26 Feb 2024

天孫降臨考

先の投稿で、天孫降臨は、612/620伝来の伎楽の行道になぞらえて描かれたことを書いた。

猿田彦は古代の伊勢国の首長であった。椿大神社は仏教、修験道の影響が強く、山道を把握していたと思われる。伊勢の猿田彦の系譜の仏教、修験道の行者が、壬申の乱で、天武帝に味方し、軍を先導し、戦に勝ったので、天武帝の作らせた史書で、天孫降臨の導き役を与えられたのではないか?

天孫降臨には元々は猿田彦は関与していないのではないか。

あるいは、、、、
海側に都波岐奈加等神社があり、猿田彦を祭っている。古代に九州と海路で交易しており、関東から九州へ天孫降臨する時に先導役を任ったか。

椿大神社の獅子舞考

椿大神社は仏教、修験道の影響が強いらしい。この神社に伝承される獅子舞は疫病を払う効果があると考えられていて、江戸時代に疫病で苦しんだ地区は、椿大神社に頼み獅子舞で地区を清め払ってもらったと伝承されている(鈴鹿市西冨田)。

西冨田の獅子舞では、冒頭に演奏される四方差しで、回壇の際に地区の4ヶ所を払っている。つまりこの舞に呪術要素がある訳だ。

鈴鹿周辺では、伊奈冨神社が最も社格が高い。ここにも古くから獅子舞がある。椿大神社では伊奈冨の獅子は椿のものを写したと書かれた古文書がある。椿の獅子の全体を写して、扇を用いる舞以降の旋律を自作し、独自に拡張したのが伊奈冨の獅子舞っぽい。他流派においても冒頭の呪術用ささらを使う2曲は似たものが継承されている。これが田楽の呪術舞で、椿大神社の獅子に付加され、これを伊奈冨が真似し、伊奈冨から分かれた他流派にも伝承されたのだろう。

椿大神社の獅子では、御湯立ての舞で、ロ取りが面を横向きに付ける。これは祭神の猿田彦(記紀の天孫降臨では天狗の姿で描かれている)を降ろしているという設定の鼻高面のロ取りではなく、口取りの舞人である田楽法師、又は仏教僧が呪術を取り行う必要があるからだろう。

伊奈冨も口取を猿田彦としている。これは同社の古文書から記紀の天孫降臨の設定を獅子舞にも採用しているからである。伊奈冨には壬申の乱(672)の折に後の天武帝が戦勝祈願して獅子頭を棒納したと伝承されている。戦に勝った天武帝が作らせた記紀の設定を広めるために取った策と考えられる。

聖武帝(在位724-749)は、740の藤原広嗣の乱によって、聖武帝は都を離れ、転々としていた。この時に吉備真備大臣に命じて、神子頭と神面を椿大神社に奉納し、行満神主(猿田彦の系譜)によって獅子舞が作られ、始められたと伝わっている。(wikipediaと椿大神社のweb siteからまとめた。)

獅子舞は612/620伝来の大乗仏教系仮面音楽劇:伎樂の演目の1つであった。伝来後150年間(762-770まで)は盛況であり、この間に記紀が成立し、天孫降臨は伎楽の行道をモチーフに描かれた。そのため猿田彦が天狗(インド人仏教僧)の姿で描かれた。この伎楽が盛況の時に伊奈冨と椿へ獅子頭が伝わっているので、当初は伎楽の獅子をやっていたと思われる。

974に祇園の御霊会が天台宗によって主導され、獅子舞と田楽が導入されたと考えられる。伊奈冨は室町までは、伊奈冨から国府まで御輿を出していたので、これに獅子が付き、御霊会をやっていたと思われる。そのため獅子の回壇では先頭を鉾が步いている。
1067 「太神宮諸雑事記」の二月の条に伊奈冨の祭が行われていたとある。
1174 伊勢国内の悪病を払うため、朝廷より伊奈富大明神、郡山大明神(酒井神社)、土御前大明神(尾前神社)に獅子頭を奉納したという伝承あり。
1229 郡山神禰宜解案に「獅子2頭装束衣」とある
1265 「稲生社祭礼用途注文」に2/8に「御輿国府奉送日」とある。
三宅神社が伊勢国の総社であり、伊勢国内の神をそこへ集めていた。国衙祭祀が行われ、国によっては一宮以下の主要な大社より神輿が総社に集合する祭事が行われた。中世における伊勢国の大社p.159-160
1279 生稲の獅子頭が作られ、現存する。
1753 生稲で3年に1度の大祭に(郡山)、山本1、別保、大古曽、箕田1、中戸2の12頭(生稲の4頭含む)が、集まり、舞った。
郡山2、別保と大古曽は1頭か。

獅子舞の絞め太鼓は、薄い板を曲げて作られる。これには台鉋があると便利である。台鉋は室町中期に日本に入ってきた。しかし鎌倉末室町初め頃の成立とされる大山寺縁起には絞め太鼓が描かれているので、鎌倉時代には、絞め太鼓は作られていただろう。雅楽の大鼓も同じ構造なので平安時代には、作られていたとも思われる。

伊奈冨の獅子の旋律を受け継いでいる箕田流は1183から始まっており、宮中でも12cから獅子舞が度々演じられているので、この頃から地方でも獅子舞が盛んになり始めたか。

伊奈富は7cから、椿は8cから獅子舞がある。974以降に官祭として全国で御霊会が行われたか。伊奈冨から国府までの御霊会に道笛とだんちょと起し前の前半が用いられたので、各流派のそれらの曲がよく似ているか。だんちょは元は乱声か。伊奈冨は元は伎楽の獅子をやっており、椿は扇の舞、お湯立て、花の舞があつた。御霊会で、椿の舞を見て、伊奈冨が真似た。しかし曲は独自のものを作曲した。椿はだんちょと起こし舞を取り入れ、独自にアレンジし、初段と四方差しとし、駆合を加えて扇の舞へスムーズにつなげた。
伊奈冨は仏教色や仏教系呪術を薄めて、演劇として発展させ、演目を增やした。
椿は仏教の影響が強かったので、呪術的要素を曲に盛り込んだ。
箕田は伊奈富から旋律をもらい、山本流を真似て、間奏に笛を加えたり、子獅子、花を加えた。中戸は伊奈冨から獅子2頭による起こし舞をもらった。この2流も生稲からだんちょと起こしをもらったので、その構造がシンプルである。中戸は初段と四方掛りと椿に近い曲名を付けた。
郡山も生稲からだんちょと起こしをもらった。以上推論。

室町まで御霊会をやっていたので、国府の獅子舞には4流派の曲の特徴の全てが含まれているのだろう。箕田が1183から始まるので、国府はこれより後に獅子を習ったことになる。国府の伝承では500年前からやっているとのことなので、御霊会は、その前に行われなくなり、国府に伝承されたと考えられる。
伊奈冨が今も国府近くまで回壇するのは、御霊会をやっていた名残りだろう。

まとめ
呪術としての舞は四方差しと起こし。これらは田楽の呪術舞。
974以降、1183からは箕田も伊奈冨から国府までの御霊会に参加し、1500初め頃まで続いた。
その後、御霊会が行れれなくなり、国府は獅子を伝承した。

課題
中戸の獅子の始まりについて
椿大神社の神宮寺の宗派