23 Aug 2021

 朝鮮半島にWikipedia:箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年))があった。

Wikipedia:箕子朝鮮によると
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

漢書によると
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。

史記によると

殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

再びWikipedia:箕子朝鮮によると

秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。

魏志韓伝によると

(朝鮮)侯の(箕)淮は勝手に王を称していたが、燕からの亡命人、衛満が攻撃して奪うところとなり、その左右の宮廷人を率いて海に逃がれ、韓の地に居住して自ら韓王と号した。その後裔は絶滅したが、今でも韓人でその祭祀を奉る者がいる。漢の時は楽浪郡に属し、季節毎に朝謁した。

後漢書によると上記の韓王になる下りが詳しい。

『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。

馬韓内の伯済国が後に百済になる。三国史の百済のところは日本の記録と合う箇所がある。新羅は基本的に合わない。

このサイトの著者の解説が次。

馬韓の箕氏を滅ぼしたのは魏の楽浪、帯方二郡で、魏志三少帝紀、正始七年(246)に「韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて落ち降った。」

この数十ヶ国は馬韓だけでなく辰韓の国々も含む。

この時の数十ヶ国が弓月君が率いてきた120県ではないか?


Wikipedia: によると

現代の考古学調査によると、殷は占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要とした。中国の文字である漢字は、骨に刻むための象形文字として始まった。これまでに(2012年現在)、少なくとも14000体の殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘されており、それらは殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され、献上された人身御供であった。

倭も生口を中華帝国に献上していた。殷程古くはないが。この人身御供の手法はその後中華圏で用いられたのだろうか?

後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。

Wikipedia: 殷に系図がある。29代の隣に箕氏が書かれている。箕氏朝鮮は殷の王の系譜か。

仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。


上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話(十日神話)は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落される(射日神話)のは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。


倭と百済が仲良かったのは、この王族を共有していたからではないのか?


Wikipedia: 羿によると

天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。

Wikipedia: 三足烏
東アジア地域の神話や絵画などに見られる伝説の生き物である。この烏は太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴であった。最も古い考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域にさかのぼる。

先の9の太陽に住む9の烏を射落としたとしているものもある。
淮南子(えなんじ)という思想書。(著者:劉安(B.C.179-B.C.122))日本には古くから入っていた。

昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという

とか

天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」

日本書紀の初めの
古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。

羿の奥さん嫦娥が夫の分の不死の薬を飲んで月宮殿に逃げてヒキガエルになった。。

離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。

帝夋(ていしゅん)は、上古の中国神話に登場する東方の天帝(帝舜と同じといわれる殷の祖神)。帝俊とも書く。羲和(太陽の女神)と常羲(月の女神)は帝夋の妻である。

政治もおもしろい。殷王は神界と人界を行き来できるシャーマン。

殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。


魏志韓伝の馬韓の習俗の説明には

五月に種まきが終わると鬼神を祭る。群衆は歌って舞い、酒を飲み、昼夜休まない。その舞いは、数十人がいっしょに立ち、円形に一列になって地を踏む。手を下げたり上げたりし、足もそれに合わせてうごく。節回しは(中国、漢の)鐸舞に似たところがある。十月に収穫が終わるとまたこのようなことを繰り返す。

鬼神を信じ、主邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる。これを天君と名づけている。また、諸国にはそれぞれ特別な集落があり、これを名づけて蘇塗(ソト)とする。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える。さまざまな理由で隠れたり逃げたりしてその中に至ったものは皆これを引き渡さず、好んで賊を作っている。その蘇塗を立てる意義は仏教の寺に似たところがあるが、行いの善悪に違いがある。その(馬韓の)北方は(中国の)郡諸国に近く、やや礼に通じているが、遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しい。

  • 自治体の単位が邑となっている。
  • 主邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる
  • 鬼神を信じる。
これって殷の信仰を引き継いでいるということでは。

日本の天皇が天照の子孫としているのは殷の信仰が引き継がれているからでは。
殷の王族の1つが月支国で、その中で秦の労役から逃亡してきた人々を束ねる王が選ばれていた。つまり弓月君は秦の皇帝の子孫ではなくて殷の王族の子孫か?
朝鮮半島で辰韓の王となっていたから辰の王だっただけで、秦の始皇帝の子孫ではないのか。

単に淮南子の影響か?

青銅器の生産と加工が盛んであり、遺跡からは動物を模ったものが大量に出土

婦好は、商王武丁の妻の一人で、紀元前12世紀前半、祭祀や卜占をつかさどるとともに、軍を率いて周辺の他民族を討伐し、大いに功績をあげた、その業績は、甲骨の卜辞に記載されている。婦好の死を悲しんだ武丁は、現在の河南省安陽市小屯村に婦好の墓を造った。1976年、この墓はほぼ完全な形で発見され、大量の玉器や宝石などが出土したのである。

また商代は、神権と王権を同じように重んずる時代で、神権と軍権がともに女性の手に握られていたことも付け加えておかなくてはならない。考古学的には、今までのところ、商王が用いた鼎はまだ発見されていない。これは商代には、司母だけが神器である鼎を使う権力を持っていたことを説明している。

商代の人々は女神を信仰していた。それは原始的な女性崇拝で、すなわち現代で広く認められている「薩満」(シャーマン)である。現存しているシャーマニズムでは、女性祭司は唯一な権威であり、鬼神に通じる巫女である。祭祀の際には歌いながら踊る。

商代の人々は女神を信仰していた。それは原始的な女性崇拝で、すなわち現代で広く認められている「薩満」(シャーマン)である。現存しているシャーマニズムでは、女性祭司は唯一な権威であり、鬼神に通じる巫女である。祭祀の際には歌いながら踊る。

商の時代、「司母」は軍隊を統率する権力を持っていた。それは「司母」の名に、「天の兵」を意味する「天干」が用いられていることからわかる。婦好墓から出土した甲骨文には、はっきりとこのように記載されている。


婦好は、商王の命を奉じて、兵を募集し、数回征戦し、中原を平定した。また大軍を率いて、「巴」を征伐するため、殷(今の河南省安陽)から出発し、黄河を渡り、数千里を長駆、急襲し、長江・漢水流域を攻撃して、ついに巴人を打ち負かした。