12 Jan 2019

獅子


師子

伎楽の師子

612年に伎楽の一部として師子が日本に伝来した。古典の音楽書に伎楽について書かれている。
  • 48日仏生会、715日伎楽会と言う。(略)この舞いは聖徳太子の時代に百済より未摩之という舞師が伝えた妓楽である。先ず盤渉調音取り、次に同行音声または同行拍子を奏して行道をする。列の順序は先ず師子、次に諸曲の舞人、次に笛吹き、帽子冠を被った者、三鼓2人、銅拍子2人。先ず師子が舞う。その曲壱越調音、陵王の破に似る。喚頭1あり。古い書物には破、喚頭3回、高舞3回、口下3回、何事哉。(略)[教訓抄]
  • 伎楽の笛は戸部氏相伝の曲。笙、篳篥の曲ではなく、三鼓も用いない。横笛の秘曲である。興福寺の混同で毎年48日に演奏される。曲は残っているが、舞いは断絶している。[楽家録ー伎楽之笛相伝]
伎楽も龍笛の秘曲であった。上記教訓抄の記述では、伎楽の師子は壱越調で陵王破に似ており、繰り返しの際に演奏される喚頭部分があった。壱越調は、箕田流獅子舞よりも全音1個高い調で、音階はレミファ#ソラシドである。古い書物からの引用の、“破”と”喚頭”は曲の構成部分と繰り返しを意味していると考えられる。高舞と口下についてはわからない。
[雅楽ー古楽譜の解読]に伎楽を五線譜に書き直したものが掲載されている。師子も含まれている。この師子は[伎楽曲新考]で述べられている秘曲師子とは異なる曲である。

秘曲師子

古典の音楽書に師子が龍笛の秘曲であると書かれている。
  • この曲は序破急2がある。御願供養3で演奏される。笛太鼓鉦鼓が用いられた。戸部氏が伝える秘曲である。次の詠がある。西に向かって唱える。
    獅子天竺 問学聖人 瑠璃大臣 来朝太子
    飛行自在 飲食羅刹 全身仏性 尽未輦車
    毘婆太子 高祖大臣 随身眷属 故我稽(首)礼[教訓抄]

  • 中華の曲において獅子荒序伎楽、高麗曲において狛犬吉簡を秘曲とする。この内獅子伎楽は横笛に限る。[楽家録ー横笛秘曲]
  • 獅子は笙、篳篥の曲ではない、横笛の秘曲である。戸部氏にて断絶後、京都楽人大神氏が相伝した。毎年天王寺にて215日と22日に演奏した。15日は秦氏が奏し、22日は必ず大神氏が奏した。音取りは秘するため伝えられない。曲は残って居るが舞いは断絶。先ず左方が菩薩を奏し、その後右方がこれを奏する。舞いの手順は獅子2頭が舞台に上り2回廻る。1頭は順方向、もう1頭は逆方向。1人は獅子頭を被り、もう1人は尾に入る。計4人。最後に楽屋に入って終わる。旧記によると、先ず乱声を奏し、この間に舞い人出る。次に音取り、そして当曲演奏。[楽家録ー獅子笛相伝]
師子については研究論文が幾つもある。林謙三による論文では、師子は壱越調で曲は雅楽の陵王破に似ていることを楽曲を分析して確認している。[雅楽ー古楽譜の解読]
鎌倉時代に写された伎楽の譜(琵琶)が残っており、五線譜に書き直されたものが[伎楽曲新考]にある。この伎楽の譜の師子は教訓抄、楽家録等の音楽書に見られる秘曲師子と考えられ、序破急の形式からなっている。[伎楽曲新考]
元々伎楽の一部であった師子が、それだけ取り出して法会に使われるようになった。
実際の演奏に際しては、その譜の音価を1/4にして演奏されていたと考えられる。短い序破急の形式からなり、箕田流の獅子舞の曲とは全く異なる曲である。

秘曲師子はどのように舞われたか

師子の演技の様子について書かれた記事を抜き出す。
  • 伎楽の師子
    古い書物には破、喚頭3回、高舞3回、口下3回、何事哉。[教訓抄]

  • 1214七条歓喜寿院供養にて(略)この左方は先人のものと異なった。法用が終わってから舞った。先ず左楽行事(次第を司る者)が召され、師子を舞うため、4を引き刷りながら楽屋より出て庭中へ進み、半ば辺りに立って甲を脱いで腰に着け、烏帽子を引き立てて古楽乱声を吹いた。その時に左の師子が起き上がって、舞台に上り、四角を拝して、正面に立って2度拝し、この後乱声が吹き止んだ。古くはここで詠5があった。次に序、破、急の形式で3回吹いた。師子が舞い終わった後、甲を着けて楽屋へ帰った。その都度異なる。不審がない分けではない。公の行事ではない時の師子の例。鴨神社の一切経会、清延が楽屋の中で吹いた。経頭馬一頭が引いた。天王寺・住吉社に師子がある。それはとても異なるものである。乱声も別物、曲を吹く様子も太鼓を打つ様子も替わっていた。なかなか本朝の師子より興味深い。(略)[教訓抄]
  • 1330舞楽の伽陵頻と胡跳が演じられた後、師子の乱声が鳴り、狛犬は地にふし、師子が舞台に登る。四方に礼し本尊と證誠を拝む。太鼓が三拍子になったら、つなとりが綱を獅子に打ちかけ、蝿払いと共に舞台の左右のすみに控える。[元徳二年三月日吉社並叡山行幸記呂一]
  • 龍頭鷁首6の船が現れ出て、獅子、駒犬、傀儡など船より神前に参り、菩薩舞い等種々の曲を行い、古式の様相を表した。駒形の舞楽の後2獅子2頭で獅子舞が行われ、鳥蝶舞楽、菩薩が行われた。[北和介文書放生会記、法鏡寺文書等 放生会の由緒]
  • 1開眼作法2寢儀諸着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師7参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。
    [雅楽と法会]


中国の獅子舞

伎楽由来の日本の雅楽や寺社の師子は北勢地区の獅子舞と似ている部分が少ない。日本よりも古くから獅子舞があったと考えられる中国の獅子舞はどのようなものか?


漢代の壁画や石刻に“舞巨獣”というのがあり、これが中国南北朝時代(日本では古墳時代)になると獅子舞として、百戯の1つとなり、唐代には”五方獅子舞”と称せられた。(略)もっとも獅子舞はイラン原産でシルクロードを経て中国へ入ってきたといわれている。[新装新版中国文化伝来事典:獅子舞]
獅子舞の発展の歴史は長い。漢代(BC206-AD220)の「象人8」、北魏(386-534)の「避邪獅子」、唐代(618-907)の「五方獅子舞」、宋代(960-1279)の「獅子戯球」、明代(1368-1644)の「大小獅子」と、たゆみ無く蓄積され発展していった。[舞龍舞獅]
清代(1636-1912)の頃の雑技には舞獅子という演目ではなく「太獅子」「少獅子」とある。太獅子は大人の獅子で、少獅子は子供の獅子である。[アジア演劇人類学の世界]

現在の中国の獅子舞

中国の獅子舞は発展して現在、南北二大流派が形成されている。一般に揚子江を境にして北と南を分ける。[アジア演劇人類学の世界]

北方獅子:

北獅は正月に演じられ、主として新年を迎えた人々に福をもたらす神獣である獅子が、邪気を祓う古儺の習俗を強く反映しているようである。また神を迎える賽会(祭礼)、雨乞いや厳粛なる祭儀などでも獅子舞が演じられることがある。
伝統的な演出形式は2匹の獅子と2人の舞人からなる。大羅漢の面見を付けた
矮胖和尚(背が低く腹が膨れた和尚)が獅子を引き出すののが原型で、仏教と獅子舞との関係に追遡できる。いかなる獰猛な獣も和尚の霊力によって意のままになることを表現している。この原型は南方より伝えられたとも言われる。[アジア演劇人類学の世界]
北獅は獅子の生態を真似た軽快な動きと玉乗りなど曲芸の要素を取り入れているのが特徴となる。二人で演じるのが大獅で、独りで演じるのが小獅である。大獅は文獅と武獅に分けられることもある。文獅はおとなしい獅子の姿を主に演じる。毛をなめたり、振り回したり、かいたり、また転げ回ったりする。武獅は、獅子の勇猛な性格を主に演じる。飛びかかったり、よじ登ったり、飛び跳ねたり、球を踏んだりする。大獅は二人、少獅は一人で演じる。獅子の身につけた装飾は長い毛によって隠されている。獅子を舞うときは獅子だけが見えていて、中の人は全く見えない[神事としての獅子舞]中の李英儒の説明より

南方獅子:

南獅は獅子の鱗状の文様が特徴であり、演技は武功を基礎として勇猛果敢である。どの獅子も2人で演じられる。ただ縁起中に中の人間が見えてもかまわない。
南方派もまた北方派も獅子を舞う間、銅鐸や太鼓が伴奏する。演じるとき、型で決まった動作があり、例えば球ころがしの獅子舞い、武士の獅子舞い、兄妹の獅子舞などである。獅子舞は地方によって違い、例えば河北には双獅、安徽には青獅がある。[神事としての獅子舞]中の李英儒の説明より
広東の瑞獅(醒獅ともいう)は梯子を登り、高いところで曲芸的なものを見せたりする。本来は竹竿の先に紅封包(お金を包んだもの)と一束の緑葉をつけたものを、獅子舞の後脚の者の肩の上に乗って、一歩一歩その竹竿に近づき、手を獅子の口から伸ばして紅封包を取るという採青から発達したものである。この演出は戯園(劇場)や広場で演じられることが多く、楼台の上に作られた椅子から下を眺めたり、ぐるぐると徘徊したり、見回したり、激しくぶつかったり、しゃがみ込んで歯を磨いたり、ときには身を伏して寝たりするように、様々な態を見せたりする。(略)湖南省の獅子舞は、毛を舐めたり、痒みを掻いたり、転げたりする。獅子郎は大羅漢の面見をつけ、手に大きな蒲扇をもって、獅子をからかったり、眠っている獅子に手を出したりする。[アジア演劇人類学の世界]

南北の共通点

獅子舞は中国の民族的行事の中でも最も一般的な民間舞踏である。長い間、獅子は人々の心の内で瑞獣であり、武威と吉祥の象徴であった。そのため、春節や元宵、縁日などの大事な祝賀行事に、各地の人々は銅鐸や太鼓を叩いて獅子を舞う。自ら楽しむと共に、邪気を祓い、福を求める願いを託した。[舞龍舞獅]
中国の獅子舞は、時代色や地方色によってさまざまであるが、悪霊の退散や招福を願うという点で、また民間で行われる芸能であるという点で一貫している。民間芸能としても今日でも盛んに行われている。[神事としての獅子舞]
安徽省9では病気になった人が寝ている寝室に獅子が入り舞うことで目に見えない病魔を祓い除くことができると信じられている。また幼い児を獅子の口内にいれて、咬んでもらうことをする。こうすれば病気せずに、丈夫に成長すると言われる。[アジア演劇人類学の世界]


まとめ

湖南省の獅子舞が、面を付け扇で獅子をからかったり、眠っている獅子に手を出したりするという点で、北勢地区の獅子舞に似ている。


日本の獅子舞

唐の獅子舞が日本に伝わり、舞楽として演奏されている内に、太神楽などで悪魔払いや豊作の祈祷として民間に定着したものである。[新装新版中国文化伝来事典:獅子舞]
日本の獅子舞は仏教行事から神事へと発展し、さらに見せ物的要素が加わり民間芸能として盛んになった。民俗芸能として広まったことにより、能の「石橋」、歌舞伎の獅子の演目として舞台芸能として発展した。[神事としての獅子舞]
舞いにおいては、雅楽や社寺の祭礼の師子の記録よりも、中国の南方の獅子舞の原型に近いと思われる。
まとめ
北獅子と南獅子の両方ともその原型においては獅子使いが羅漢の面ををつけていたのは興味深い。しかし原型がいつ頃のものかはわからない。
北勢地区の獅子舞は、年中行事絵巻にある祇園、稲荷の御霊会の絵図にある獅子舞とよく似ている。獅子頭の形、幌の装飾、行道においては先に鉾、次いで鼻高面、獅子と続き、行道の並び順と同じである。一方でその舞いは四方祓いのみが雅楽や社寺の祭礼の師子の舞いと共通している。全体としては中国南方湖南省の扇を使って獅子にちょっかいをだす獅子舞に近い。広東の瑞獅の原型である採青は花の舞の原型のようにも見える。これら南方の獅子舞の舞いが別個に日本に伝わったため、花の舞が一連の獅子舞とは別個になっているのかもしれない。
この中国の獅子舞の原型がいつ頃のものであるかわからない。日本でも獅子舞は仏教と共に発展した。口取は仏教にちなむ役割、インド人仏教僧の導師、呪禁師等ではないか。

中国との国交

飛鳥、奈良、平安時代を通して中国に対して朝貢し、冊封されて交易を行い、密教、舞楽が伝来した。894に遣唐使が停止され、907には唐が滅び、遣唐使も消滅した。
960に北宋が起こり、九州では商人達による私貿易が行われていた。
1126南宋成立。私貿易が続く。
1173に平清盛が正式に国交を開き日宋貿易を振興した。
1185-1333鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、幕府は民間貿易を認めていた。
南宋の滅亡(1279)後も延長として元との日元貿易が行われている。
1401室町幕府(1338-1573)によって日明貿易が本格的に再開される。遣唐使消滅からここまで日中の交易は私貿易が主だった。
1603-1867江戸幕府の鎖国政策によって貿易が制限されつつ行われた。貿易の相手はオランダ東インド会社や、中国の明・清の商人、李氏朝鮮、琉球王国、アイヌだった。[Wikipedia: 日本の貿易史]

まとめ

平安期より後には公的権力によって貿易が独占されることが少なく、中国の民間の獅子舞が日本に流出する機会はあったと考えられる。
1雅楽の唐楽において,曲の冒頭に演奏した部分と入替えて演奏する部分。
2日本雅楽の楽曲構造
3
4奈良時代以降の束帯および衣冠着用のときの上着。
5詠とは楽曲中で読まれる詩である。[教訓抄]には次の詠を西に向かって唱えるとある。
獅子天竺 問学聖人 瑠璃大臣 来朝太子
飛行自在 飲食羅刹 全身仏性 尽未輦車
毘婆太子 高祖大臣 随身眷属 故我稽(首)礼
6平安時代、船遊びに用いた21対の船。鷁は想像上の白い水鳥。
7呪禁師ではないか?
8動物等のものまね芸
9上海、南京に近い。