21 Aug 2021

弓月君から

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧によると応神天皇14年は西暦283。
この年弓月君(融通王)はに百済から来朝して倭に帰化を願い出た。

Wikipedia: 弓月君によると秦の始皇帝の子孫とある。百済の120県(自治体の単位?)を率いて帰化した。

かなりの大規模と考えられる。何故こんな規模で帰化したのか?

弓月君は朝鮮半島ではどういったことをしていたのか?

Wikipedia: 馬韓
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。
秦の民は朝鮮半島まで流れてきて、馬韓によって半島の東側をゆずってもらって住んでいた。辰韓と呼ばれていた。この地域の王は馬韓人が歴任した。
馬韓には54ヶ国あった。
234-286 古爾王の時に伯済国が中心になってらしい。この馬韓の中には目支国(月支国)(ハングルなので日本語翻訳で読んだ)があり、この国が辰韓の王を歴任していた。Wikipediaによると目支国が実際に半島から消えたのはこの時期かどうかはっきりしない。

後漢書韓伝から引用
みないにしえの辰国である。馬韓が最大。その種族の者を共立して辰王と為し、目支国(魏志では月支国、転写間違いと考えられる)に都を置いている。王は三韓の地にいなくなった。その諸国王の祖先はみな馬韓の種族であった。

国は鉄を産出し、濊、倭、馬韓は皆たよっている。市のすべての商品は鉄を貨幣がわりにして交易される。

その風俗では、歌舞、飲酒、鼓瑟を喜ぶ。子が生まれるとその頭を平たくしようとする。みな石でこれを押す。

有明海沿岸の熊本県玉名郡和水町瀬川のトンカラリンの周辺の前原長溝遺跡から変形頭蓋骨が発掘された。これって辰国の習慣か?

Wikipedia: 弓月君の考証によると
弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。天皇家に協力して朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献したとされている。

島津系図に融通王(弓月君)がある。秦河勝が聖徳太子に使えている。融通王の次のが竺達王(208)って。融通王は2回掲載されている。後者は融通王(356)。

まとめ
秦の始皇帝の子孫と民は朝鮮半島へ渡ってきた。馬韓は半島の東側を民に当てがい辰韓とした。皇帝の子孫は馬韓内の月支国を作り、辰韓の王となった。
馬韓の伯済国が中心になって勢力が拡大され、月支国は敵対勢力となった。穀物生産と養蚕を生業にしていた辰韓12ヶ国VS馬韓54ヶ国では勝てないので隣接していた倭に亡命しようとした。新羅は国の産業をまかなっていた集団が無くなるのは困るので妨害していた。

倭の助けを借りて半島からも逃れることができた。そして豊前に秦王国として国を作った。王族は隣の筑紫に住み、竺達王と名乗った。

多利思比弧が遣隋使をやった時、”天を兄とし、日を弟とした。”とある。日は豊日別で実務担当。天は月支で神事担当の意味ではないか。
月読神社は弓月君と関係があるのでは?
北九州にある月読神社は壱岐、筑後に多い。豊後にもある。

九州には君、公を姓に持つ氏族が多い。これは元は大陸から渡ってきた王族に分け与えられた島だったからではないか。本州勢力に反抗するようになったので、征伐し、本州勢力の王家の血筋の者を派遣して治めようとしたから君・公の姓が多くなったとか。

秦氏が小分けされて全国に散ったのは筑紫が本州勢力に反抗したからで、その勢力を小さくするために分割した。そして半島との鉄の交易権を奪取した。
秦氏が地方に散ったことで、優れた文化が地方に散り、地方の文化レベルが上がるので本州勢力としては一石二鳥。

倭の五王は松野連系図によると長江下流の狗呉の子孫だが、倭語の名前から漢字一時の名前になるところがおかしいと思う。