14 Aug 2019

古代日本史

日本に資料がなくて大陸のを頼るしかない。
Wikipediaを参照し、先の先の家村和幸先生の動画より妄想を加えた。

西暦57 倭(九州)の小国奴国(儺県:なのあがた)は、実は日本の一地方地治体であったが中央に密して大陸漢王朝の支配下に入って勢力をつけようとしていた。漢は日本侵略の手先にしようと優遇した。

107 倭国王 帥升と名乗るものが漢へ朝貢した。九州が統一され、漢に認められるため連絡に行った。つまり奴国は配下になった又は滅びた。生口を俸げたとあるので奴隷制があった。

147-189
結局師升の九州統一は永続きせず、卑弥呼が登場するまで荒れる。

238(239)卑弥呼が魏に朝貢し、新魏倭王になる。朝鮮半島の国々とも国交あり。

248 邪馬台国VS狗奴国
卑弥呼死ぬ。

266 台与 晋に朝貢

289-413
謎。大陸と国交なし。

413 東晋 倭王讃
略。朝鮮半島での軍事権の承認
478 宋 倭王武 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王
502 宋 倭王武 征夷大将軍

倭の五王の宋への朝貢
倭というから九州の国とすると中央に対する反逆か?書紀に書かれていないので中央からは認めたくないことか?
筑紫大宰の前身になるものがあって丸投げしてたか?大陸の権威を借りてた事実を消したいか?

600 阿毎多利思比古随に遣使
607

多利思比古は山門郡の者。つまり日本の地の内通者。記紀に書かれていない。
608 隋からの返遣として裴世清が訪れている。筑紫に至った後東へ進んだ。筑紫より東はすべて倭としている。
日出処の天子日没処の天子...の書を送ったのはこちら。新唐書では用明帝としているので、その和歌彌多弗利(わかんどおり、和漢通利?)は聖徳太子(厩戸皇子)等の皇子と考えられる。
後宮に600-700人の女性という規模から考えると大王クラスか。用明とした時皇子6人は多いのか。用明帝とするのは正しいか。山門郡の者とすると大王が内通者となるが。これ馬子じゃない? 馬子の弟は境部摩理勢。馬子が夜担当で摩理勢が昼?
蘇我氏は武内宿禰の系統。


書紀によると聖徳太子の活躍がある。
600 新羅征討
601 斑鳩宮を建てる。
602 新羅征討 筑紫に25000の軍を集めたが攻めなかった。
603 冠位12階制定。
604 17条憲法

607 小野妹子 遣隋使
608 裴世清が国書をもって来日。経路は隋書多利思比古のところと同じように見える。


585-587? 用明 皇子6人。
587-592? 崇竣
593-628 推古 女帝 豊御食炊屋姫 飯炊姉ちゃん。この人が外宮の祭神じゃないか?
内宮は天照だが女神としてのモデルは神功皇后とか。
馬子は大王にはなれなかったが王として裴世清に会ったのでは?この件で一段と反感をかって己乙の変になった。馬子の子は蝦夷。善徳はお坊さんになった。
稲目、馬子などの世代と用明の皇太子逹が協力して国作りにかなり貢献したのだが対立勢力が育ってしまって消されたとか。

藤原氏か。。