9 Jul 2025

図書館に予約本を取りに来たが、

先々月末頃に図書館 で予約した本を取りに来たら、本編と解説編からなるものの解説編だけがカウンターで出された。「本編を予約したつもりだったんだけど」と伝えたら調べてくれることになったのだが、すぐその場でというわけにはいかず、帰ることになった。往復のバス代と時間が無駄になった。

地元の図書館にない本「復元された古事記」で安城市にあったのだけど、どういう理由で解説編だけ送られてくることになったのだろうか?

14:38
図書館からTelがあって、安城市も本編を持っていないとのことだった。無料の範囲ではもうないとのことで国会図書館のデジタルコレクションを紹介してくれた。割と対応早かった。

7 Jul 2025

俗楽問答 下 第二 楽

 江戸時代の老中:松平定信(1759-1829)が、当時の雅楽について書いた「俗学問答」という著作がある。国会図書館のデジタルコレクションにある楽翁公遺書 中巻に含まれている。

当時の雅楽の有り様が批判されている。当時の雅楽についての描写が現代の雅楽と同じなのがおもしろい。

現代の雅楽は豊臣秀吉の頃から復興されたものが伝承されている。この復興してからの雅楽の演奏が、「楽本来の意義を失わせ、無用のものにしてしまったのです。」と批判されている。

俗楽問答 下から第二 楽の大意をGoogleのAI:Geminiに現代語訳してもらった。

第二 楽の大意

音楽(楽)の根本的な意味については、今さら改めて言うまでもないことです。

冒頭でも述べましたが、今の楽は「俗楽」というべきものであり、尊重すべきものである以上、たとえ「俗調」であっても今の俗調と同じだと考えてはなりません。実際、人々の心を和ませ、善い心を起こさせる効果は少なくありません。

しかし、その楽の本来の意義に人々が疎いため、楽というものは、身分の高い人が好むもので、俗っぽい人々は嫌うものだと心得ている連中が多く、それは嘆かわしいことです。

そう言う考えから、楽を「尊いもの」にしようとして、節奏を無視してただ単に引き伸ばしたり吹いたりし、鞨鼓(かっこ)や太鼓、舞までもが拍子に合うのを「野暮だ」とし、箏(こと)なども左手を用いることでこそ本来の音に合うはずなのに、今ではそれも省いて、いかにも面白くないものを「高尚で古風だ」と心得ているため、俗っぽい人々はただ眠くなるばかりです。器楽を、暇な人が楽しむものとして、このようにしてしまったのは、高く評価しようとした結果、かえって楽本来の意義を失わせ、無用のものにしてしまったのです。

これらはすべて、世の中が堕落した時代になり、管弦音楽をひたすら専門的なものと扱うようになってしまったことの弊害です。

かの俗楽は、本来、民間や町中でも、祭りや行事の際に人々が集まって演奏すべきものでした。実際に昔は、神官や社人(しゃじん)がいるような神社には、楽器がすべて備えられていて、舞い演奏されていたのです。

人々を鼓舞し、善い心を呼び起こして、邪悪な心を遠ざけるのが本来の目的であるはずなのに、今のように雲の上の高尚な楽器とばかりなり、伶人(れいじん、演奏者)たちが(世間から)遠ざかったようになってしまったのも、楽が衰退した証であり、無益なものだと言われても仕方ありません。

さて、また今の人は、「昔のこと」といえば、とても退屈で味気なく、面白くないものを「昔風」だと思う者がいます。それは一体何から来ているのでしょう。もしかして、あの太古の穴居時代のことなどを指して言っているのでしょうか。

昔、文化が開けていた時代は、今の世の中のようではありませんでした。物を作る技術の巧妙さに至るまで、精緻さを極めており、今の職人の技が到底及ぶものではありませんでした。

晋や唐の時代に書かれた書道の、詳しくて(洗練された)書法が、宋の時代以降になると、(以前の)法則を破って粗雑になったのと同じように、織物なども、今の織物師が計画しても到底及ばないようなものを作り残していたのです。

また、何も知らない者が仏像などを見て、刀の痕がそのまま残っていて粗く削って作ったものを「非常に高尚で古風なものだ」などと言うことがあります。

かの鳥絵師(仏像や絵画などを制作する職人)たちが作ったものは、あくまでも一生の力を一つの仏像に込めて刻んだとしても、その肉の部分には土を塗って形を整え、その上に布を貼って固め、箔(はく)を置いたものもよく見られます。その精神性から、物事すべてに生涯の力を込めて行ったので、**不思議な感応(奇跡的な出来事や霊的な力)**も起こったのです。

音楽が拍子にうまく合っていて、何も知らない人でも面白く思えるように舞を披露すると、今の時代の人はそれを見て「(洗練されていない)俗っぽい、技巧に凝りすぎた舞だ」と言う。

俗楽であれば、元々手の込んだ、技巧的なものであるはずなのに、今の横笛などの旋律が細やかであるのは、昔からの伝統であるので、誰も特に気づきませんが、これら(現代の音楽)は非常に技巧的で、昔の俗楽が伝えてきたものであるはずです。それなのに、打楽器や舞などが退屈で、拍子に合わないようにするのは、昔の事情を知らず、太古の穴居時代を「昔」と指すような、とんでもない考えから来ているのでしょう。

世の中は堕落している時代だとはいえ、安元(あんげん)の頃に、楽舎(がくしゃ)の柱に螺鈿(らでん)細工を施し、楽舎の屋根の上に白銀の鶴を作り置き、舞の装束にも玉を縫い付けていたことなど、昔には実際にあったことなのだが、あの「昔」という言葉を聞いて、太古の質素で素朴な状態を指していると思う人は、きっと驚くことだろう。

考えてみれば、もし(伝統的な楽を)現代風にしてしまうならば、それは音楽本来の趣旨から外れ、花や月を愛でる風流な心や、静かでゆったりとした振る舞いの仲立ちとなるどころか、かえって無用のものとなってしまい、尊重すべきものではなくなってしまうだろう。


以下が原文。読み易さを考慮して、漢字に置き換えられる部分は漢字に置き換えた。

原文:

第二 楽の大意

楽の大意は、今新にに言うべきにも及ばず侍るなり。

初めにも言う、今の楽は俗楽にて侍れば、尊ぶべきことなれば、俗調とても今の俗調に類すべきにあらず。

実に人心を和し、善心をおこし侍る功少なからず。

然るにその楽の本意に暗く侍れば、楽てふものはうちあがりし人の好むものにて、俗輩は嫌うものと心得る輩多く侍るぞ嘆かしき。

さなむいう心から、尊くしなさんとして、節奏なくただに引きのばし吹きなし、鞨鼓、太鼓、舞までも拍子に合うを野とし、箏なんども左手用いるにてこそ合うめれ、今はそれも省きて、いかにもおもしろからぬを、高古と心得、俗輩は只眠を生じ侍る、器物として閑逸の人の為す、この様に為したるは高くせむとして、却て楽の本意を失い、無用のものとは為しにけり。

皆くだりたる世、管弦音楽を専らとせしよりの費なりけり。

かの俗楽のことなれば、民間市井にても日まち月まちにも打ちより、楽奏すべきことにて、己に古は神官社人あるほどの社には、楽器皆備わりて舞い奏でしなり。  

鼓舞善心を興起して、邪辟の心を遠くるの本意なれば、今のごとく雲上の器とのみなりて、伶人らがもののようになりしも衰えたる印にて、無益のものとやいわまじ。

さて又今の人、古の事といえば、いと練るけて味い薄く、おもしろからぬを古の振りと思う者あり。何より出でしことにや。かの太古穴居の時なんどをさして言いけるにや。

古へ文化開けたるは今の世の類にはあらず。物の巧に至るまで精密をこめたる今の巧の及ぶべきにはあらず。

晋唐の書法の細しきを宋後に至りて法を破りて粗になしし類織物なんども、今の折師の企て及び難きことを為し置きけり。

又も何知らぬ者が仏像等見て刀痕のままにて粗く削りなしたるは、いと高古の物なり等いう。

かの鳥絵師等の作りたるは、あくまでも一生の力を一仏に込め刻みても、その肉の所には土を以って塗り付け、上へ布着せて固め、箔置きたるもままあることなり。その心柄物事にみな生涯の力を込めて為ししにぞ、感応不思議もありけり。

楽の良くものの拍子にも合いて、何知らぬ者もおもしろく思ゆる様に舞い為せば、今時の人見ては俗気の繁手のと言う。

俗楽なれば元より繁手なるべきものにて、今の横笛などの手の細やかなるは、昔よりの事にて侍れば、何とも人々心付かず侍れども、これらはいとも繁手なる物にて、古の俗楽の伝えし物なれば、打ち物舞い等ぬるけて、拍子に合い侍らざる様にと為すは、かの古の事知らで、太古穴居の頃を古とさす類の心より出でしなるべし。

下りたる世なれど、安元の頃楽のわく屋の柱を螺鈿にして、わく屋の上へ白銀の鶴を作り置き、舞いの装束にも玉を綴りし事など、昔ありしが、彼の古と言えば、太古の質朴を指せていう人は驚きぬべし。

返す返すも今様に為しては、楽の本意にもあらず、花月風流の仲立ち、閑逸の所作となれば、もと無用の物となりて、尊むべきものにあらず。



9 Jun 2025

大木神社 石薬師

 神社検索 延喜式神社調査より


《主》天照大神 ー> 神明信仰 お伊勢さん

《配》大国主命 ー> 金比羅権現 or 出雲信仰 or 大黒さま

瀬織津姫神 ー> 祓い清めの神 鈴鹿権現

日本武尊 ー> 大鳥信仰

《合》須佐之男命 ー> 牛頭天王

天児屋根命 ー> 春日信仰 藤原氏の祖神

大鷦鷯命 ー> 若宮八幡

火迦具土 ー> 秋葉信仰

保食神 ー> 神明信仰 お伊勢さん

玉幸稲荷神社 ー> 稲荷信仰

大山砥神 ー> 山の神

蒲冠者範頼 ー> 御曹子神社 源頼朝の弟、武道、学問の願望成就

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1615-1624(元和)河曲郡高富村字船塚から一村が移住し、1624-1644(寛永)に神社も遷座した。

以下延喜式神社調査より

江戸時代は「大日」と称していた。

境内社に稻荷社・賽神・山神がある。

本来は大木を信仰対象としていただろう。

8 Jun 2025

ピアノ練習:ショパン エチュード25-5

冒頭からはペダル無しで、1拍毎切れ気味に弾く。
冒頭のテーマに戻ってからは、旋律線をテヌート気味に弾く。小指の連続でもらしく聞こえる。中間部はペダルをより少なく踏む。
冒頭のテーマに戻ってからはペダル無し。

6 Jun 2025

亀山の獅子舞 三寺

 亀山市史 民俗編 三寺町の獅子舞

田茂町の獅子舞は三寺から習ったということである。

本(半)濫觴という曲がある。おそらく「だんちょ」のことだろう。

お湯立ては「籾種の発芽を促す浸水の湯」ということになっており、山本流、稲生流、箕田流のお湯立てとは異なる様である。

田植えの演目がある。

高砂という燃料用に松の落ち葉を集める演目がある。

鉄砲撃ちという演目はトリモチで鳥を獲る内容である。

獅子頭は椿神社の椿の木から作られた「伊勢の十二唐(頭)」の1頭であると伝えられている。

三寺から田茂町と坂下に伝承された。


万治年間(一六五八~一六六一)の縁起に奄芸郡稲生社の三年に一度の大祭に昼生、三寺の石神社より獅子頭を出すと伝えている。

江戸時代前半に稲生の大祭に参加していたらしい。

 古い獅子頭は、漆が塗られず白木のままで、鎌倉時代以前のものと伝えられている。

鎌倉時代は、箕田流が立ち上げられた時期らしい。

鉾が先導するので御霊会の獅子舞だろう。

獅子頭には角があり、雄とされている。角のある獅子頭は伊奈冨神社にも保存されている。

刀の舞は郡山流にある。

「だんじょ」という曲があるが 濫觴と同じ曲ではないか。


亀山の獅子舞 田茂町

亀山市史民俗 祭礼・芸能 獅子舞で獅子舞について書かれている。

興味深いのは田茂町の田植えの演目。

口取りが1斗升に入った水に笹の葉を浸して回りに水をまく「水浴び」という演目がある。

これは御湯立てが変化したものではないか。

田植えは稲生流に残っている。

田仕事をまねた所作をする場面もある。後舞と口取の二人が手拭いを頭にかぶり、野道具を使って、筵の上で行う。鍬を持って田に向かい、田をおこす作業。キセルに火をつけて向かい合っての休憩。田植えには苗に見立てた松葉を束にして使う。田植えが終わるとサナブリの祝いで、口取がまな板に載った鯛(木製の作り物)を人数分指折り数えて切って振舞う。草取りや田の見回りなどが行われた後、後舞が一人で小さな獅子を回す。次は後舞の鳥打ちで、松の木が傍らに立てられ、鳥に扮した後舞が筵の上を飛び回る。棒で鳥を追いたて、太鼓の音に合わせて鳥を撃ち取る。最後に稲刈りが行われる。

稲生流には子獅子と鳥打ちが無い。

山本流には鳥差しがあり、田茂町の鳥打ちと同じと思われる。

箕田流には田植えを伝承している地域は無い。子獅子は庄野にある。


獅子舞行事も終盤を迎える頃、集落中央の辻で、ダンジョの舞が行われる。この辻は以前、灯籠(ヤトウさん)が立っていたところで、七つの場所(春日八幡神社跡、亀山神社、鶏足山、冨士山さん、伊勢神宮、シャクト山、セタ山)に向かって、礼をする。御先さんも、それぞれの方向に鉾をたてる。 神楽のときには、口取、後舞は、ちゃんぎりを鳴らす。衣付の舞、納めの舞には口取は猿田彦面を付ける。

「ダンジョ」という曲名は稲生流、箕田流に多く使用されている。鉾を用いるのは御霊会の獅子舞だからと考えられる。神楽でチャンギリ(銅拍子)が用いられるのは、箕田流と同じ。

口取りが付ける面を猿田彦としているのは、主に稲生流と山本流である。

由来は1880(明治13)からとされており、箕田又は、三寺の獅子舞と関係があるものと思われる。

4 Jun 2025

復元された古事記を国会図書館デジタルコレクションで見る

 前波仲尾著「復元された古事記」は古事記がシュメール語とテュルク語で解読できるという内容の本。

昭和17年に出版しようとしたが、不敬罪で捕まる恐れから出版しなかった。1988(昭和63)に復刻されている。

国会図書館の検索では出てくるが、デジタルコレクションで読めなかったので、遠隔コピー(pdf)を頼んでいたら、謝絶だった。しかしデジタルコレクションの個人送信サービスで読めた。

猿田彦がどのように描かれているが興味があった。

p.127から猿田彦が登場する。下記の原文の意味は漢字とは全く異なっている。

居天八街            ザチマ(薩摩)国

上光高天原        〜を煽動して

下蘆原中國            同じ族類を

                    暴略して回った


以下、該当箇所を読んで、自分なりに現代文にした。

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1つの種族が複数の都市国家を建設している蘆原中國に王を派遣し、全ての都市国家を臣下とするという天神に対し、その王の息の根をとめてやる!と猿田(Sard テュルク族)は息巻いた。

ザチマ国を煽動して、同じ種族を暴略してまわったことに土豪達は狂い立った。

天神と高木は、売春婦でもある歌舞女に命令する。

「お前は、女に飢えている男に取り入って言いなりにしてしまえる女だ。色事を仕掛けて誑し込め!」

歌舞女は出かけて行き、「ここに住み着き、我が皇子の邪魔をしに来るのは誰だ!」と問うた時、

「我は土豪の猿田(Sard)。我が國に皇子を王として下らせるという決定をしきりに聞き及ぶ。皇子を取り囲んで叩きのめすのは止めさせるから、条約を結ぼう。」

若い歌舞女は裾をはだけて、肉付きの良い性器を露わにし、まぐわうために王に近寄った。(この部分は古事記には無く、日本書紀にある)

(天神と高木)「歌舞女よ、たらし込み、攻撃を止めさせたその才能に感謝する。猿田に仕え、色事し、絞め殺せ。その後釜に、お前を領主としてやろう。そして猿女(Sarma)と名乗れ。」

それで、表向きには猿田と恋愛関係になり、同棲し、飾りの釣り紐で死力を尽くして、吊るし、死刑に処した。争い騒ぎ、鈴が音を立てて、最後に息の根を止めた。


全聴衆である「黒」に対して(歌舞女)「猿田を絞め殺した。(お前達は)移動するか、それとも殺されるか?」

「天神の皇子と呼ぶ統治者を追い出すか、(自分たちが)立ち退くか?」

多数の諸部族はその申し出に我慢し、引き下がった。「黒」は返答しなかった。

歌舞女は「黒」に言った。

「この黒は答えない」

小刀を以って、「黒」を脅迫した。

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日本語として読むよりも現実的な描写になっている。著者が使用したスメル語、テュルク語辞書とはどんなものだったのか?

「黒」がナマコ。吉川「シュメール語辞書データベース」では「nigin」に対する訳語がたくさんあり過ぎる。シュメール語には同音異義語が大量にあるらしい。

万葉仮名の当時の読み方は復元されているようなので、それに基づいてシュメール語を探すことが現在はできる。

自分の実力では全く検証できない。

Sardをアッカド帝国のサルゴン王とする説とは合わない。

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