12 Jan 2019

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後書き


後書き

三重県北勢地区の獅子舞は地域の子供の減少による後継者不足で表演が続けられなくなっているケースがある。一方で地域の子供なら誰でも参加できるように改め、活性を取り戻している地域もある。三重県北勢地区では獅子舞は郷土芸能と呼ばれているのだが、地域によっては未だに宗教色が強く、仏教や神道の一部のグループによって世襲で独占された状態が続いており、自身の住む地域に獅子舞があっても参加できないケースが未だに見られる。

旧来の獅子舞の演者達は独占して利益を上げられる獅子舞の回壇の仕組みを手放し、公共性のある芸能として郷土に無償で提供することはなかなかできないようだ。獅子舞をしたい地域に獅子舞セットを買い取ってもらって利益を手にしたいらしい。楠町本郷の獅子舞楽曲の楽譜化は獅子舞の価値を釣り上げるための手段として求められたものであろう。
地域の獅子舞は限られた家の者だけで独占して継承されてきた。明治時代の神道国教化政策において述べられた”神道は宗教ではない、地域に生まれたら皆氏子”という理屈をかがげ、盲信的な地域を回壇し、得た収入を獅子舞関係者だけでせしめる神道者のビジネスが背景にある。これは他地区でも未だに見られる。地域住民から不満がでて獅子舞が続けられなくなったのは地域住民の正しい判断だと思う。
そんな地域住民から著者の獅子舞研究を辞めるよう要請が入ることが度々あった。獅子舞曲の価値を釣り上げる材料になってしまうからだ。氏子側からは非番の警察官に拙宅を訪問させ、獅子舞研究から手を引くよう恐喝があった。こういう時は警察官に手帳を見せるよう頼み、その場で所轄警察署へ電話し、事情を話すと良い。すぐに責任者に取り次がれ、電話を訪問中の警察官に代われば事実が現行犯である。この手の警察官を使った強迫、恐喝は創価学会からも受けたことがある。また名古屋大学の古楽研究会は創価学会員の巣窟になっており、新入部員を罠に嵌めて入信させることが相次いでいた。ある時はその部長が愛知県警察庁長官の娘であった。この時も強迫されたが屈しなかった。楠町本郷の湯の花神事では2018年の秋には民主党の中川正春を神事に呼び、威力を見せつけるという手段が新自治会長によって取られていた。同年の2回の神事では神官から巫女を餌に神道へ引き入れようと声をかけられた。この手の手法は天理教四日市教会からも数度受けたことがある。この地域では謀略を巡らして追い込んで抱き込むとか威力を使うなど子供から老人まで普通に行っている。彼らにはそれが違法行為だと考えていないように見える。この地域の元民生委員も氏子総代に至ってもそんな現状なのである。楠町本郷は神道と自治体が一体化しており、政教分離の原則が見られない。田舎の悪質な体制がいまだに蔓延っているのである。現自治会長からは獅子舞を高く評価する内容の研究を所望されたが、科学的研究においてそんな手心は一切銜えられないと拒否した。著者はそれら威力妨害や科学の信頼性を破壊する要請に屈することなく、研究を遂行した。科学者としては当然である。最も御用学者には無理な箏であろうが。楠町南五味塚で楠っ子流星なる太鼓グループを主催している地元運送会社の社長は近隣の浜田、長太の獅子舞に楠の獅子舞の関係者の素振りで接触していた。それら近隣の獅子舞の関係者はその社長を楠の獅子舞の関係者だと思っており、著者が獅子舞の練習を見学した際にそれが発覚した。彼は獅子舞を再興したいと言っているが、その実獅子舞を南五味塚の物にしたいのである。彼は地元南五味塚の祭礼の雅楽の龍笛を吹くが演奏の腕前の実力があって認められたわけではなく、経済的援助をすることでその座を得ていた。なんとも腐った地域である。それら蛮行は先例があるため悪事という認識がされていないのである。
楠町本郷の楠村神社の祭礼ではかつては笛太鼓が演奏されていたが、獅子舞が止まり、やがて祭礼の音楽もCDに置き換わった。神社に奉納された4本の笛以外に地元に練習用の笛が一本としてなかったのは20年程前に人づてに獅子舞の曲の楽譜化の話を聞いた折に、著者が仕組んでおいたいたずらのためかと思われる。
氏子方に神社の祭礼で用いるCDを資料として提供して頂き、祭礼の笛の曲の五線譜化することができた。当初は再現性がなかったがそれも解決できた。結果、楠町本郷に伝承された箕田流獅子舞の全曲と祭礼用曲全てを五線譜にすることができた。また笛の研究も進み、調律された笛を開発することができている。
著者はいかなる宗教も支持しないし、どんな勢力に対しても都合の良いお抱え学者にはならないよう努めている。獅子舞の研究は自分の専門である古い音楽の研究を進めるために行った。
神道は元は一部族の先祖を祭ったものだったのだろう。その部族の中で運良く日本を統治するまでに至った者の信仰であり、支配された庶民側の氏神ではない。支配される以前はそれぞれ固有の氏神を祭っていたらしい。現在の地域の氏神は江戸時代の村の区画分けによって再設定されたものである。その後の地域の経済的利益のため神道内部の勢力争いに巻き込まれ、朝廷の神々を祭った奇妙な地方神社ができてしまった。氏神の名前すらわからないままに。
最も古い獅子舞についての記述は動物ものまね芸で大道芸の類だったと考えられる。雅楽の舞楽の羅陵王、越天楽、崇徳は古代中国では大道芸や饗宴の演目であった。獅子舞もこれに数えられていた。古代日本が古代中国から取り入れた音楽は饗宴用の音楽のみだった。それにも関わらず飛鳥時代には寺社の祭礼にそれら音楽や大道芸が神事の一種として用いられ、貴族は浄土信仰、御霊信仰に狂信し、陰陽師がそれを支え、仏教は信仰を用いて彼らに取り入り、神道は仏教に従属した。戦国時代には戦国大名と一大武闘派勢力となった仏教が戦いを繰り広げ、殉死者をだした。江戸時代には仏教、陰陽師は幕府によって徹底的に統制された。仏教系行事は神社に移り、神道は覇権争いを繰り広げた。明治には神道国教化政策に沿って地方住民の洗脳手段として獅子舞が地域に提供されたのではないだろうか?戦後神道は一宗教になり、政教分離が進み、地域行政にももはや神道など宗教は不要なものとなった。
元々仏教は宗教ではなく、盲心的なカルト宗教から脱却し、科学的思考を取り戻す方法を提供するものだったが、釈迦の死後、衰退し滅亡しかけた。バラモン教など呪術を取り入れ、大乗仏教となって再生するが、坊主だけは民主的に話し合い、檀家は教義で盲信させて従わせるという宗教であった。日本に入った仏教は全てこの大乗仏教の系統である。
旧来の獅子舞の伝承方法は刷り込み教育であり、科学的思考の成長を妨げるものと考えられる。学校で教育を受けても地域の郷土芸能で壊されては教育の効果は上がらないだろう。学校で教育を受けても家庭や地域で目上の者に儒教的精神を要求されて科学的成長が阻害されているのも問題である。獅子舞の伝承方法の改善はもちろん、威力を以って強迫したり、科学者の合法的研究を政治的に妨害する社会人が後世に悪影響を与えないようする必要があるだろう。

仏教史、神道史


インドで仏教が批判したバラモン教、仏教が衰退したときに興隆していたヒンズー教とはどんな宗教か?

バラモン教

バラモン教という言葉は近代イギリス人による語。インド・ネパールではヴェーダの祭祀を行う人々の宗教=ヴェーダの宗教と呼ばれた。ヴェーダは聖典であり、天地太陽風火等自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭祀を中心とする。人が現世で行った行為(業)が原因となって来世の運命が決まる。無限に続くこの運命から解脱する道を求めるというもの。
原始仏教では、現実的問題心的ストレスからの脱却、科学的観察、思考、行動の体得について述べられているが、大乗仏教ではバラモン教の教理が見られる。原始仏教はバラモン教を批判、否定した。浄土信仰を持つ大乗仏教は原始仏教ではなく、バラモン教のように見える。

ヒンズー教

ヒンズー教という言葉は西欧で作られた言葉である。インド・ネパールで多数を占める民族的伝統であって、信仰を持つか持たないか、どの宗教を信仰するかは個人の選択である。
バラモンの祭祀等について細かく書かれた宗教書:ヴェーダが完成した頃、バラモン教(ヴェーダの宗教)は仏教、ジャイナ教等から祭祀重視の姿勢を批判された。以後カースト制を引き継いだまま土着の民族宗教(多神教)と崇拝様式を取り込み、徐々にヒンズー教として形成された。
B.C. 5-4c ヒンズー教として顕在化
A.D. 4-5c 仏教を凌ぐ。
キリスト、イスラムなど、インド以外で成立した特定宗教以外の全てを含む。仏教、ジャイナ教も広義のヒンズー教である。教会制度、宗教的権威はなく、預言者もいない。多神教、汎神論、無神論、人道主義など、自身の思想を自由に選択する。
ヒンズー教の神々は信者によって、信仰されない場合もある。
  • ヴィシュヌ:慈愛、怪鳥の神(ガルーダ1)に乗る。北伝仏教では吉兆天。
    • 化身:クリシュナ 横笛2を吹く像で表されたものがある。マハーバーラタの英雄、民間で人気。釈迦はこの9番目の化身。
  • シヴァ:創造と破壊、牡牛(ナンディ)に乗る。北伝仏教では大黒天。
    • 化身:パールバティ ヒマラヤ神の娘、穏やかで心優しい。
  • ブラフマー:あらゆるものに存在する縁起を与える。老人の姿で表される。水鳥(ハンサ)に乗る。北伝仏教では梵天、弁財天。
    • 化身:サラスヴァティ
南アジアで家畜化された背に瘤のある牛瘤牛が崇拝対象である。水牛は対象ではない。バラモン、ヒンズーを始めとするインド発祥の諸宗教で神聖視されている。

インドにおける仏教の変遷

日本に伝わった仏教は、釈迦の死後数百年を経てインドで生み出された大乗仏教、次いで密教。次に年代順に諸派の成立過程を追う。
  • 釈迦の死後100年頃 僧団に属する出家修行者が守るルール”律”において、托鉢における金銭の布施をめぐって上座部と大衆部で論争が起き、仏教教団が2つに分裂した。上座部3と大衆部4に根本的に分裂した。
  • B.C. 250 アショーカ王が3回めの教典編集を行った。この頃に口伝を文字にして教典ができた。
  • B.C. 0前後 大乗仏教5が起こった。人は他者によって救済されることが可能で、修行者が一般民衆など非出家者をも救済するという考え。中国・韓国・日本に伝わった。(北伝仏教)。
  • 6世紀頃 部派仏教(上座部)がインドから消滅。
  • 7世紀 仏教自体は廃れており、ヒンズー教、次いでイスラム教へ移行した。大乗仏教はヒンズー教に吸収されてゆき、最終的にその一派のタントラ教の教義を受け入れて密教6となった。チベット・ブータン・中国・韓国・日本へ伝わって、それぞれに変容している。

原始仏典

釈迦は自分の述べた教えを書いて残さないようにしていた。その死後、仏弟子達が記憶を頼りにまとめ上げたのが原始仏典である。最古の仏典の1つと考えられるスッタニパータには簡素で科学的な態度が書かれている。以下抜粋。

スッタニパータ

  • 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが目的を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
  • 41 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
  • 75 今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
  • 104 血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を軽蔑する人がいる、ーこれは破滅への門である。
  • 242 (前略)これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
  • 590 人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもう私の力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
  • 894 一方的に決定した立場に立って自ら考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執することがない。
  • 1035 (前略)世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(後略)
  • 853 (前略)自分の確かめたことだけを信ずるのである。いかなる権威者をも信ぜず、神々さえも信じない(後略)
  • 1146 (中略)最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。
242は釈迦の弟子の詩。精進料理はなまぐさの意味の基本的間違いの上に成り立っていると言える。1035590をみると現代においても仏教で僧位を得るために行う苦行に意味が全くないと思われる。894哲学的断定を捨てるということは、つまり仏教は哲学ではないことを示している。3741から修行には身近な存在達と物理的距離をとってしまう必要がある。それが出家という手段か。

ダンマパダ

  • 166 たとえ他人にとって以下に大事であろうとも、他人の目的のために自分のつとめをすてさってはならぬ。(後略)
  • 201 勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
  • 380 実に自己は自分の主である。自己は自分の帰処である。故に自分をととのえよ。ー商人が良い馬を調教するように。
166は基本。他人を利用しようとする人は徹底して回避する対象。201野球ファンにも見られる。スポーツ観戦も勝敗に心が動かされる見方では心が病んでいる。380応用行動心理学は動物を躾けるのにも人間を訓練するのにも有効。この文は興味深い。

ウダーナヴァルガ

  • 13-18 けだし良家の(人々からの)つねに受ける礼拝と尊敬とは、汚泥のようなものであると(修行者は)しっているからである。細い矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬をすてることは難しい。
ウダーナヴァルガは信仰を勧める文が収録されており、原始仏典とは趣きを異にする。幾らかの文は現在の葬式仏教からは意外性を示す。
参考文献
  • Wikipedia 初期仏教、仏教、律、大衆部、教相判釈、ヴェーダ
  • ブッダのことば 中村元 岩波文庫
  • ブッダの真理のことば、感興のことば


密教

平安時代、政治を担っていた貴族は度々起こる疫病の流行を解決することができず、恐れおののいていた。寺院に引きこもり仏像に祈るだけの奈良仏教を見限り、呪術を行う密教に期待した。現代にも繋がっている密教とはどういうものか?原始仏教では僧による呪術は禁止されていたのだが。
インドでは仏僧は教理の研究に集中し、布教を疎かにしていて、民衆の間では衰退していた。
  • 初期密教:バラモン教の呪文(マントラ)に影響を受け、呪術的要素が取り入れらた。呪文を唱えて現世利益を願った。
  • 中期密教:ヒンズー教に対抗するため理論体系が整備され、大日如来(実在した人ではない)が中心に据えられた。ヒンズーの日常祭祀、民間信仰、大衆重視には歯がたたなかった。
  • 後期密教:ヒンズーの神の性力を崇拝するタントラ思想がとりいれられた。仏教のヒンズー化。中国には性道徳上受け入れられなかったと考えられる。よって日本に伝わった密教は中期密教と言える。
ヒンズーが大衆に広まり、イスラム教の仏教への弾圧によってインドから仏教は消滅した。
日本では6cまでに密教が断片的に伝えられており、初期密教があった。
奈良時代には役小角によって山岳信仰と初期密教が結びつき、修験道が始まった。仏教伝来前の古神道と仏教の融合、神仏習合の主体となった。空海は遣唐使になる前に山岳修行をしていた。天台宗の高僧にも山岳修行を行った者がいた。修験道は仏教の一派とも考えられている。修験者はほぼ本山派(天台)と当山派(真言)に分けられる。後に空海によって中期密教が伝えられた。[Wikipedia: 密教]
密教の呪術の歴史を追ってみる。
  • B.C. 13c アーリア人がイラン高原からインドに侵入し、土着のドラヴィダ人を支配するため、土着の神を祀る祭祀(呪術)を行った。雅楽の舞楽:案摩7がこの祭祀の様子を表したものと考えられる。
  • B.C. 5c 4ヴェーダ8が完成され、バラモン教となった。カースト制度9を含んでいた。
  • 仏教、ジャイナ教10から批判される。
  • A.D. 1c バラモン教はヒンズー教に変化し、最高支配階級のバラモンの勢力は失われた。
  • 仏教衰退。バラモン教の呪術を取り込む。
  • 中国、日本へ伝来。
  • 平安2宗(天台宗、真言宗)が朝廷より護国寺とされる。御霊会を任される。
  • 密教、儒教、道教、天文、暦書等から日本独自の陰陽道が作られる。
  • 戦国時代に衰退。
  • 江戸時代 幕府の管理下におかれる。政治への影響力は無かった。
  • 明治 呪術が禁止された。

日本の仏教史

587 仏教推進派の蘇我氏が反対派の物部氏を滅ぼし、国内への仏教の浸透が本格化した。[Wikipedia: 丁未の乱]
平安時代までの仏教は国家、貴族に独占されており、民衆に広めることは禁じられていた。
平安時代に鎮護国家を担った山門(比叡山延暦寺)勢力は教義の教えや体系的な学問に励む一方、加持祈祷や僧兵の武力を通じて、政治権力を持つようになっていた。11
延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。
1150ごろから1300にかけて、政権が武士たちに渡り、貴族が没落していくなか、仏教は新たにパトロンを見つける必要に迫られた。新興の武士や農民たちをターゲットとし、大衆の救済へを謳い国家から自立した布教活動が行われ、仏教の一般大衆化が推進された。天台宗は元々すべての衆生は成仏できるという立場を取っており、比叡山で学んだ僧によって鎌倉仏教が作られた。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗(この内2つの禅宗は中国から新たに輸入された。)これらは細かい教理は其々異なるが、平安時代までの出家僧に要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(禅宗は戒律を重視)、信仰によって在家(在俗生活)のままで救われると説く点では共通する。
出家し修行する僧からみれば、修行がばかばかしくなるおかしな教えである。大乗仏教は悟った僧の間では民主主義的であるが、悟っていない民衆は教義を信じ込ませて僧に従わせれば良いと考えているので、大衆をパトロンにするには簡単な教義で信仰心を植え付けるのが常套手段だったのだろう。
[Wikipedia: 鎌倉仏教]
1338-1573室町時代には寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や供養料などを元手に金融業に進出するところもあった。また当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。
1467応仁の乱後、治安の悪化とともに宗教勢力も武力を強めた。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体同志による宗教戦争も起こった。中でも加賀国一揆等の一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約80年に渡って徴税権と裁判権を握り国を支配した。石山本願寺などは大名家のような強固な組織となり、その勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須であった。大名の多くは妥協の道をとっていた。
しかし尾張の戦国大名・織田信長は「天下布武」という方針の下、対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦など。[Wikipedia: 日本の仏教]



1582信長が本能寺の変で死ぬと家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺や高野山を屈服させた。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩・惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。この結果として平安時代末期から約五百年間続いた寺社勢力は日本の権力構造から消えることとなった。



1603-1887江戸時代 徳川家康は寺社奉行を置き仏教を取り締まった。寺院諸法度を制定し、人々を必ずいずれかの寺院に登録させ、布教活動を実質的に封じた。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗の本願寺に対しては、内部紛争につけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させた。
1665年に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行い規制を強化した。



伊勢流、熱田流太神楽(獅子舞)が江戸に上って回壇する。伊勢太神楽は陰陽師系の六角佐々木氏が織田信長の侵攻から逃れ桑名に住み着き、山本流から獅子舞を習って日本全国を回壇し始めた。
1868-1912明治時代 大政奉還により天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少した。各宗派は仏教の近代化を推し進め、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。



1926-1989昭和近代の政府は、1939に宗教団体法を制定。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではなく公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、明治期から法案が提出されることがあったが否決続きで成立していなかった。宗教団体法の制定によって一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。
1945第二次世界大戦後、宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1951認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長に日蓮正宗系新宗教の創価学会や法華系新宗教の立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。1970年代には精神世界ブームに後押しされ、密教系新宗教である阿含宗や真如苑が伸張した。1980年代後半には、チベット仏教・原始仏教・ヒンドゥー教等の影響を受けたオウム真理教が注目された。1980年代末期から1990年代中期にかけて、オウム真理教はオウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こし、これをきっかけにして1995年には宗教法人法が一部改正された。[Wikipedia: 日本の仏教]

まとめ

元々の仏教は宗教への迷妄から抜け出し、科学的に観察、思考、行動を行えるように訓練するものであったと考えられる。インドで一時衰退し、大乗仏教となって再興した時には、僧の間では民主主義的議決が行われていても、一般民衆は教義で騙して僧に従わせるという宗教に成り代わっていた。それが日本に伝来し、豪族、貴族、士族をパトロンとし、領地と僧兵を抱え一国を牛じるまでに成長した。獅子舞は仏教系の呪術舞であった。
戦国時代に織田信長による虐殺によって統制が始まり、平安時代よりの仏教勢力の力は削がれた。
江戸時代には陰陽師共々幕府の監督下に置かれた。仏教は幕府の寺請制度に組み込み監督下に置かれた。獅子舞はこの過程で仏教から切り離され、神社へと移され、仏教系呪術から神事となったのではないか?



陰陽師への統制

江戸時代には陰陽師の活動を統制するため、陰陽師の本家を再興させて諸国陰陽師を支配させた。陰陽道が政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着した。その活動においてはだましものと扱われた者も非常に多く、後の占い禁止につながった。
1872新政府は陰陽道を迷信として廃止した。



神社史

中世 神仏習合によって神道と密教が統合され、神道は十分に自立した活動を展開することはなかった。
1336-1537室町時代 公家の吉田家が神道を仏教から独立させ、その優位を説き始めた。吉田家は神祇官の下級官吏から出世し、応仁の乱によって廃絶した神祇官庁舎の役割を吉田家の施設が代行することになり、神道界の頂点の地位を占めていった。一名の神職が数村の祭祀を兼帯することが一般的であった。
豊臣政権も徳川政権も、朝廷・天皇を温存したのは、その保護が西国大名をはじめとする諸勢力に政権奪取の名分を与えない効力を有するからであった。
1600-1650 兵農分離政策によって各領主が江戸に常駐の兵力として住まわされた。以前は領主によって維持・運営されていた地域の神社の神職が失脚することもあり、在地の氏子によって運営され始めた。東照宮を頂点とする宗教秩序が再構築され、神社・神職の統制が始まった。
地方を巡って活動していた山伏が地方に定住した。山伏が行っていた人形芝居、獅子舞等の芸能が地域に定着し始めた。
1650-1700 公家の吉田家が幕府を後ろ立てにして神職制度を支配。祀られる神がはっきりしない神社は破却され、多数の神社が淘汰された。神職の整理・序列化が進められた。式内社等の古社が重視された。
1700-1750 荘郷を解体し、新たに村を設定(村切り)した。新たに区画分けされた村毎に氏神が祀られた。元々の荘郷氏神を継承することもあったが、あらたな氏神が設定されることもあった。この時の村の区画が”字”として残っている。農業生産力が向上し、余剰産物の売買が活発になり、商品経済が全国的に発展した。神社境内や付属の山林の価値が上昇した。神社の支配権を巡る争奪が激化した。
神社の支配権の確定が必要になり、経済的余裕の出来た村は吉田家から神位を買った。祭神等の基礎事項が明確でなかい場合は吉田家の勘考によって決定された。こうして祭神や由緒の均質化が進行し、在地に伝承された神格や由緒が駆逐され、記紀神話など朝廷の神体系に組み込まれていった。
1750-1873 神職が存在しない村では百姓身分の宮守、掃除人が神社支配権を掌握し、事実上神職戸して活動する者が現れた。都市では農村を追われた棄民が竈祓や祈祷、祭礼時の臨時雇、門付けを行なう「神道者」が現れた。公家の白川家がこれらの下級宗教者を取り込み、神職のみを対象としていた吉田家に対抗し始めた。結果地方の神社に朝廷に深く関わる神が祭られることになった。
神社は地域の文化芸能の拠点になり、宗教者が中心になって文化が盛んになった。著名な神社への参詣、祭礼の華美化、境内での様々な芸能興業が流行した。多くの参詣客を誘引するする神社を擁する地域では、神社の存在と人気の多寡が地域経済に大きく影響した。
1873 明治政府により神道国教化。大社が国有化され、天皇・朝廷を民衆から切り離して権威を高め、政府の威信も高めた。帝国憲法では信教の自由が明記されていたにも関わらず政府は神道国教化を目指したが振るわず、次に「神道は宗教ではない」として神道・神社を他宗教の上位に置く事は信教の自由とは矛盾しないという公式見解を示し国家神道を推進した。[近世神社通史稿]
1945 日本の降伏により太平洋戦争終結。神道指令により神社と行政機関の接点が全て廃止される。
1946 すべての神社関係法令が廃止され、神道は政教分離政策によって政治から切り離された。これ以後神社本庁によって統括されるが、神社本庁は民間の一宗教法人に過ぎない。[Wikipedia: 国家神道]

まとめ

江戸時代中期(1750)以降に農業生産が安定し、経済が発展した。地域の集落はより一層の利益を上げるため神社の格式を明確化させた。吉田神道と白川神道の覇権争いによって地方の末端の神社に朝廷由来の神々が祀られることになった。江戸時代は仏教は幕府によって厳しく統制された。仏教由来の芸能、行事は神社に拠点を移したのではないか?神社は地域文化・芸能の拠点になった。楠町本郷の箕田流の獅子舞はこの時代以降に成立したものではないか?明治時代には神道国教化政策に沿って神道の威信を示すために格式の高い神社にしかなかった獅子舞が伝承されたのでは?その演目の筋が中国の古い獅子舞、湖南省の獅子舞に似ているのが興味深い。江戸時代には幕府によって仏教は厳しく統制下されていた。仏教系の呪術芸能は神社に移され、仏教との関係性を断たれた。それ故鼻高面が古代のインドの仏教僧に由来していることが伏せられたのではないか?
この地方の獅子舞の団体を幾つか見学したが、現在に至ってもなお過去の統治体制によって行われた心理的統治政策(洗脳)の影響が見られる。教育の不徹底さ、儒教的道徳、礼儀が若い世代の知的成長を妨げている現状が改善されることは当分ないと思われる。
1伎楽では迦楼羅。蛇を好物とする音楽の神。舞楽の迦陵頻伽はこの鳥の舞いという説がある。
2このクリシュナの吹く横笛が現在の横笛の源流ではないか。
3自らを頼り、自ら修行して悟るという仏教の源流。托鉢における金銭の布施を非容認。釈迦やその直弟子の伝統的な教義を守る保守派仏教。インド各地に分散していた修行者達がそれぞれに仏典の整理・解析を行ったので、20程の学派ができた。この内上座部だけが現在まで続いている。
4大乗仏教の源流とする説がある。托鉢における金銭の布施を容認。容認派が多人数だったため大衆部という。
5人は他者によって救済されることが可能で、修行者が一般民衆など非出家者をも救済する教義。
6密教とは大乗仏教のヒンズー化である。
7厚紙と白い布で出来た蔵面をつけ、杓を持って舞う。番舞いは二の舞。アーリア人が土着の神に対する祭祀を行い、土着のドラヴィダ人がそれを模した様子を表したという説がある。蔵面は風土病の感染対策と考えられる。
8B.C. 1000頃からB.C.500頃にかけてインドで編纂された宗教文書。バラモン教の聖典。呪詞が含まれている。
9司祭階級(バラモン)を頂点とする身分制度。王侯貴族はその次の階級クシャトリア。釈迦はクシャトリア出身。
10バラモン教、ヴェーダの権威を否定した。苦行・禁欲主義。
11延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備え、また神輿を担いで強訴を行い、自身の要求を主張するようになった。

獅子舞に繋がる呪術史


呪術

古代日本の呪術略史

飛鳥時代仏教と共に伎楽の一部として師子が伝来した。飛鳥時代末期から奈良平安時代にかけて律令制が施かれ、呪術を用いる呪禁師が典薬寮の官職とされていた。古代日本の政治、医療には祭祀や呪術が用いられていた。信仰、呪術の観点から歴史をたどってみる。
  • 3世紀まで 魏志倭人伝によると卑弥呼(?-242/248)が鬼道を以って民衆を能く惑わした。鬼道は黎明期の中国の道教を示した。骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占うとあり、卜術を行なっていたと考えられる。[Wikipedia: 卑弥呼][魏志倭人伝]
  • 4世紀まで 道教が流入。三角縁神獣鏡や呪術文様から道教と推測される。
  • 552/538 百済より仏教伝来。呪禁師、遁甲方術(占術)も伝来。伝来したのは大乗仏教。6世紀までに密教は断片的に伝わっていたらしい。
  • 577 百済が呪禁師を日本に献じた。[日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察]
  • 612 伎楽伝来。楽を以って供養すべしと詔が出され、広く寺社に伝搬し演じられた。
  • 660以降 百済が滅亡し、倭へ僧が渡ってきた。[日本書紀]
  • 673-686 天武天皇在位。道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。「天皇1」を称号とし「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。[Wikipedia: 天武天皇]
  • 676 陰陽寮設立。
  • 691 本格的に呪禁師を導入。[日本書紀]
  • 701 大宝律令制定。呪禁師が官職に定められている。
  • 710 平城京遷都
  • 710-794役小角が修験道を創始した。修験道は神道と仏教の融合したもの。道教の呪術も取り込まれた。
  • 715 神宮寺2の建立始まる。神仏習合が始まる。
  • 718 養老令で(757養老令施行) 厭魅3蠱毒、遁甲を禁止。陰陽寮を明記。
    養老令で陰陽寮が設置される。成立当初は、占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを行い、天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言していた。神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかった(略)[Wikipedia: 陰陽師] つまり僧侶は呪術を行っていた。
  • 732 修験道の開祖役小角の弟子である韓国広足が典薬頭に就任。初期の典薬寮は呪術的傾向が強かったものと考えられる。
  • 752 東大寺大仏開眼供養。
  • 767 聖武天皇が主に疫病対策として諸国国分寺で悔過法会を行わせた。
    飛鳥時代以後、渡来人や遣隋使、遣唐使、商船によって、日本に免疫のない病気が流行した4。予防法、治療法はなく、自然に収束するまで犠牲者が出つづけた。朝廷のとった対策は、基本的に神仏に頼ることだった。日頃から神仏に祈りを捧げさせ、事あれば大社に奏幣し、大寺に読踊させた。貴族の間では過去の罪を悔い、罪報を逃れる悔過法会が行われていた。
    疫病は度々発生し続けた。朝廷は新たな原因を見出し対策を講じた。それが政争に負けた者達の怨霊の祟りを国家の祭礼で慰めるというものだった。これを御霊信仰と言い、その鎮魂の儀式が御霊会(ごりょうえ)である。
  • 769 県犬養姉女らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪(神護景雲2年条)[続日本紀]
  • 772 井上内親王が蠱毒の罪によって廃された(宝亀3年条)[続日本紀]
  • 788 最澄が一乗止観院を建てる。
  • 794 平安京遷都
  • 806 天台宗が朝廷から認められる。空海が唐で密教を本格的に学び日本に持ち込んだ。
    政治を担っていた貴族は度々起こる疫病の流行に対して対策を打てず、ただ恐れおののいていた。寺院に引きこもって仏像に祈るだけの奈良仏教を見限り、呪術を行う密教に期待した。
  • 816 空海真言宗を開く。
  • 824 東寺と西寺が祈雨で競い合い、東寺の空海が勝つ。神泉苑が東寺の支配下になった。
  • 863 疫病流行。神泉苑御霊会
    朝廷は近衛府主導で神泉苑にて御霊会を行わせた。僧による読踊、稚児、唐人、高麗人の舞い、散楽を行い、馳射、騎射、走馬、相撲等武芸で競い合った5。近衛府は馬術や相撲、弓矢など武芸の競技を見せることで怨霊を楽しませようと考えた。盛りだくさんの技芸が用意され、都人も参観できた。
  • 869 疫病流行。祇園御霊会
    祇園社で祀られている牛頭天王6の祟りとみて、それを鎮める御霊会が行われた。66本の鉾7を立てて、神泉苑まで行進。以後疫病流行の際におこなわれた。
    京都の八坂神社(祇園社)では元々牛頭天王を疫神として信仰していた。疫病神の疱瘡神やかぜの神を祭ることによって、これを防ぐもので御霊信仰に類似している。全国で八坂神社、祇園神社、八雲神社を称する神社には、かつて牛頭天王が祀られた例が多い。それらは大抵、「○○天王」という別称をもつ。明治の宗教政策により、現在は素盞嗚尊を祭神としている場合がある。[Wikipedia: 御霊信仰]楠町本郷の楠村神社には牛頭天王の碑が残されている。かつては天王祭が行われていた。[楠町史]
  • 969 疫病流行。祇園御霊会
    祇園社での疫除けの祈祷会を比叡元三大師良源が行った。比叡山(天台宗)が御霊会に影響し始めたと考えられる。
  • 970 疫病流行。祇園御霊会が恒例の官祭となる。
  • 974 疱瘡が大流行。祇園御霊会
    祇園社は興福寺(藤原氏の氏寺)から延暦寺の別院になっており、朝廷は比叡山に疫除けを行わせた。これに興福寺は抗議したが、以後祇園御霊会は比叡山によって行われる。
  • 984 疫病流行。伊勢神宮諸社へ奉幣、五畿七道8で仁王会を行った。疫病は収束しなかった。神輿を2基作り、疫神を祭って北野の船岡山に安置して御霊会を行った。しかし、民衆は神輿を桂川へ捨てた。政治家である貴族にとっては政争の敵であった怨霊は慰め、鎮め、祀るものであったが、民衆にとっては追い出すものであった。
  • 1011 疫病流行。紫野御霊会
  • 1071 後三条帝が伏見稲荷と祇園に行幸。以後慣例化し、祭礼も合わせて行われる。年中行事絵巻に両方の御霊会の絵図がある。獅子、田楽楽人、鉾を持ち鳥兜を被った鼻高面が描かれている。田楽は田植えに際して行なう地鎮の呪術であった。田楽法師によって行われた。天台宗によって田楽には僻邪、疫除け呪術を付加され、怨霊を鎮め、疫神を祓う御霊会にも登場するようになったと考えられる。
  • 1096 永長の大田楽。
    京都の人々が田楽に熱狂し、貴族から民衆まで加わって仮装行列と化していた。御霊会の前後1ヶ月がお祭り騒ぎになり、朝廷が禁をだす程であった。[洛陽田楽記][Wikipedia: 田楽]
  • 1106 京で田楽が大流行。
  • 1154 紫野御霊会禁止。
[田楽考]
[Wikipedia: 御霊信仰]



呪術系行事

田楽は田楽法師のみ行なうことが許されていた呪術である。師子舞も呪術的要素を含む。現代の能にも呪術的要素がある。その他にも呪術的要素を含む芸能や行事があった。古代日本は国家の政策として呪術行事が盛大に行われていた。
  • 節分 元は追儺という鬼を祓う中国の行事。大舎人による方相氏9という鬼祓い役が侵子と呼ばれる童子20人を引き連れ、大内裏10を「鬼やらう」と言いながら駆け回った。殿上人はでんでん太鼓を鳴らして楽しんだ。
  • どんど焼き 陰陽道の呪法+密教の護摩法=延命の呪法。正月に陰陽師、唱文師が行った。赤熊の髪と鬼の翁面2が舞い、嫗面2が太鼓、童子2腰鼓を打ち、囃すとき「止牟止也」「波阿」と言う。天狗祭とも呼ばれる。
  • 相撲の節会 地固めの呪法。力士は全国から集められた。先導する陰陽師が入場の際に反閉11を行い、衛門庁の前庭で3回乱声12を発する。力士は天皇の御前でシコを踏み、邪気を祓う。左方、右方に分かれて、競ったと見られる。雅楽も奏され、散楽も行われた。
  • 地鎮祭・立柱式・上棟式 建築など建立する際に神職や僧侶に依頼して立柱式や上棟式等の建築儀礼としての地鎮祭が行われる。土地の中に神が存在し、土を掘ったりすると土の神に触れ犯すことになり、犯土によって祟られる。これを鎮めるため儀礼は東アジアに共通する宗教観念である。地面の下の神とは古代中国後漢(25-220)における土公である。日本では鎌倉時代以前は密教僧や陰陽師が担当していた。江戸時代以降神職と大工による儀礼に転換した。考古発掘によって真言宗、天台宗の密教が地鎮・鎮壇儀法を持っていることがはっきりした。
    651
    孝徳帝が難波に築かれた新宮に遷居する前に安宅神呪経・土側経などの経を尼僧に読ませた。安宅神呪経は飛鳥時代(592-710)に伝わったもので仏典としては偽者である。[日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察]

仏教医学

インドでは仏教医学は仏教の集団生活と苦行による各種疾病の予防と治療、大慈大悲思想の実践、現世利益として疾病による苦痛の軽減、布教の手段として必要なものであった。インド医学に基礎をおきつつ単純な呪術や祈祷に依存しない科学的色彩が強い医学であった。
中国に仏教を布教した僧達は中国の老荘思想や陰陽五行思想等呪術的なものを混合して仏教を広めた。医学もこれに含まれ呪術と称して病気を治療しながら布教された。
朝鮮半島の百済(300-350から660)は541に中国の梁(502-557)に仏教の教義や医工を求めている。577には倭からの使いの帰途に合わせて禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工等を従わせている。呪禁師は呪文と祈祷を通じて伝染病を治療する僧侶であった。
日本書紀には百済の滅亡後(660以後)、百済僧が倭に渡ったと書かれている。日本書紀の天武紀(673-686)には百済からの渡来僧の呪禁博士沙宅万寿が見られる。[百済の呪禁師と薬師信仰]

律令制の呪禁師

呪禁を扱い主に伝染病を治療した。医療系の典薬寮13の官職。691に律令で14制定された。は出産時にも呪禁が行われて母子の安産を図った15。古代においては一種の病気治療(主に伝染病)の手段の1つとして考えられ、呪術によって病気の原因となる邪気を祓う治療などを行った。
奈良時代に厭魅16蠱毒17事件(道教系の呪術か?)の続発によって呪禁そのものが危険視され、養老律令(757)で厳しく禁止された。平安時代以降も度々詔を出して禁止されている。
8
世紀末頃には事実上廃止され、9世紀には呪禁師の制度自体が消滅した。一方で道教由来の陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。[Wikipedia: 道教]
仏教の呪禁師は以後も仏教の供養等の行事で見られる。

仏教の呪願師

「雅楽と法会」小野功龍に1083年の法勝寺塔の供養会について書かれている項に咒願師が登場する。再度引用する。師子舞の後に導師と咒願師が参入する。
  • 江家次第 法勝寺塔供養会1083
    1
    開眼作法2寢儀諸
    着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。

7師子舞の後に入場する咒願師は文章博士等によって作成された祝詞を読み上げる役と考えられる。[平安中後期の仁王会と儀式空間]
東大寺のお水取り(修二会、十一面悔過法)に咒師の役がある。修二会は757年施行の養老令に国の行事として記載されている。咒師は密教的修法を行う役割をする。大中臣祓詞を黙誦し、御幣で練行衆を清める(神道の行事)、咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱える(密教的な儀式 呪師走り)、鈴を鳴らして四方を結界し四天王を勧請する等。[Wikipedia: 修二会]この呪師の作法が猿楽の楽人に任せられ、後に能に発展する。

雅楽の呪師

教訓抄の盤渉調の項にある剣気褌脱という曲は相撲の節に演奏され、この曲の演奏中に猿楽(ジャグリング、雑技等)が演じられた。”呪師もあり”と説明の末尾にあり、鎌倉時代に猿楽・田楽と並んだ芸能と考えられる。[教訓抄]これは仏教の咒師と関係があるのではないか?
参考文献
  • [Wikipedia: 呪禁師]
  • [呪禁師ー国史大辞典]
  • [呪禁師ー日本史大事典]
  • [呪禁師ー平安時代史事典]
  • [Wikipedia 蠱毒]
  • [Wikipedia: 修二会]
1「天皇」は道教に由来するという説がある。[Wikipedia: 天皇大帝]
2神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。[Wikipedia: 神宮寺]
3魔術
4このような伝染病の流行は、文明人が南アメリカの原住民に接触した際にも起こっている。
5後世の神事に武芸が入るのは、この時近衛府が御霊会を担当し、武芸で競い合ったのを引き継いでいるから。
6新羅の牛頭山の神。猿田彦と同一視されていた。明治政府によって牛頭信仰は禁止された。
7両刃の刀に長い柄を取り付けたもの。武具を僻邪の祭具として用いたのは近衛の発想。
8日本全国を意味する。
9大晦日に陰陽師が行う悪鬼祓い”追儺(ついな)”で先陣を務める鬼神。4つ目の金色の仮面を被り鉾と盾を持つ。
10平安京の宮城
11陰陽道系の僻邪法。相撲のシコ踏み等。
12声による邪気払い。雅楽では笛、打楽器の乱打。
13医師、針師、按摩師、呪禁師で構成され、宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行ってた。[Wikipedia: 典薬寮]
14中国の制度を参考にしながら、7世紀後期(飛鳥時代後期)百済滅亡後から10世紀頃まで実施された。8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。Wikipediaより
15雅楽の性調の長命女児、千金女児と関係があるか?
16魔術
17古代中国で用いられた動物をつかった呪術。犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として『医学綱目』巻25の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるためこれを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが、「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ。」と記載されている。Wikipediaより