12 Jan 2019

獅子舞に繋がる呪術史


呪術

古代日本の呪術略史

飛鳥時代仏教と共に伎楽の一部として師子が伝来した。飛鳥時代末期から奈良平安時代にかけて律令制が施かれ、呪術を用いる呪禁師が典薬寮の官職とされていた。古代日本の政治、医療には祭祀や呪術が用いられていた。信仰、呪術の観点から歴史をたどってみる。
  • 3世紀まで 魏志倭人伝によると卑弥呼(?-242/248)が鬼道を以って民衆を能く惑わした。鬼道は黎明期の中国の道教を示した。骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占うとあり、卜術を行なっていたと考えられる。[Wikipedia: 卑弥呼][魏志倭人伝]
  • 4世紀まで 道教が流入。三角縁神獣鏡や呪術文様から道教と推測される。
  • 552/538 百済より仏教伝来。呪禁師、遁甲方術(占術)も伝来。伝来したのは大乗仏教。6世紀までに密教は断片的に伝わっていたらしい。
  • 577 百済が呪禁師を日本に献じた。[日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察]
  • 612 伎楽伝来。楽を以って供養すべしと詔が出され、広く寺社に伝搬し演じられた。
  • 660以降 百済が滅亡し、倭へ僧が渡ってきた。[日本書紀]
  • 673-686 天武天皇在位。道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。「天皇1」を称号とし「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。[Wikipedia: 天武天皇]
  • 676 陰陽寮設立。
  • 691 本格的に呪禁師を導入。[日本書紀]
  • 701 大宝律令制定。呪禁師が官職に定められている。
  • 710 平城京遷都
  • 710-794役小角が修験道を創始した。修験道は神道と仏教の融合したもの。道教の呪術も取り込まれた。
  • 715 神宮寺2の建立始まる。神仏習合が始まる。
  • 718 養老令で(757養老令施行) 厭魅3蠱毒、遁甲を禁止。陰陽寮を明記。
    養老令で陰陽寮が設置される。成立当初は、占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを行い、天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言していた。神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかった(略)[Wikipedia: 陰陽師] つまり僧侶は呪術を行っていた。
  • 732 修験道の開祖役小角の弟子である韓国広足が典薬頭に就任。初期の典薬寮は呪術的傾向が強かったものと考えられる。
  • 752 東大寺大仏開眼供養。
  • 767 聖武天皇が主に疫病対策として諸国国分寺で悔過法会を行わせた。
    飛鳥時代以後、渡来人や遣隋使、遣唐使、商船によって、日本に免疫のない病気が流行した4。予防法、治療法はなく、自然に収束するまで犠牲者が出つづけた。朝廷のとった対策は、基本的に神仏に頼ることだった。日頃から神仏に祈りを捧げさせ、事あれば大社に奏幣し、大寺に読踊させた。貴族の間では過去の罪を悔い、罪報を逃れる悔過法会が行われていた。
    疫病は度々発生し続けた。朝廷は新たな原因を見出し対策を講じた。それが政争に負けた者達の怨霊の祟りを国家の祭礼で慰めるというものだった。これを御霊信仰と言い、その鎮魂の儀式が御霊会(ごりょうえ)である。
  • 769 県犬養姉女らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪(神護景雲2年条)[続日本紀]
  • 772 井上内親王が蠱毒の罪によって廃された(宝亀3年条)[続日本紀]
  • 788 最澄が一乗止観院を建てる。
  • 794 平安京遷都
  • 806 天台宗が朝廷から認められる。空海が唐で密教を本格的に学び日本に持ち込んだ。
    政治を担っていた貴族は度々起こる疫病の流行に対して対策を打てず、ただ恐れおののいていた。寺院に引きこもって仏像に祈るだけの奈良仏教を見限り、呪術を行う密教に期待した。
  • 816 空海真言宗を開く。
  • 824 東寺と西寺が祈雨で競い合い、東寺の空海が勝つ。神泉苑が東寺の支配下になった。
  • 863 疫病流行。神泉苑御霊会
    朝廷は近衛府主導で神泉苑にて御霊会を行わせた。僧による読踊、稚児、唐人、高麗人の舞い、散楽を行い、馳射、騎射、走馬、相撲等武芸で競い合った5。近衛府は馬術や相撲、弓矢など武芸の競技を見せることで怨霊を楽しませようと考えた。盛りだくさんの技芸が用意され、都人も参観できた。
  • 869 疫病流行。祇園御霊会
    祇園社で祀られている牛頭天王6の祟りとみて、それを鎮める御霊会が行われた。66本の鉾7を立てて、神泉苑まで行進。以後疫病流行の際におこなわれた。
    京都の八坂神社(祇園社)では元々牛頭天王を疫神として信仰していた。疫病神の疱瘡神やかぜの神を祭ることによって、これを防ぐもので御霊信仰に類似している。全国で八坂神社、祇園神社、八雲神社を称する神社には、かつて牛頭天王が祀られた例が多い。それらは大抵、「○○天王」という別称をもつ。明治の宗教政策により、現在は素盞嗚尊を祭神としている場合がある。[Wikipedia: 御霊信仰]楠町本郷の楠村神社には牛頭天王の碑が残されている。かつては天王祭が行われていた。[楠町史]
  • 969 疫病流行。祇園御霊会
    祇園社での疫除けの祈祷会を比叡元三大師良源が行った。比叡山(天台宗)が御霊会に影響し始めたと考えられる。
  • 970 疫病流行。祇園御霊会が恒例の官祭となる。
  • 974 疱瘡が大流行。祇園御霊会
    祇園社は興福寺(藤原氏の氏寺)から延暦寺の別院になっており、朝廷は比叡山に疫除けを行わせた。これに興福寺は抗議したが、以後祇園御霊会は比叡山によって行われる。
  • 984 疫病流行。伊勢神宮諸社へ奉幣、五畿七道8で仁王会を行った。疫病は収束しなかった。神輿を2基作り、疫神を祭って北野の船岡山に安置して御霊会を行った。しかし、民衆は神輿を桂川へ捨てた。政治家である貴族にとっては政争の敵であった怨霊は慰め、鎮め、祀るものであったが、民衆にとっては追い出すものであった。
  • 1011 疫病流行。紫野御霊会
  • 1071 後三条帝が伏見稲荷と祇園に行幸。以後慣例化し、祭礼も合わせて行われる。年中行事絵巻に両方の御霊会の絵図がある。獅子、田楽楽人、鉾を持ち鳥兜を被った鼻高面が描かれている。田楽は田植えに際して行なう地鎮の呪術であった。田楽法師によって行われた。天台宗によって田楽には僻邪、疫除け呪術を付加され、怨霊を鎮め、疫神を祓う御霊会にも登場するようになったと考えられる。
  • 1096 永長の大田楽。
    京都の人々が田楽に熱狂し、貴族から民衆まで加わって仮装行列と化していた。御霊会の前後1ヶ月がお祭り騒ぎになり、朝廷が禁をだす程であった。[洛陽田楽記][Wikipedia: 田楽]
  • 1106 京で田楽が大流行。
  • 1154 紫野御霊会禁止。
[田楽考]
[Wikipedia: 御霊信仰]



呪術系行事

田楽は田楽法師のみ行なうことが許されていた呪術である。師子舞も呪術的要素を含む。現代の能にも呪術的要素がある。その他にも呪術的要素を含む芸能や行事があった。古代日本は国家の政策として呪術行事が盛大に行われていた。
  • 節分 元は追儺という鬼を祓う中国の行事。大舎人による方相氏9という鬼祓い役が侵子と呼ばれる童子20人を引き連れ、大内裏10を「鬼やらう」と言いながら駆け回った。殿上人はでんでん太鼓を鳴らして楽しんだ。
  • どんど焼き 陰陽道の呪法+密教の護摩法=延命の呪法。正月に陰陽師、唱文師が行った。赤熊の髪と鬼の翁面2が舞い、嫗面2が太鼓、童子2腰鼓を打ち、囃すとき「止牟止也」「波阿」と言う。天狗祭とも呼ばれる。
  • 相撲の節会 地固めの呪法。力士は全国から集められた。先導する陰陽師が入場の際に反閉11を行い、衛門庁の前庭で3回乱声12を発する。力士は天皇の御前でシコを踏み、邪気を祓う。左方、右方に分かれて、競ったと見られる。雅楽も奏され、散楽も行われた。
  • 地鎮祭・立柱式・上棟式 建築など建立する際に神職や僧侶に依頼して立柱式や上棟式等の建築儀礼としての地鎮祭が行われる。土地の中に神が存在し、土を掘ったりすると土の神に触れ犯すことになり、犯土によって祟られる。これを鎮めるため儀礼は東アジアに共通する宗教観念である。地面の下の神とは古代中国後漢(25-220)における土公である。日本では鎌倉時代以前は密教僧や陰陽師が担当していた。江戸時代以降神職と大工による儀礼に転換した。考古発掘によって真言宗、天台宗の密教が地鎮・鎮壇儀法を持っていることがはっきりした。
    651
    孝徳帝が難波に築かれた新宮に遷居する前に安宅神呪経・土側経などの経を尼僧に読ませた。安宅神呪経は飛鳥時代(592-710)に伝わったもので仏典としては偽者である。[日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察]

仏教医学

インドでは仏教医学は仏教の集団生活と苦行による各種疾病の予防と治療、大慈大悲思想の実践、現世利益として疾病による苦痛の軽減、布教の手段として必要なものであった。インド医学に基礎をおきつつ単純な呪術や祈祷に依存しない科学的色彩が強い医学であった。
中国に仏教を布教した僧達は中国の老荘思想や陰陽五行思想等呪術的なものを混合して仏教を広めた。医学もこれに含まれ呪術と称して病気を治療しながら布教された。
朝鮮半島の百済(300-350から660)は541に中国の梁(502-557)に仏教の教義や医工を求めている。577には倭からの使いの帰途に合わせて禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工等を従わせている。呪禁師は呪文と祈祷を通じて伝染病を治療する僧侶であった。
日本書紀には百済の滅亡後(660以後)、百済僧が倭に渡ったと書かれている。日本書紀の天武紀(673-686)には百済からの渡来僧の呪禁博士沙宅万寿が見られる。[百済の呪禁師と薬師信仰]

律令制の呪禁師

呪禁を扱い主に伝染病を治療した。医療系の典薬寮13の官職。691に律令で14制定された。は出産時にも呪禁が行われて母子の安産を図った15。古代においては一種の病気治療(主に伝染病)の手段の1つとして考えられ、呪術によって病気の原因となる邪気を祓う治療などを行った。
奈良時代に厭魅16蠱毒17事件(道教系の呪術か?)の続発によって呪禁そのものが危険視され、養老律令(757)で厳しく禁止された。平安時代以降も度々詔を出して禁止されている。
8
世紀末頃には事実上廃止され、9世紀には呪禁師の制度自体が消滅した。一方で道教由来の陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。[Wikipedia: 道教]
仏教の呪禁師は以後も仏教の供養等の行事で見られる。

仏教の呪願師

「雅楽と法会」小野功龍に1083年の法勝寺塔の供養会について書かれている項に咒願師が登場する。再度引用する。師子舞の後に導師と咒願師が参入する。
  • 江家次第 法勝寺塔供養会1083
    1
    開眼作法2寢儀諸
    着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。

7師子舞の後に入場する咒願師は文章博士等によって作成された祝詞を読み上げる役と考えられる。[平安中後期の仁王会と儀式空間]
東大寺のお水取り(修二会、十一面悔過法)に咒師の役がある。修二会は757年施行の養老令に国の行事として記載されている。咒師は密教的修法を行う役割をする。大中臣祓詞を黙誦し、御幣で練行衆を清める(神道の行事)、咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱える(密教的な儀式 呪師走り)、鈴を鳴らして四方を結界し四天王を勧請する等。[Wikipedia: 修二会]この呪師の作法が猿楽の楽人に任せられ、後に能に発展する。

雅楽の呪師

教訓抄の盤渉調の項にある剣気褌脱という曲は相撲の節に演奏され、この曲の演奏中に猿楽(ジャグリング、雑技等)が演じられた。”呪師もあり”と説明の末尾にあり、鎌倉時代に猿楽・田楽と並んだ芸能と考えられる。[教訓抄]これは仏教の咒師と関係があるのではないか?
参考文献
  • [Wikipedia: 呪禁師]
  • [呪禁師ー国史大辞典]
  • [呪禁師ー日本史大事典]
  • [呪禁師ー平安時代史事典]
  • [Wikipedia 蠱毒]
  • [Wikipedia: 修二会]
1「天皇」は道教に由来するという説がある。[Wikipedia: 天皇大帝]
2神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。[Wikipedia: 神宮寺]
3魔術
4このような伝染病の流行は、文明人が南アメリカの原住民に接触した際にも起こっている。
5後世の神事に武芸が入るのは、この時近衛府が御霊会を担当し、武芸で競い合ったのを引き継いでいるから。
6新羅の牛頭山の神。猿田彦と同一視されていた。明治政府によって牛頭信仰は禁止された。
7両刃の刀に長い柄を取り付けたもの。武具を僻邪の祭具として用いたのは近衛の発想。
8日本全国を意味する。
9大晦日に陰陽師が行う悪鬼祓い”追儺(ついな)”で先陣を務める鬼神。4つ目の金色の仮面を被り鉾と盾を持つ。
10平安京の宮城
11陰陽道系の僻邪法。相撲のシコ踏み等。
12声による邪気払い。雅楽では笛、打楽器の乱打。
13医師、針師、按摩師、呪禁師で構成され、宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行ってた。[Wikipedia: 典薬寮]
14中国の制度を参考にしながら、7世紀後期(飛鳥時代後期)百済滅亡後から10世紀頃まで実施された。8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。Wikipediaより
15雅楽の性調の長命女児、千金女児と関係があるか?
16魔術
17古代中国で用いられた動物をつかった呪術。犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として『医学綱目』巻25の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるためこれを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが、「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ。」と記載されている。Wikipediaより