馬韓の古爰國か狗奚國?

「魏志韓伝」解説の弁韓伝の後に、倭人が呉の太伯の子孫を名乗った件について触れている。越に破れた呉の人々は北方へ追いやられ、朝鮮半島へ逃げた。
殷から逃れてきた人々も住んでた。とても行儀良かった。

57 倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす(『後漢書』東夷伝)
107年 倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う

この2つは朝鮮半島の呉の末裔が住む倭のことではないか?一難国か?この国が朝鮮半島の南にあったとか。


21 Aug 2021

呉越から


Wikipedia: 春秋戦国時代

周の後春秋戦国時代の地方国家。長江下流。

呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入る。

 B.C. 585-B.C. 473 蘇州周辺 長江下流北側 最後の王夫差は首吊り自殺。

 B.C. 600-B.C. 306 首都は会稽 長江下流南側 漢民族とは別の百越による国 稲作や銅の生成 頭は断髪、上半身は裸で入れ墨

B.C. 2末からA.D. 4 弁韓から倭、濊などが鉄を調採掘していた。貨幣の代わりに使ってもいた。弁辰狗邪国が狗邪韓国か。

倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていた。


神功皇后の三韓征伐で攻めた都市

  • 比自㶱(ひじほ)
  • 南加羅(ありひしのから)
  • 㖨国(とくのくに)
  • 安羅(あら)
  • 多羅(たら)
  • 卓淳(たくじゅん)
  • 加羅(から)
  • 比利(ひり)
  • 辟中(へちゅう)
  • 布弥支(ほむき)
  • 半古(はんこ)
伽倻諸国の都市
  • 金官国 駕洛国・金官加羅・任那加羅
  • 安羅
  • 古寧
  • 星山
  • 小加羅
  • 多羅
  • 卓淳
  • 己汶
  • 滞沙
この地域から前方後円墳が発見されている。

三韓征伐で攻めた都市ってほとんど伽倻諸国だった。三韓征伐は4世紀の話か。
201 三韓征伐
205 新羅の使者
247 百済倭へ朝貢
249 新羅へ侵攻
251 百済日本に朝貢
252 百済倭へ七支刀を送る
262 新羅へ侵攻

書記の干支を西暦に換算すると朝鮮史の140年位前の話になっている。
この後応神期の弓月君の帰化の話があるが。。。。

応神期の朝鮮半島の王の記事は年代が合わない。三韓征伐の各国の歴史書の記述が書かれているが、合わない箇所がある。

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧 古事記では応神は394没。なので84年プラス。
応神14=283+84=367
応神16=285+84=369 弓月君

古尓王(234-286)百済の中心勢力が月支国から伯済国に変わった。この時期に月支国が消えたかどうかはっきりしない。
百済は近肖古王(346-375)が369に馬韓を統一した。

新羅は377に前秦に朝貢する。国号は6世紀初め頃から正式に新羅。

弓月君から

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧によると応神天皇14年は西暦283。
この年弓月君(融通王)はに百済から来朝して倭に帰化を願い出た。

Wikipedia: 弓月君によると秦の始皇帝の子孫とある。百済の120県(自治体の単位?)を率いて帰化した。

かなりの大規模と考えられる。何故こんな規模で帰化したのか?

弓月君は朝鮮半島ではどういったことをしていたのか?

Wikipedia: 馬韓
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。
秦の民は朝鮮半島まで流れてきて、馬韓によって半島の東側をゆずってもらって住んでいた。辰韓と呼ばれていた。この地域の王は馬韓人が歴任した。
馬韓には54ヶ国あった。
234-286 古爾王の時に伯済国が中心になってらしい。この馬韓の中には目支国(月支国)(ハングルなので日本語翻訳で読んだ)があり、この国が辰韓の王を歴任していた。Wikipediaによると目支国が実際に半島から消えたのはこの時期かどうかはっきりしない。

後漢書韓伝から引用
みないにしえの辰国である。馬韓が最大。その種族の者を共立して辰王と為し、目支国(魏志では月支国、転写間違いと考えられる)に都を置いている。王は三韓の地にいなくなった。その諸国王の祖先はみな馬韓の種族であった。

国は鉄を産出し、濊、倭、馬韓は皆たよっている。市のすべての商品は鉄を貨幣がわりにして交易される。

その風俗では、歌舞、飲酒、鼓瑟を喜ぶ。子が生まれるとその頭を平たくしようとする。みな石でこれを押す。

有明海沿岸の熊本県玉名郡和水町瀬川のトンカラリンの周辺の前原長溝遺跡から変形頭蓋骨が発掘された。これって辰国の習慣か?

Wikipedia: 弓月君の考証によると
弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。天皇家に協力して朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献したとされている。

島津系図に融通王(弓月君)がある。秦河勝が聖徳太子に使えている。融通王の次のが竺達王(208)って。融通王は2回掲載されている。後者は融通王(356)。

まとめ
秦の始皇帝の子孫と民は朝鮮半島へ渡ってきた。馬韓は半島の東側を民に当てがい辰韓とした。皇帝の子孫は馬韓内の月支国を作り、辰韓の王となった。
馬韓の伯済国が中心になって勢力が拡大され、月支国は敵対勢力となった。穀物生産と養蚕を生業にしていた辰韓12ヶ国VS馬韓54ヶ国では勝てないので隣接していた倭に亡命しようとした。新羅は国の産業をまかなっていた集団が無くなるのは困るので妨害していた。

倭の助けを借りて半島からも逃れることができた。そして豊前に秦王国として国を作った。王族は隣の筑紫に住み、竺達王と名乗った。

多利思比弧が遣隋使をやった時、”天を兄とし、日を弟とした。”とある。日は豊日別で実務担当。天は月支で神事担当の意味ではないか。
月読神社は弓月君と関係があるのでは?
北九州にある月読神社は壱岐、筑後に多い。豊後にもある。

九州には君、公を姓に持つ氏族が多い。これは元は大陸から渡ってきた王族に分け与えられた島だったからではないか。本州勢力に反抗するようになったので、征伐し、本州勢力の王家の血筋の者を派遣して治めようとしたから君・公の姓が多くなったとか。

秦氏が小分けされて全国に散ったのは筑紫が本州勢力に反抗したからで、その勢力を小さくするために分割した。そして半島との鉄の交易権を奪取した。
秦氏が地方に散ったことで、優れた文化が地方に散り、地方の文化レベルが上がるので本州勢力としては一石二鳥。

倭の五王は松野連系図によると長江下流の狗呉の子孫だが、倭語の名前から漢字一時の名前になるところがおかしいと思う。

20 Aug 2021

筑紫の君とか

地域名に君が付いている。どうして筑紫には王ではなくて君なのか。

蘇我君とか物部君とか検索しても出てこない。

Goo辞書によると古代のもと皇親系の尊号。

紀には地域名に王がついている。長屋王、額田王とか。これは中国の名付け方らしい。

朝鮮の君主一覧

新羅は514から地域名+王の方式でこの時の法興王が仏教を公認している。(528)これより後は全てこの呼び方。それ以前は漢字五文字以上の当て字っぽい。


加耶の王はサータヴァーハナ朝(Sātavāhana、紀元前3世紀/紀元前1世紀? - 後3世紀初頭)は、古代インドの王朝の王女を娶っている。金官国伽倻が後の狗邪韓国。加耶の王も地域+王だが、漢字一文字+王の名前も持っている。倭の五王と同じ名前はない。


馬韓の国王は漢字一文字+王。馬韓はB.C.2-A.D.4中頃。

百済は漢字二文字+王。たまに漢字一文字+王。

  • 契王(344-346)
  • 聖王(523-554)
  • 恵王(598-599)
  • 法王(599-600)
  • 武王(600-641)
済州島の王も漢字一文字+王がしばしばいる。倭の五王と同じ名前はない。
高句麗は最後に王がつくけど漢字一文字+王はない。

弓月君は秦の始皇帝の末裔とされている。倭に帰化するのを新羅に妨害されて手間取った。紀によると応神天皇14年で上古天皇の在位年と西暦対照表から283。辰韓に秦の亡命者が住んでいたのでそこから渡ってきたか。百済の120県を率いてきたのは?
馬韓の国のリストに伯済国があってこれが中心となって百済になったらしい。その上に目支国というのがある。韓国語版しかないが日本語に機械翻訳すると見れる。それによると月支国ともいうとある。この小国は辰王をやってた家系。

国造カバネが書かれている。
君 公元々は豪族の尊称で、「首長」(しゅちょう)の意味である。
「君」と「公」は別のもの
「君」の大部分は中小豪族で、330あまりの氏族
「三輪君」・「犬上君」など畿内及びその周囲に多い。
地方豪族にも授けられ、関東の「上毛野君」(かみつけぬのきみ)・「下毛野君」(しもつけぬのきみ)
九州の「筑紫君」や「筑紫火君」
8世紀以降になると、 蝦夷・ 隼人の首長にも与えられたという。

国造から君のカバネを持つ氏をひろってみた。が犬上と三輪はない。九州は多い。

  • 伊賀氏(君)
  • 阿保氏(君)
  • 庵原氏(君)

  • 牟宜都氏(君)
  • 木曽氏(君)
  • 科野氏(君)
  • 洲羽氏(君)
  • 上毛野氏(君)
  • 下毛野氏(君)

  • 道氏(君・公)
  • 羽咋氏(君・公)
  • 高志氏(君・公)

  • 但馬氏(君・公)

  • 吉備品遅部氏(君)

  • 波多氏(君)

  • 筑紫氏(君・公)
  • 大分氏(君)
  • 筑紫米多氏(君)
  • 阿蘇氏(君)
  • 肥氏(君)
  • 葦北氏(君)(刑部靫部)
  • 諸県氏(君)
  • 阿多氏(君)

弓月君は”君”が用いられていた時代に来朝したのでそう読んだか。

19 Aug 2021

ワカタケル大王 鉄剣

鹵の文字を使っている王が百済にいた。

獲加多支鹵大王の名が刻まれている鉄剣が出土した古墳は2箇所。

埼玉 稲荷山古墳 5世紀後半

熊本 江田船山古墳 5世紀末から6世紀初頭

獲加多支鹵、これ”わかたける”って読めない。支と鹵が無理じゃない?

わかたしろ(博多城)の方が読める。博多って筑紫の海より。

鹵を名前に持つ王が百済にいた。

蓋鹵王(近蓋婁王)(がいろおう)455-475 百済王。日本書紀では加須利君(かすりのきみ)

中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗した。

475年には高句麗によって首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、戦死した。百済は一旦滅んだ。

百済は中華南朝と通じてきた。


年代は合う。475に一旦滅んだ百済の蓋鹵王の家来達が倭に逃亡して帰化したのではないか。反乱を防ぐために熊本と埼玉に別けられて住まわされたとか。地方の近代化に貢献したから前方後円墳認められたとか。

だから倭朝廷が熊本から埼玉まで支配していたのは確か。ワカタケルかどうか。一応5世紀にワカタケル=雄略が居た。


文周王(475-477)日本書記の記述が1年遅い。

東城王(479-501)倭へ人質に来ていた王子の中から選ばれて王になった。


武寧王(502-523)

日本書紀に記述があり、そこから年代不詳の天皇の時代を確定できる。

雄略5 461 (457-479)

武烈4 502 (499-506)

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧にもある。古事記だと雄略は489に死亡している。干支で換算するとそうなるらしい。

武烈帝は実在が怪しいらしい。紀では悪行が書かれているが記には悪行いはない。先代の王を悪く書くのは中華の手法。記は倭側から見た歴史で、紀は日本側から見た歴史とすると武烈は九州王朝側か。

雄略の居た泊瀬朝倉宮ははっきりしていない。九州説、高知説、奈良説。斉明は天智に同行して筑紫へ行ったので、その近辺の朝倉市らしい。比定地2つある。


雄略は呉へ遣使していると紀にあるが、雄略の時代に呉はない。

六朝と言う概念がある。

  • 呉(222年 - 280年)
  • 東晋(317年 - 420年)
  • 宋(420年 - 479年)
  • 斉(479年 - 502年)
  • 梁(502年 - 557年)
  • 陳(558年 - 589年)

宋に遣使したか。呉は南朝位の意味か。そうであれば612に伎楽を持ち込んで帰化した味摩之が呉で伎楽を学んだと言っているのはおかしくない。

雄略は124歳で死亡とあるが、2倍していたとして62歳。それで皇位が22年か。遅咲き。允恭が41年と長くてその後安康が短かったから、急遽代打として登板したというところか。

倭の五王の遣使を王毎にまとめると

  • 421-430 讃
  • 438 珍
  • 443-451 済
  • 462-477 興
  • 477-502 武
武は25年に渡って遣使している。先の天皇の在位年表から502より長く在位している天皇は武烈であることがわかる。

  • 71-130 (59)景行
  • 131-190 (59)成務
  • 空位
  • 192-200 (8)仲哀
  • 201-269 (68)神功
  • 270-310 (40)応神
  • 空位
  • 313-399 (86)仁徳
  • 400-405 履中
  • 406-410 反正
  • 空位
  • 412-453 (41)允恭
  • 454-456 安康
  • 457-479 (22)雄略
  • 480-484 清寧
  • 485-487 顕宗
  • 488-498 (10)仁賢
  • 499-506 (7)武烈
そこから遡っていくと興は雄略、済と珍と讃は允恭となる。允恭は41年間の在位。その間に名前を換えながら遣使して倭王、将軍として認められようってどういうことか?
仮に41年在位してその間に後の将軍職のように武力を持って政治をする役職が別に居たのならそいつの役職を中華王朝に求めていてもおかしくない。国際問題だし。
つまり、王と天皇は別の役職というわけか。

漢字一文字の名前の百済王は聖王(523-554)から後しかない。年代を対応させると

  • (420-427)久尓辛王
  • (427-455)毗有王
  • (455-475)蓋鹵王
  • (475-477)文周王
  • (477-479)三斤王
  • (479-501)東城王
  • (501-523)武寧王

武は三斤王、東城王、武寧王、興は蓋鹵王、文周王、済は毗有王、讃は久尓辛王、毗有王となりこれも合わない。最後の武だけ合ってる。

天皇と別の王という地位は征夷大将軍のようなもので武力を持って政治を行うというものか。邪馬台国で言えば卑弥呼とその弟のような。倭国でいえば阿毎多利思比弧の兄と弟とか。隋の皇帝に道理がないからやめろと言われた理由は仏教を取り入れた先進国で占いや呪術、神がかりによって政治を左右するやり方は原因と結果の法則性によって再現性のある科学的手法ではないからやめろということではないか。

推古の時は聖徳太子=阿毎多利思比弧と蘇我馬子が王の役割で、政治を担当した多利思比弧は出身母体の蘇我氏の武力を背景に憲政を振るったわけか。
王は実際の職務の責任者だから効果のある手法を振るう必要があった。そのため先進国の智慧を積極的に借りようとした。しかし保守は大転換には抵抗した。

天智は自らが王となって天皇を祭りあげて政務を行った。それは皇族以外の勢力が政治を手動していた状況を苦々しく思った保守派を代表していたからか。当時勢力の強かったグループを政権から遠ざけだが、結局は仏教の科学的手法や中華帝国の先進的手法を取り込んだ。だから帰化人の地位が政権内で向上し、保守派はまた不満を感じた。

巫女として天皇から最大の権力者としての天皇(中華帝国の皇帝のように)にするため皇族を手下にし、それに準じて壬申の乱で効のあった氏族を武力の背景にしたか。これによって一層中華化が進んだ。この体制を維持するために都合の悪い歴史を後世に残さないために歴史を改竄した。

狗邪韓国

”くやかんこく”倭と関係が深かった朝鮮半島の国。

朝鮮半島南部にあってそこから海を渡って対馬へ行くという航路だった。

 Wikipedia: 狗邪韓国

三国史では”倭の北岸”と書かれている。

かつて日本に三韓楽が伝わったらしい。この韓は馬韓、辰韓、弁韓なのか、百済、新羅、高麗なのか?

Wikipedia: 弁韓 に都市のリストがある。

  1. 弁辰彌離彌凍国
  2. 弁辰接塗国
  3. 弁辰古資彌凍国
  4. 弁辰古淳是国
  5. 弁辰半路国
  6. 弁辰楽奴国
  7. 弁辰彌烏邪馬国
  8. 弁辰甘路国
  9. 弁辰狗邪国
  10. 弁辰走漕馬国
  11. 弁辰安邪国
  12. 弁辰瀆盧国
9番めが狗邪韓国っぽい。この国名って日本の国名みたいに漢字で当て字にしているように見える。先頭の弁辰っていうのは弁韓、辰韓の弁辰と思われる。

神功皇后の三韓征伐で征服した都市名のリストも掲載されている。

  1. 比自㶱(ひじほ)
  2. 南加羅(ありひしのから)
  3. 㖨国(とくのくに)
  4. 安羅(あら)
  5. 多羅(たら)
  6. 卓淳(たくじゅん)
  7. 加羅(から)
7番めの加羅って伽耶?

馬韓は54ヶ国からなっていた。
辰韓は12ヶ国。
  1. 已柢国(己柢国)
  2. 不斯国
  3. 勤耆国
  4. 弁辰彌離彌凍国
  5. 弁辰楽奴国
  6. 冉奚国
  7. 軍彌国
  8. 如湛国
  9. 戸路国
  10. 州鮮国(馬延国)
  11. 斯盧国
  12. 優由国
4と5は弁韓との共有地?

18 Aug 2021

天皇が地方征圧しに行くのおかしくない?

地方の小大名が京に攻め上るとか、近隣の戦で本陣に入るとかなら頭も動くだろうけど、信長が秀吉に地方征圧させてた時は、城に居たでしょ。

仲衰の九州征圧に天皇皇后が従軍しているのは神がかりして、神の意向を聞くためか。

未開のバカ丸出しだったか。

景光帝が倭建を仕わせた時は、どう考えていたのか?仏教が入ってきて科学的思考するようになったか?

百済の王の名前

東亜古代史研究所 塚田敬章 天皇号の成立 を読んでいる。

以前から不思議に思っていたのだが、百済の王の名前と日本の皇族の王の名前って似てる。

百済歴代王系図 に百済王の系図がある。

日本の○○王という名称は天皇の子女に用いられている。現行のルールでは3世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王としている。古くはもうちょっと緩かった。

Wikipedia:

Wikipedia: 親王

によると地名に王を加えるのは中国のルールらしい。日本はこれを導入したか?


李氏朝鮮では○○君を使っていたらしい。

弓月君(融通王)は秦の始皇帝の子孫で百済から帰化。120県の人民を率いて帰化した。

これって秦王国作れそう。

17 Aug 2021

隋書 倭国伝

 隋書俀(倭)国伝


多利思比孤が隋へ親書を送った際のことが隋書に書かれている。

その中の

”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出ると事務処理をやめ、我が弟に委ねようといいます。” 高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、さとしてこれを改めさせた。

の部分がよく分からない。”天を兄”とは王が兄弟で兄が阿毎氏、弟が日氏なのでは?

これでいくと卑弥呼は日氏の巫女となる。日氏については今適当に思いついただけで何の根拠もない。

卑弥呼が死んだ後、台与が女王になった。この漢字は当然日本語の発音に漢字を当てたものだから”とよ”とは豊。九州の豊国を示す。九州の地方は筑紫国日別、豊国日別とか日別をつけていたらしい。

Wikipedia: 豊日別

楽器について書かれているのは知らなかった。

”楽は五絃、琴、笛有り。男女は黥臂、点面、文身多し。水に没し、魚を捕る。文字無く、ただ木を刻み、縄を結う。仏法を敬い、百済に仏経を求め得て、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。”

遣隋使の時に五弦の琴を献上した。隋ではもう存在しない古いタイプのものだったので貴重だから倭国楽として宴会用の音楽に組み込まれた。上記の隋書を解説しているサイトでは五弦を琵琶と訳している。5弦琵琶は存在するのだが。

百済に仏教を求めていたらしい。

刺青をしているのが、長江下流域の呉、越など倭人と呼ばれた人たちの習慣に似ている。


阿蘇山があると言っているので明らかに九州。

608の遣隋使に対して裴世清が派遣され、倭国への道のりが書かれている。

”明年、上は文林郎の裴清を俀国へ使わしむ。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思えらくは夷洲。疑いは明らかにすること能わず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。”


耽羅楽というのが倭国にも伝わったらしい。多分済州島の音楽だろうが、現存するどの曲がそれなのか不明。

筑紫を通り越して秦王国に至っている。そしてそこの人は中華人と同じ。これに驚いている様子。筑紫の東に中華人の国があったのだろう。ここからさらに10数国を経ると海岸に達する。筑紫国より東は倭に付属する。地図で見ると山間部が多い。しかし10数国を経て海岸に達するのだから、海岸線を歩いていったわけではない。

対馬、壱岐、筑紫というだいたいの位置関係を延長して東方向に進んでみる。

平地をつたっていくと筑紫、飯塚、田川、行橋

または、筑紫、朝倉、うきは市、日田市、湯布院、別府市(由布市、大分市)


仏教に厚く、冠位12階を設定したのは倭王多利思比孤で推古帝の摂政の聖徳太子として設定された。邪馬台国で例えれば、卑弥呼の弟。

推古帝は巫女だろう。邪馬台国の卑弥呼。

??

秦王国の首都が邪馬台なのか?中華人が朝廷を作ったのか?文化を真似ただけか?

中華人なので漢字を和語の音に当てたか?

聖徳太子は何者か

 この聖徳太子の詔によって仏教の供養に舞楽が用いられた。その舞楽が伎楽と思われる。

Wikipedia:多利思比孤

隋書に記されている。記紀には出てこない。

600と607に遣隋使を初めて送ったのは、倭国王阿毎多利思比狐で、その親書が”日出處天子致書日沒處天子無恙云云”。仏教に熱心。

冠位12階を定めたのも多利子比孤の業績。兄弟で統治していた。やまとに住んでいて、噴火している阿蘇山があって筑紫の東には秦王国(中華人と同じ)があった。筑紫から東は全て倭。筑紫までは倭じゃないのか?

新唐書では多利思比孤を用明帝としている。


Wikipedia: 欽明天皇(539-571)用明の父。和名:天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)

Wikipedia: 敏達天皇(572-585)廃仏派。

Wikipedia: 用明天皇(585-587)和名:橘豊日天皇

用明帝は仏教を重んじて仏教隆盛の元を作った。2年しか在位していない。遣隋使は用明の在位中ではないので多利思比孤は用明ではない。(新唐書は誤り)子供は男子が4人いた(聖徳太子 和名:豊聡耳(574-622)を含む)。

Wikipedia: 崇峻天皇(587-592)蘇我馬子に擁立されるが、後に東漢磐井の子東漢駒(やまとのあやのこま)に殺される。東漢氏渡来系。倭漢氏とも書く。後漢霊帝の子孫(?)を標榜。

Wikipedia: 推古天皇(593-628)多利思比孤が遣隋使を送った年代に合う天皇。女性。和名が豊御食炊屋姫尊。外宮の祭神?豊浦の宮に住む。これは北九州が目と鼻の先の本州側。浦は入江だから奈良ではない。小墾田宮(橿原神宮近く)を造営して居を移した。これが遷都の始まりで、多利思比孤も奈良へ移ったか?

Wikipedia: 倭の六県:馬子が推古から貰い受けようと要求した奈良盆地の大王直轄地。

多利思比孤は倭国王なのだが、推古帝の摂政の聖徳太子として書かれている。九州王朝の王だったが王族としての身分を保証することを条件に本州の王朝に合流したのでは。こうして倭国の政治体制の近代化がなされたか。

Wikipedia: 遣隋使 600-618 日本という名称が使用されるのは遣唐使(630-894)からなので倭国として行っている。推古帝は倭国の女王か。

620 聖徳太子と馬子が『天皇記』『国記』を編纂し献上。

622 太子49歳で死去(574-622)

626 馬子死去(551-626)

Wikipedia:舒明天皇(629-641)和名:息長足日広額 蝦夷によって擁立

Wikipedia:皇極天皇(642-645)和名:天豊財重日足姫 次の天皇が決まらなかったので舒明の皇后が続投。

蘇我氏の傍流が山背大兄を擁立したが、本流の入鹿は蘇我系の古人大兄皇子を擁立し、皇位継承において邪魔になる山背大兄とその一族の住む斑鳩宮を攻めた。結果山背大兄とその一族は自決(643)。

645 乙巳の変 中大兄皇子 (和名:天命開別)らが入鹿を殺害。蝦夷自害。

Wikipedia:孝徳天皇(645-654)(和名:天万豊日) 中大兄(妻は倭姫王)が擁立。自身が皇太子となって有力勢力を一掃。

654 孝徳病死

Wikipedia:斉明天皇(655-661)

661 斉明死亡

663 百済復興のため筑紫に移り白村江で戦うが敗戦。

667 近江大津宮へ遷都

672 病死?

壬申の乱で大海人が勝利し、即位。

Wikipedia:天武天皇(673-686)和名:天渟中原瀛真人 飛鳥浄御原宮造営。記紀の編纂。

国号を日本に変更。天皇号を使用し始めた。


近畿の朝廷を大和朝廷と読んだり、邪馬台国があったりするのは首都を”やまと”と呼ぶ倭人の習慣ではないのか。


大王が近畿と九州を行き来きしているのがおもしろい。


天皇の万世一系は嘘ではないか。倭の諸国が連合し、それぞれの国から適格者を大王として擁立していたのでは。卑弥呼もかつて九州倭国30国の王として擁立された。

天皇皇后の和風諡号には出身母体のヒントが残っている場合があり、豊の字が入っているのは九州王朝なのではないか?天地と天武は自分で和風諡号を変えたのではないか?

多利思比孤は九州王朝”倭”の王で本州勢力に加わったのだが、次の代には一族が滅ぼされた。

中大兄皇子は九州倭国に対してその王の一族を滅ぼしてしまったことを償うため、入鹿を討ち、豊の字を持つ孝徳を皇位につけ、自身は皇太子の地位に身を置いて政務をこなしたのでは?

天武は九州側と本州側の皇位争いに決別して中華的に武力によって皇位についた。中華狂いだったのでは。彼の作った歴史書が今も用いられて影響力を発揮している。


九州北部の寺が移築されたという説。

九州災害履歴情報データベース

679 福岡熊本長崎 地震

684 大分 地震

742 鹿児島 地震

744 肥後 地震

746 鹿児島宮崎 洪水

766 鹿児島 地震

788 鹿児島 噴火地震

867 熊本 噴火地震

870 熊本 地震

874 鹿児島 噴火

887 宮崎 地震津波

1172 長崎県 土砂災害

1271 熊本 地震 火山

16 Aug 2021

雅楽の古譜を読む:阿夜岐利 高麗壱越調 2

 ”あやぎり”と読む。

日本の雅楽の右方楽に分類されている曲。

以前に記事に書いた。

雅楽の古譜を読む:阿夜岐利 高麗壱越調

Youtubeでアルファベットで検索してみたらインドの音楽が引っかかってきた。

AyagiriとかAigiriとか綴っている。

”Ayagiri Nandini”と歌い始まるこの曲。

踊りがついているのもある。


これとは別の動画で冒頭が拍子のない序奏のように奏でられているのもあった。

雅楽の阿夜岐利は女面をつけて舞う。右方楽には仏教系の舞曲と思われるものが幾つもある。左方楽にもあってそれらは林邑楽といってヴェトナム辺りにあったチャンパという国からもたらされた。752の大仏開眼供養で演奏された。

阿夜伎利は能の女舞の面に引き継がれ、さらにはおかめひょっとこのおかめの面になったと考えられている。
その元がヴィシュヌ神を讃えるインドのラップ(声明)だったとは。。確定ではないが。

ヴィシュヌ神は仏教を守護する神とされているらしい。原始仏典では見たことない名前だ。

聖徳太子が”諸仏の供養に楽を用いよ”と詔したのは、インドの宗教の習慣の影響なのか。

現代のインド映画でもダンスは欠かせない要素らしい。

実におもしろい。

Youtubeに現代の雅楽の綾切があった。

2倍速再生にしてもまだまだ遅いと思う。少なくとも4倍必要なのでは。現代の雅楽は明治にアレンジされたもの。テンポは政府が再三にわたってゆっくり演奏するよう要請したため超遅い。荘厳に聞こえるようにして国の権威を上げたかったらしい。

そんなハッタリ止めてほしい。科学教育やってるのに国家財政でまかなわれてる雅楽がハッタリってどういうことだ!!

僕が古譜を読んで適当なテンポを設定したもの。


オリジナルと思われるインドのとは随分違っている。ずっと旋律が音楽的。

雅楽の古譜を読む:柳花苑 双調

 ”りゅうかえん”と読む。

鎌倉時代に書かれた音楽書教訓抄によると元は”柳花怨”と書いていたとある。この曲をG Ionianで演奏すると呪っているような感じがしないでもない。


笙という楽器は1つの音毎に対応する管がある。つまり出せる音があらかじめ決まっている。

笙で出せる音にはFがない。したがって双調というGを主音にする調の音階はG IonianかG Lydianになる。
2021年9月6日 G Mixolydianも可能性がある。笙でF#を使わないという手もある。明るい調だろうから、G Dorianはない。

現代の長調短調のように明るい音階と暗い音階が雅楽にもある。それらは西洋音楽の教会旋法と同じ音階構成なので、それを用いて表すことができる。
  • 明るい調:MixolydianとLydian
  • 暗い調:はDorian
Mixolydianは長調の音階の第7音が半音下がっている。Gを主音とすればFが用いられていることになる。
笙にはFはないが、F#はある。そこでG MixolydianのFをF#に変更するとG Ionianになる。これは現在の長調の音階と同じ。しかしながら雅楽の理論には長調の音階はない。Gを主音としてF#を持っている調を検討するとG Lydianになる。
これはG major scale = Ionianの第4音を半音上げた音階。Natural CがC#になる。笙はこの音を持っている。したがって双調はG Lydianと想定できる。

今回読んだ曲の琵琶譜はG Lydianで書かれている。しかし途中に短いがNatural Cが用いられている。
一方で笙の譜はG Ionianで書かれている。

残りの笛たちは音程を操作できるし、箏も左手で弦を押したり、摘んで浮かせたりして音程を操作できる。のでこれらの譜から双調の音階を正確に想定できない。よって音階を正確に推定できるのは琵琶譜と笙譜からだけである。
その2つの譜が異なる調性で書かれている。
それぞれを聞き比べてみるために作ったのが次の動画。


まず琵琶譜通りにG Lydianベースの音階で。
次に笙譜通りにG Ionianの音階で。

次に楽拍子バージョンで。

G Ionianでの演奏は暗い感じがする。これが”柳花怨”と書いた理由だろうか?
G Lydianでの演奏は終始明るい感じがする。

この曲には舞がついており、女性が舞う。国会図書館のデジタルコレクションに信西古楽図があり、その14ページに絵が掲載されている。その絵からは”怨”を表すようには見えない。


双調には他にもう1曲ある。春庭楽。この曲についても以前に記事を書いた。


この記事では双調をG Ionianではないかと考えている。
そして今回の記事ではG Lydianではないかと。しかし春庭楽をLydianで聞いてみるとおかしい。

双調はCとC#をどちらも含んでいる調なのか。


結局のところ琵琶譜の音階がしっくりくる。

横笛や篳篥はNatural CをC#、GをG#にすることを示す記号がない。
これは箏も同じで深く押して全音上げることを示す記号がない。

テンポはDr. Laurence Pickenの研究に従って、現在よりも少なくとも4倍速く設定している。
アンサンブルを精密にするために四分音符を4分割してカウントするという手法が、雅楽では歴史的に勘違いされて、少なくとも4倍遅いテンポになってしまったように見える。

演奏のセンスがあれば、すぐ気づくと思うのだが、少なくとも明治以降このテンポの問題が改善されないまま続いている。バカだね。

15 Aug 2021

獲加多支鹵大王と彫り込まれている鉄剣

 Youtubeの妄想歴史探索で興味深い点があった。

【ゆっくり解説】空白の150年 倭の五王の正体とは⁉


埼玉県の稲荷山古墳から出土したもの鉄剣に文字が彫り込まれていた。その文字の中に”獲加多支鹵大王”とあった。

熊本県玉名郡和水町江田船山古墳から出土した鉄剣にも同じ文字があった。

これをワカタケル大王と読んで雄略天皇に比定する説が有力。

5世紀後半にワカタケル大王の権力が九州から東国まで及んでいたと考えられている。


上の動画では、8:46百済の蓋鹵王(455-475)ではないかと言っている。見慣れない漢字は当てはまる。

この王を最後に高句麗に攻められていったん百済は滅亡したと考えられている。


倭の五王によると武の外交記録は478-502で蓋鹵王が死んだ後。これでは当人とは言えない。

この時代の倭王が漢字一文字の名を使っているのがおもしろい。中華名でも国王の名を漢字一文字で表すことがあるのだろうか?

大陸から移住してきた団体が集団で反乱するということがしばしばあったらしい。それでそれらの団体を分割して地方にバラバラに住まわせるということをした。

この鉄剣を持つ百済系のグループは分割されて、九州と埼玉に住まわされたのではないか。他国の人とはいえ、高貴な身分だったので武器を奪わなかったとか。


九州王朝説が興味深いので動画を見ている。考古学的事実として九州北部に古い寺の跡(基礎)がたくさんあるが、建物が発掘されていない。これらの建物が近畿へ移されたという説。

これの変なところは九州から大規模に近畿へ移住したのだが、記紀にはそれが書かれていないところ。


邪馬台国の刺青文化と南方の中華国呉の刺青の習慣がおもしろい。また卑弥呼の墓は殉葬されたらしい。鬼道は当時の大陸にもあった。

稲作は6000年前に岡山で行われていたらしい。

水稲は1100年前から始まった。

長江下流の河姆渡文化(5000-4500)では水稲を栽培してた。ここから出土する土笛が弥生時代末期の北九州ー出雲ー能登あたりから100個位出土している。

長江下流の呉はB.C.585-B.C.473。倭人はこの国の太伯の子孫と言っている。全身に刺青。

越B.C.600-B.C.306。銅の精錬技術高い。上半身刺青。

倭人の絵が残っている。職貢図という。6世紀に描かれた。倭人の服装は肌の露出多いし、貫頭衣じゃない。説明文は魏志倭人伝のそれらしい。

九州王朝は中華人を含んでいたのではないか。だから漢字一文字の中華っぽい名前を使うグループもいた。一方で卑弥呼とか倭名を使うグループもいた。邪馬台国は倭人の小国を30国ほどまとめた連合国だったわけだから、考えられる。

大陸のような国同士の戦争が日本でも行われていたのは当然と思う。中華人が移住してきていたのだから。

飛鳥ー奈良時代の遷都

古代の歴史に興味がある。612 or 620に伎楽が伝来している。これに獅子舞が含まれている。その頃の情勢がどんなものだったか。

古田武彦氏の九州王朝説がなかなかおもしろい。この系統の福永晋三氏の説もおもしろい。

日本の天皇が万世一系で直系男子にだけ受け継がれてきたものではない可能性を指摘している。王年代記に”神功天皇”とあったり、紀氏がでてくるのもおもしろい。

平安京以降は明治の東京遷都まで変わらないのだが、それ以前の遷都がめまぐるしいのを思い出した。

遷都変遷年表

ネットに年表あった。飛鳥ー奈良時代の遷都が半端ない。国政に関わる人もたくさんいただろうから、勤務する場所は大きかっただろうし、その近くに住んでいただろう。

頻繁に都市が移っていて国政などまともにできるのだろうか?

平安京以後は福原京程度。平清盛が実権を握っていた時のもの。こういう感じで実権を握ったものが自分の本拠地を築いて遷都していたのではないのか。

宮都の変遷

古代都市の地図でみてみると飛鳥諸宮と藤原京、平安京と長岡京、難波宮と3つに分かれているように見える。平城京はそれらから等距離にある。


九州王朝から近畿王朝へ代わったところがよくわからない。九州で疫病が流行ったという記事が書いてあるらしいが、その後北九州の仏閣が移築されたところが書かれていない。

10 Aug 2021

雅楽の古譜を読む:皇帝破陣楽 壱越調

 ”おうだいはじんらく”と読む。

”こうてい”は漢音で”おうだい”が呉音らしい。しかし呉程古くないらしい。


団乱旋がNatural Cの代わりにC#を使っていたので、これも純な壱越調ではないかと勘ぐっていたが、純な壱越調でした。


以外にご機嫌な曲。しかし変則的に拍子が代わる箇所がある。”皇帝”とタイトルに付くからといって荘厳な曲想という感じがない。


これは他の曲においても同じ。
皇帝の威厳を高めるとかそんな感じがほとんどない。

日本は明治に雅楽を改造して、政府がテンポを落として荘厳に聞こえるようにと何度も要請して今みたいなつまらない音楽になってしまった。退屈で聞いてられない。

日本には幸いにして古い楽譜が残っている。江戸時代に写されたものがある。それらを読んで明治の編曲以前の雅楽の姿がどんなものだったのかを知るのがこのプロジェクトである。

読めそうな楽譜はだいたい読んだ。

現状のつまらない雅楽を止めて、ご機嫌だった頃の雅楽に戻ってはどうか。

実力のない空威張りの空虚な響きなど、屑過ぎて聞いていられない。そんなものに何の魅力があるだろうか。


7 Aug 2021

雅楽の古譜を読む:団乱旋

 ”とらんでん”

この曲は序が数回繰り替えされる。その序が一定の拍子がある部分+一定の拍子がない部分(通常の序)で構成されているのが珍しい。

この曲は壱越調に属している。その調で読んで音源にしたのが下の動画。

D Mixolydian / 壱越調

以前に読んだ時は琵琶の譜の調性に合わせていたのでD Lydianだった。

今回は笙の譜面を読んだ。それはD Mixolydianで書かれていた。

壱越調はD Mixolydian。この曲はその調に属するのでD Mixolydianで演奏されるハズ。

今回の動画ではD Mixolydianで演奏させている。冒頭と入破が特におかしいと思う。Natural Cに違和感がある。旋律旋がスムーズでないし。

C#に変更すると聞きやすくなる。特に入破の前半部分。CとC#を交互に使いわける曲なのではないだろうか?

そういった例として喜春楽がある。


CとC#を使い分けたりして実験してみた結果、C#を専ら使ってD Ionianで演奏させると明るい曲調が全体的に維持されることがわかった。

D Ionian


この曲を最初に読んだ時は、琵琶がD Lydian / 沙陀調で書かれていたので、D Lydianで音源を作っていた。

D Lydian

この団乱旋という曲は元は中華曲ではないのでは?
タイトルも中華曲っぽくないし。仕立て直したものか?
壱越調の大曲の2曲目が壱越調から外れているのは意外だった。日本の雅楽の調性は中華の学理にのっとっているが、伝来して残存し、まとめられるまで残った楽曲はその中華の学理で作られたものだけではなかったということか。