28 Nov 2021

雅楽の古譜を読む:東遊歌

 ”あずまあそびうた”

8世紀頃から演奏されていたらしい。

戦国時代に宮中の雅楽が演奏されなくなって断絶していた。江戸時代に復元した。

多家秘書に含まれている多家秘譜に掲載されている。

古代の関東地方の民謡を集めて組曲に仕立て上げたもの。歌はとんでもなく技巧的でモーツァルトのアリアを聞いているかの様。




これほどの歌は現代の雅楽の演奏者では不可能と思う。全然異質。民謡歌手の方にずっと近い。江戸時代の復興によって装飾が過多になったのではないだろうか?もうちょっとシンプルでも良いと思う。

医療が発達しておらず、疫病でどんどん人が死んでいったことも多かった時代にこんな明るい音楽があって、しかも公式行事に用いられていたとは。この歌詞で!!(驚)現代の厳粛な神道とは全く違う。

Youtubeには東遊歌の動画があるが、古譜とは全然違う。よくもそこまで変えて平気で演奏しているのはやはり神道の宗教家だからだろう。宗教なんてハッタリです。

古代はなんと生き生きしていたことか。それに比べて現代の雅楽のなんとつまらないことか。現代の雅楽は一掃して古代に返った方が、どれだけ人の心に潤いをもたらすことか。

日本はルネサンスが必要と思う。

現代の雅楽を支持している奴らはどういうつもりなのだろうか?雅楽家として飯が食えるように格調高く見せたいのだろうか?

ハッタリも大概にして欲しい。

24 Nov 2021

雅楽の古譜を読む:神楽歌の譜

 神歌抄

国会図書館の検索システムで検索するとColBase 国立文化財機構所蔵品総合検索システムへのリンクが出てくる。そのリンク先で一括ダウンロードできる。

神歌抄/毛詩並毛詩正義大雅残巻(紙背)国立文化財機構所蔵品総合検索システム


神楽和琴秘譜

国会図書館に本があるようだが

21 Nov 2021

催馬楽 桜人

桜人保存会

によると催馬楽の桜人という曲が名古屋市の指定無形文化財に登録されている。

名古屋市中村図書館に”桜人考”という本が所蔵されている。

  • 桜人考 魚山寺蔵版 羽塚堅子
この著者の羽塚さんが現行の桜人の譜を作った。そのいきさつと譜が書かれている。昭和五十年の著作。

昭和三十年(1955)頃、近隣に住む文学者の尾崎久弥さんが突然尋ねてきて、当時の市長小林さんが信州で発見した桜人という曲を演奏して欲しいと依頼があった。

信州で譜を所蔵していたのは平出久雄さん。この方に羽塚さんは手紙を書いて譜について問い合わせた。そうして演奏できるように譜を清書して市へ提供した。
昭和三十一年に無形文化財の指定を受け、年々補助金をもらって継承している。

文献によると高麗曲の地久の破に合うとのことで、この曲に桜人の歌詞を当てた楽譜が収録されている。明治撰定譜が用いられている。これは高麗双調。

次に著者の労作による双調の譜が掲載されている。この琵琶譜は三五要録の琵琶譜とは異なる。従って著者の労作は古譜とは異なるものと思われる。箏譜も掲載されており、それも仁智要録とは異なる。

この本では平出久雄さんの源家の桜人の譜を掲載している。そして藤家の譜は著者の手元にはないと言っている。三五要録には藤家の譜が掲載されているが、当時は三五要録を参照することができなかったのか?

先に述べた平出さん所蔵の源家の譜を写したものが掲載されている。この譜は歌詞に音程を示す漢字や音程の上下を示す線が書き足されたもの。多家の歌譜や神楽歌の譜に見られるスタイル。

明治撰定譜の地久の破はMIDIで再現されている音源がある。明治撰定譜というのは、明治時代に改めて撰定され、改変が加えられた譜。高度な奏法が排除されているため、古譜にある本来の音階ではない。


古譜を読んで再現した音源がこちら


桜人も古譜にある。古譜を読んで再現した音源がこちら




源家の譜は雅楽曲がそうであるように何倍もテンポを遅くして、荘厳に聞こえるように工夫されたもののように見える。古譜にはそこまで複雑な節回しは書かれていない。



16 Nov 2021

雅楽の古譜を読む:催馬楽の論文

 本塚 亘


田辺 尚雄
山﨑 薫
松沢 佳菜
池添 博彦

雅楽の古譜を読む:東遊歌など古譜

Jstageで検索すると出てくる論文にまとめられている。

風俗歌の古楽譜について《大鳥》の分析を例として 本塚 亘

承徳本古謡集は国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。


風俗譜(三五要録巻之十三)は東大史料編纂所のDBにある。

琵琶諸調子譜も東大史料編纂所のDBにある。


龍笛譜「安倍家蔵」は上野学園大学日本音楽史研究所にあるそうだが、ここは遠隔コピーしてくれない。


多家秘譜は新日本古典籍総合データベースで見ることができる。

7 Nov 2021

雅楽の古譜を読む:新年

 ”しんねん”

旋律は安名尊、梅枝と同じ。


現在も演奏されている。

博雅会による安名尊の演奏


この曲は呂歌、G Mixolydianなのでやや長調よりの音階なのだが、この演奏は暗い。。。。さらに遅い。呪いでもかけるつもり!?という気味の悪さ。当の博雅会は古譜と異なる自分たちの演奏を伝承されたものとか日本人の好みに合わせて変わっていった結果とか言っているが本当にそうだろうか?こんな演奏聞いてもさっぱり今日生きてる尊さを感じないのだが。

雅楽が変質してきたのは、宴会様の曲を儀式に用いるために荘厳に聞かせようとして変に編曲してしまったのも一つの要因だろう。さらに宮廷で雇用されなくなった楽人が自分たちの才覚で食っていかなくてはいけなくなった時、音楽書を書き、自分たちの演奏を装飾で凝り固まらせて芸術的ハッタリをほどこさなくてはいけなかったことも要因だろう。大神系の笛譜はそのため非常に複雑に書かれていたりする。より原典に近いと思われる新撰笛譜では虚飾が無いシンプルな形で書かれていて、笛は独奏ではなく、箏や琵琶の旋律に寄り添うように演奏されたと思われる。

古譜を音源にした結果が次の動画。曲は新年。器楽はほとんど安名尊と同じ。

同じく梅枝。


古譜に書かれている雅楽曲はどの楽器も旋律を演奏している。古譜の歌譜には音程が書かれていないが、フレーズの長さと延ばす音は書かれており、箏、琵琶譜には歌詞が添えられている。歌の部分は箏琵琶の歌詞がついている箇所の音符を拾って、歌譜からフレーズを推定して復元している。

この方法によるとハミングで音程をいろいろと動く箇所が多い。Mozartの声楽のためのアリアを思わせる。本来どうだったのかはさっぱりわからない。


3 Nov 2021

雅楽の古譜を読む:山城

 ”やましろ”

この曲は明治選定譜に掲載されている。

明治選定譜というのは明治時代に選定、編曲された雅楽譜を言う。箏から左手の奏法が排された。

国文学研究資料館で明治選定譜が見れる。ネット越しでも可。

山城 明治選定譜

文化デジタルライブラリーで雅楽の歴史について書かれている。これによると江戸時代からの雅楽の演奏家の紅葉山楽人に加えてあらたに関西の三方楽所の楽人を加えたらしい。そして雅楽曲の解釈などを統一したできたものが明治選定譜だと。慎重に協議された結果が現在の雅楽とは片腹痛い。そんな程度が当時の日本の雅楽の演奏家だったということか。


Youtubeでも山城が演奏されている動画がある。


冒頭は似ているのだが、仁智と三五の両方でオクターブのジャンプが見られるのに、この動画の歌は同一のGを歌い続けている。その後は古譜に書かれていない節回しもあるし、テンポが遅すぎる。
この曲の歌詞は求婚を迫られた農家の乙女の心情が綴ったものである。上の動画からそんな乙女心を感じ取れるだろうか?

僕が仁智と三五を読んだ結果が次の動画。


歌譜には山城と真金吹の譜が無いのでフレーズの長さを推定できなかった。なので他の曲を参考にしてフレーズの長さを決めている。

雅楽の楽人達に雅楽曲の真の姿を探求する姿勢なんて皆無なのだろう。それっぽいものをでっち上げるのが彼らの職務なのだろう。

明治選定譜は歴史的改悪と思う。


2 Nov 2021

雅楽の古譜を読む:美作

 ”みまさか”と読む。

同じメロディを有している曲に藤生野”ふじふの”がある。

美作。


藤生野。


催馬楽篇その三によると注連縄を張ると家が栄える時がくるかもという内容らしい。神道を勧める歌か?

美作の方は浮き名は立たないだろうという内容。


国会図書館デジタルライブラリに催馬樂歌評釋がある。こちらでも解説が読める。こちらの藤生野の解説はおもしろい。藤原氏の女を嫁に取る内容だったりする。

日本史思いつき

 真日本史

Youtubeのチャンネルで史書に基づく歴史を解説しているチャンネル。史書が”時の権力者によって都合よく書かれている”ということをよく考慮すべきと思う。右翼過ぎる。

神代なんてものはない。人間の歴史しかありえない。古代は神官を最高位とする位科学的に盲目だった。現代でもそうだが、天皇家はバカばっかりじゃないのか?そんな奴らを最高位にするから、日本少林寺拳法を手下にして王族の子供達にリンチをしかけて服従させるという馬鹿げた行為を少なくとも昭和からやっていた。今の天皇もその首謀者だし、平成天皇はその前任者。今の天皇はさらに愚か者で自分以外の王族が成果を上げたり、上げそうだったりすると邪魔をしたり、成果を抹消したり、自分が何か手助けして自分の成果に加えようとする。自分だけでは対して成果の上げられない能無しであり、且つ他者を羨み、妬み、妨害する愚か者だったりする。それを巧みに嘘をついてごまかしている。こんな子供に育てたのは先代の天皇家で、母の美智子はそれまでの養育体制をやめて自分達で養育するとして精神の堕落した子供を育てあげ、今の天皇家の低堕落を計画的に成し遂げたのではないのか。彼女のバックはキリスト教なので、キリスト教による天皇家に対するテロ行為と思う。

まんまとひっかかった天皇家や宮内庁の愚かさには閉口。そんなやつらに国家最高権威させるべきじゃないと思う。


日本の史書は天武天皇の命により

712に古事記成立。

720に日本書紀成立。

これらより古いものもあったのだが、クーデターによって消失された。


神武東征ででてくる八咫烏は中国の漢以降の書物に出てくる三足烏(wikipedia)だと思われる。雅楽の左方楽のシンボルである三つ巴もこれから派生したものらしい。

三足烏についてはWikipediaに別にページがある。こっち。太陽に住んでいるとされている。紀元前5000年の中国揚子江下流域に最も古い考古学的遺品がある。

神武東征には中華帝国殷にまつわるシンボルが用いられて脚色されているのではないか。


記紀の脚色の例には他にも天孫降臨があげられる。これは612伝来の仏教系音楽劇の伎楽の道行(開演前に舞台のまわりを練り歩く)がモチーフとなっている。猿田彦は道行を先導するインド人仏教僧の知道(ちどう)の姿で描写されている。そして彼が天孫族を先導する。仏教僧に対して”若い女をあてがって落とす”というジョークが絵として残っているように、天之受女命に猿田彦を籠絡させている。


聖徳太子は摂政という地位でありながら仏教興隆の詔を出している。詔とは天皇しか出せないはずなのだが。その後の扱われ方からも特別な存在であることがわかる。

隋に初めて使いを送ったのは倭国王の阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ)で、紀にはこれが書かれていない。多利思北孤は仏教に熱心で自身も修行していた。隋の帝も仏教に熱心で自身も菩薩という位修行していたので、同士として手紙を送ったため”日出處天子致書日沒處天子無恙云云”という対等の立ち位置であるという書き出しになったと思われる。

中国の少林寺には白い肌の僧と黒い肌の僧が武術の稽古を楽しんでいる姿を描写した絵があるが、白い肌はインドのカーストの最高位バラモンを意味し、黒い肌は最下層のダリットを意味していると思われる。仏教では肌の色は関係なく人は皆対等で差別しない。その科学的態度を表しているのではないか。

聖徳太子には十人が一斉に話す内容をすべて聞き取ったという逸話がある。これは作り話に思われる。多利思北孤には妻子があり、子を利歌彌多弗利と言った。これは倭漢通を意味するのではないか。つまり王の子供は日本語と中国語を使えたことを意味しているのでは。言語に対する能力が高かったので後世に話が盛られて十人云々ということになったのかもしれない。

この利歌彌多弗利が聖徳太子ではないのか。隋は運河を作って、海を経由する海運業を不要にした。これによって海運業を担っていた倭国は経済力が衰えた。倭国は国が立ち行かなくなる前に後の日本と手を組み、連合政権を成そうとした。日本の方は海運業に手は出していなかったので、倭よりも優位に連合を進めたため、日本が最高位とする神官の下に倭国王をおいて、実際には倭国王が政治を運営するという体制になった。

倭の五王は日本国の最高位の神官ではなくて、実際に政治の舵をとる大君のことではないのか。それ故に天皇と倭の五王は一致しない。

隋書によると倭国は九州にあって、筑紫から東が倭国だった。筑紫の東には秦王国があった。王国という位なのでそこには王がいて独自に政治を行っていたのだろう。筑紫より西は倭国ではないので、九州全体が倭に統一されていたのではないことがわかる。

卑弥呼の邪馬台国は後の日本に対抗する九州の勢力であったと思われる。この頃は九州北部も邪馬台国の連合国家だった。首都は山門群と思われる。九州は大陸を戦乱で終われた王族などが逃げてきて各地に定住しそれぞれに王国を築いていたので、その国家間同士でも争うことがあった。狗奴國と邪馬台国は争っていた。狗奴國が後の熊襲ならば熊を神とする少数民族の国家だったと考えられる。古代の中華では熊をトーテムとしていたので、中華系か。

聖徳太子は自身の国の存亡のため、日本の神官の下位ではあるが政治の実権を握って国家の発展に寄与した。蘇我入鹿は彼の子の山背大兄が父の業績の威光で丁重に扱われているのが気に食わず、一家全員を自殺に追い込んで滅ぼしてしまった。

聖徳太子は蘇我氏に属していた。入鹿と山背大兄とは従兄弟。蘇我氏の若者が実際の日本の王は自分達の方だと考えても無理はない。実質的にそうだったのだから。

天智天皇は天皇につかず摂政として政務をこなしたのは聖徳太子の時の政治体制を引き継いでいたからではないか。

天武帝はこれに対して、大陸の方針をとった。つまり戦をして勝ったものが王となり国を収める天命を受けるというもの。それ故天武帝の日本を中華式の国にする方針で国書の編纂行われ、できたものが日本書紀と思われる。そういうわけで日本書紀には中華神話のモチーフが用いられて脚色されている。日本書紀の神話の量はかなり少ない。完全な中華式の国書(神話は完全にカット)にしてしまうと、神話を大切にしている国々の反発を招くからだろう。

天智によって蘇我氏は権力を削がれ、九州倭国の勢力は抑え込まれた。

天武はこれを武力で破って神官の位を中華思想的皇帝にした。これを次の代に伝えるために記紀を編纂させたのだろう。数代を経て天智系に戻ったが天皇位を最高とする政治体制は引き継いだ。

元が神官だから科学的思考は期待できまい。現在の皇族がちゃらんぽらんなのは当然と言えば当然か。