鹵の文字を使っている王が百済にいた。
獲加多支鹵大王の名が刻まれている鉄剣が出土した古墳は2箇所。
埼玉 稲荷山古墳 5世紀後半
熊本 江田船山古墳 5世紀末から6世紀初頭
獲加多支鹵、これ”わかたける”って読めない。支と鹵が無理じゃない?
わかたしろ(博多城)の方が読める。博多って筑紫の海より。
鹵を名前に持つ王が百済にいた。
蓋鹵王(近蓋婁王)(がいろおう)455-475 百済王。日本書紀では加須利君(かすりのきみ)
中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗した。
475年には高句麗によって首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、戦死した。百済は一旦滅んだ。
百済は中華南朝と通じてきた。
年代は合う。475に一旦滅んだ百済の蓋鹵王の家来達が倭に逃亡して帰化したのではないか。反乱を防ぐために熊本と埼玉に別けられて住まわされたとか。地方の近代化に貢献したから前方後円墳認められたとか。
だから倭朝廷が熊本から埼玉まで支配していたのは確か。ワカタケルかどうか。一応5世紀にワカタケル=雄略が居た。
文周王(475-477)日本書記の記述が1年遅い。
東城王(479-501)倭へ人質に来ていた王子の中から選ばれて王になった。
武寧王(502-523)
日本書紀に記述があり、そこから年代不詳の天皇の時代を確定できる。
雄略5 461 (457-479)
武烈4 502 (499-506)
上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧にもある。古事記だと雄略は489に死亡している。干支で換算するとそうなるらしい。
武烈帝は実在が怪しいらしい。紀では悪行が書かれているが記には悪行いはない。先代の王を悪く書くのは中華の手法。記は倭側から見た歴史で、紀は日本側から見た歴史とすると武烈は九州王朝側か。
雄略の居た泊瀬朝倉宮ははっきりしていない。九州説、高知説、奈良説。斉明は天智に同行して筑紫へ行ったので、その近辺の朝倉市らしい。比定地2つある。
雄略は呉へ遣使していると紀にあるが、雄略の時代に呉はない。
六朝と言う概念がある。
- 呉(222年 - 280年)
- 東晋(317年 - 420年)
- 宋(420年 - 479年)
- 斉(479年 - 502年)
- 梁(502年 - 557年)
- 陳(558年 - 589年)
宋に遣使したか。呉は南朝位の意味か。そうであれば612に伎楽を持ち込んで帰化した味摩之が呉で伎楽を学んだと言っているのはおかしくない。
雄略は124歳で死亡とあるが、2倍していたとして62歳。それで皇位が22年か。遅咲き。允恭が41年と長くてその後安康が短かったから、急遽代打として登板したというところか。
倭の五王の遣使を王毎にまとめると
- 421-430 讃
- 438 珍
- 443-451 済
- 462-477 興
- 477-502 武
- 71-130 (59)景行
- 131-190 (59)成務
- 空位
- 192-200 (8)仲哀
- 201-269 (68)神功
- 270-310 (40)応神
- 空位
- 313-399 (86)仁徳
- 400-405 履中
- 406-410 反正
- 空位
- 412-453 (41)允恭
- 454-456 安康
- 457-479 (22)雄略
- 480-484 清寧
- 485-487 顕宗
- 488-498 (10)仁賢
- 499-506 (7)武烈
- (420-427)久尓辛王
- (427-455)毗有王
- (455-475)蓋鹵王
- (475-477)文周王
- (477-479)三斤王
- (479-501)東城王
- (501-523)武寧王