8 Aug 2020

倭人の歴史2 縄文時代〜古墳時代

倭から日本に切り換わるところが興味深い。
"倭は海上運送業が下火になって経済が悪下した。倭は崩壊し、生き残りは沖縄へ移動した。聞得大君と呼ばれ、それ以前の巫子の上位の職に位置づけられた。"

倭の宗教は沖縄へ移ったのか。すると今の天皇につながる系統はこれとは別なのか?
伊勢神宮の天照、豊受は卑弥呼と台与祭っているのではないのか?

http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/10index.html

"その様な漁労活動によって得られた海産物は、腐敗しやすく長期保存ができないから、リーダーだからと言って過分な分配を求める事に意味がなく、貧富の差は生まれにくかった。その様な集団の構成員に、人々の人格を評価する価値観が生まれたとすれば、集団に対する貢献能力を重視したものになる事も、必然的な方向性だった。それが現代日本人の特徴でもある事に、気付く必要がある。現代日本人も各々の役割を遂行する過程で評価され、集団に対する貢献度が社会的な評価に繋がるからだ。

この様な社会では、権力闘争や賄賂の様な概念が人々の心の中に入り込む余地はなかった。それと対極的な農耕社会では、限られた優良な農地を確保する闘争が常在し、それを調整する権力者を必要とした。その様な権力者が生まれると、権力者に賄賂を贈る事が農地を確保する有力な手段になり、真実を追求する事は却ってその秩序を乱す事になったから、力のある者の主張は真偽を問わず、同調して従う事を最上位の行動規範とし、それを道徳と呼ぶ農耕民族独特の習俗が生まれた。"

これから考えると天皇が基本的にだまし討、謀略で戦にのぞんでいたり、皇位の争いをしたり、権力闘争しているのが農耕べースであると分かる。今の天皇も"日本に生まれたらそれだけで王たる自分に従え"と言って少林寺拳法連盟や大東流合気道を手下にしてリンチを加えてたのは農耕べースの人格だからか?こんな王は信頼い値しないと思う。

農地を守るための武力、権力で、実力主義にすると戦乱になったから世襲にして能無しでも周囲の取り巻きごと芝居して権威を作り上げていたわけか。この点は幕府も朝廷も同じか。現代は自治能力高いのでもう嘘付権威者は要らないと思う。嘘付権威者を真似て下々まで嘘付き利己主義になっているのが現在ではないか?そうであれば天皇制廃止すべきと思う。

''華北に征服王朝が成立する5世紀中頃に、華南への移民が途絶えると、それに同期して大型古墳の造営も止まった。この時期的な一致は、古墳造営の原資が何であったのか示唆している。

移民事業が失われると交易の収益が激減し、移民事業を統括した難波の倭国王は、倭人の交易を統率する事が出来なくなった。その結果倭人諸国を統率する権限は、工芸品の生産と交易に長けた旧東鯷人に委ねられた。倭国王の権威は、諸国に交易の利潤を保証する事により、諸国王の信任によって生まれていたからだ。

飛鳥を拠点とした旧東鯷人国の王が、古墳時代後半の倭王になると、諸国を統括する職務を担った大率も、北九州を拠点とした石井(いわい)から、出雲を拠点とした王(古事記が示す大国主)に代った。新任の両者は、経費を浪費する軍隊を朝鮮半島から撤収した。九州の倭人を代表した石井は、傭兵集団でありながら倭に反抗的だった百済を嫌い、友好国だった新羅に朝鮮半島南部を支配させようとしたが、中華的な価値観を持っていた百済は、海洋民族的な習俗を持つ新羅の支配を拒み、馬韓に割拠する内諾を飛鳥の倭王から得るために、飛鳥の倭王に賄賂を贈った。それが南朝の仏教文化だったと想定される。倭王は半島からの完全撤退を石井に迫り、それに逆らった石井は反逆者と見做され、鎮圧された。"

仏教の伝来は岩井の乱の時なのか。今の天皇は東鯷人の王の系譜なのか?倭王は復数の宮家から実力を量って各国王の信任によってたてられたとある。中華史書では常に子が継承しているよう書かれたが実態は違うらしい。男子一系も嘘か。天皇を担いでる旧華族も悪と思う。旧華族から処分すべきか。

遣隋使は倭の海運業の延命のためだったのか。頼もうとしてるのに下手にでなかったのは漢民族の帝国じゃなかったからか。