15 Aug 2019

神武東征

参照先
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimukita/jimukita.html

九州日向の豪族の若者がなんらかの問題で国払いに処され、旅をして見聞したり、仕事を憶えたりしながら、暮らしてる内に奈良で稲作の大溝作地ができ移往者が集っているという話を聞いて、移住したというところの話ではないか。
九州築紫は朝鮮と公益もあり豊かだったが日向は稲作に適した土地が少なく人口増化に耐えられなかったのかもしれない。

大阪では追払われたが、和歌山回りで奈良へ着いた。朝鮮由来の鏡、ガラス璧等を持っており、文字も読書でき各地を見聞して知繊もあったし、祭祀に祥しかったので、奈良盆地の豪族の娘と婚姻し、田植の祭祀などやってた。又社交性が高かったので中裁とかもできた。
重宝され、他の豪族とも代々婚姻し、豪Y族逹の中で祭祀、交渉を行うものとして働いた。
欠史八代はこんな感じで地元の中で婚姻関係によって豪族同志も結びつき、いつのまにか親族が広まり、祭祀者としてあがめられていった。周辺国に息子達を派遣し、祭祀を伝へ嫁をもらって大和朝延の基礎を作っていき、日本国を作っていった。
主要なメンバーの話し合いで合義していて神武の子孫もそこへ加わっていた。国の祭祀を行う役でもあった。やがてリーダー格となって大王としての地位についたが、武力で大王になったのではなく祭祀と交渉力でなった。

九州王朝倭(築紫)が白村江で大負けして国力低下したところで、近畿大和政権に加わってもらった。中国との国交権をゆずってもらい、以後日本が中国に遣いを送るようになった。