17 Aug 2021

隋書 倭国伝

 隋書俀(倭)国伝


多利思比孤が隋へ親書を送った際のことが隋書に書かれている。

その中の

”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出ると事務処理をやめ、我が弟に委ねようといいます。” 高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、さとしてこれを改めさせた。

の部分がよく分からない。”天を兄”とは王が兄弟で兄が阿毎氏、弟が日氏なのでは?

これでいくと卑弥呼は日氏の巫女となる。日氏については今適当に思いついただけで何の根拠もない。

卑弥呼が死んだ後、台与が女王になった。この漢字は当然日本語の発音に漢字を当てたものだから”とよ”とは豊。九州の豊国を示す。九州の地方は筑紫国日別、豊国日別とか日別をつけていたらしい。

Wikipedia: 豊日別

楽器について書かれているのは知らなかった。

”楽は五絃、琴、笛有り。男女は黥臂、点面、文身多し。水に没し、魚を捕る。文字無く、ただ木を刻み、縄を結う。仏法を敬い、百済に仏経を求め得て、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。”

遣隋使の時に五弦の琴を献上した。隋ではもう存在しない古いタイプのものだったので貴重だから倭国楽として宴会用の音楽に組み込まれた。上記の隋書を解説しているサイトでは五弦を琵琶と訳している。5弦琵琶は存在するのだが。

百済に仏教を求めていたらしい。

刺青をしているのが、長江下流域の呉、越など倭人と呼ばれた人たちの習慣に似ている。


阿蘇山があると言っているので明らかに九州。

608の遣隋使に対して裴世清が派遣され、倭国への道のりが書かれている。

”明年、上は文林郎の裴清を俀国へ使わしむ。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思えらくは夷洲。疑いは明らかにすること能わず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。”


耽羅楽というのが倭国にも伝わったらしい。多分済州島の音楽だろうが、現存するどの曲がそれなのか不明。

筑紫を通り越して秦王国に至っている。そしてそこの人は中華人と同じ。これに驚いている様子。筑紫の東に中華人の国があったのだろう。ここからさらに10数国を経ると海岸に達する。筑紫国より東は倭に付属する。地図で見ると山間部が多い。しかし10数国を経て海岸に達するのだから、海岸線を歩いていったわけではない。

対馬、壱岐、筑紫というだいたいの位置関係を延長して東方向に進んでみる。

平地をつたっていくと筑紫、飯塚、田川、行橋

または、筑紫、朝倉、うきは市、日田市、湯布院、別府市(由布市、大分市)


仏教に厚く、冠位12階を設定したのは倭王多利思比孤で推古帝の摂政の聖徳太子として設定された。邪馬台国で例えれば、卑弥呼の弟。

推古帝は巫女だろう。邪馬台国の卑弥呼。

??

秦王国の首都が邪馬台なのか?中華人が朝廷を作ったのか?文化を真似ただけか?

中華人なので漢字を和語の音に当てたか?