12 Jan 2019

仏教史、神道史


インドで仏教が批判したバラモン教、仏教が衰退したときに興隆していたヒンズー教とはどんな宗教か?

バラモン教

バラモン教という言葉は近代イギリス人による語。インド・ネパールではヴェーダの祭祀を行う人々の宗教=ヴェーダの宗教と呼ばれた。ヴェーダは聖典であり、天地太陽風火等自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭祀を中心とする。人が現世で行った行為(業)が原因となって来世の運命が決まる。無限に続くこの運命から解脱する道を求めるというもの。
原始仏教では、現実的問題心的ストレスからの脱却、科学的観察、思考、行動の体得について述べられているが、大乗仏教ではバラモン教の教理が見られる。原始仏教はバラモン教を批判、否定した。浄土信仰を持つ大乗仏教は原始仏教ではなく、バラモン教のように見える。

ヒンズー教

ヒンズー教という言葉は西欧で作られた言葉である。インド・ネパールで多数を占める民族的伝統であって、信仰を持つか持たないか、どの宗教を信仰するかは個人の選択である。
バラモンの祭祀等について細かく書かれた宗教書:ヴェーダが完成した頃、バラモン教(ヴェーダの宗教)は仏教、ジャイナ教等から祭祀重視の姿勢を批判された。以後カースト制を引き継いだまま土着の民族宗教(多神教)と崇拝様式を取り込み、徐々にヒンズー教として形成された。
B.C. 5-4c ヒンズー教として顕在化
A.D. 4-5c 仏教を凌ぐ。
キリスト、イスラムなど、インド以外で成立した特定宗教以外の全てを含む。仏教、ジャイナ教も広義のヒンズー教である。教会制度、宗教的権威はなく、預言者もいない。多神教、汎神論、無神論、人道主義など、自身の思想を自由に選択する。
ヒンズー教の神々は信者によって、信仰されない場合もある。
  • ヴィシュヌ:慈愛、怪鳥の神(ガルーダ1)に乗る。北伝仏教では吉兆天。
    • 化身:クリシュナ 横笛2を吹く像で表されたものがある。マハーバーラタの英雄、民間で人気。釈迦はこの9番目の化身。
  • シヴァ:創造と破壊、牡牛(ナンディ)に乗る。北伝仏教では大黒天。
    • 化身:パールバティ ヒマラヤ神の娘、穏やかで心優しい。
  • ブラフマー:あらゆるものに存在する縁起を与える。老人の姿で表される。水鳥(ハンサ)に乗る。北伝仏教では梵天、弁財天。
    • 化身:サラスヴァティ
南アジアで家畜化された背に瘤のある牛瘤牛が崇拝対象である。水牛は対象ではない。バラモン、ヒンズーを始めとするインド発祥の諸宗教で神聖視されている。

インドにおける仏教の変遷

日本に伝わった仏教は、釈迦の死後数百年を経てインドで生み出された大乗仏教、次いで密教。次に年代順に諸派の成立過程を追う。
  • 釈迦の死後100年頃 僧団に属する出家修行者が守るルール”律”において、托鉢における金銭の布施をめぐって上座部と大衆部で論争が起き、仏教教団が2つに分裂した。上座部3と大衆部4に根本的に分裂した。
  • B.C. 250 アショーカ王が3回めの教典編集を行った。この頃に口伝を文字にして教典ができた。
  • B.C. 0前後 大乗仏教5が起こった。人は他者によって救済されることが可能で、修行者が一般民衆など非出家者をも救済するという考え。中国・韓国・日本に伝わった。(北伝仏教)。
  • 6世紀頃 部派仏教(上座部)がインドから消滅。
  • 7世紀 仏教自体は廃れており、ヒンズー教、次いでイスラム教へ移行した。大乗仏教はヒンズー教に吸収されてゆき、最終的にその一派のタントラ教の教義を受け入れて密教6となった。チベット・ブータン・中国・韓国・日本へ伝わって、それぞれに変容している。

原始仏典

釈迦は自分の述べた教えを書いて残さないようにしていた。その死後、仏弟子達が記憶を頼りにまとめ上げたのが原始仏典である。最古の仏典の1つと考えられるスッタニパータには簡素で科学的な態度が書かれている。以下抜粋。

スッタニパータ

  • 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが目的を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
  • 41 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
  • 75 今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
  • 104 血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を軽蔑する人がいる、ーこれは破滅への門である。
  • 242 (前略)これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
  • 590 人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもう私の力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
  • 894 一方的に決定した立場に立って自ら考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執することがない。
  • 1035 (前略)世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(後略)
  • 853 (前略)自分の確かめたことだけを信ずるのである。いかなる権威者をも信ぜず、神々さえも信じない(後略)
  • 1146 (中略)最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。
242は釈迦の弟子の詩。精進料理はなまぐさの意味の基本的間違いの上に成り立っていると言える。1035590をみると現代においても仏教で僧位を得るために行う苦行に意味が全くないと思われる。894哲学的断定を捨てるということは、つまり仏教は哲学ではないことを示している。3741から修行には身近な存在達と物理的距離をとってしまう必要がある。それが出家という手段か。

ダンマパダ

  • 166 たとえ他人にとって以下に大事であろうとも、他人の目的のために自分のつとめをすてさってはならぬ。(後略)
  • 201 勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
  • 380 実に自己は自分の主である。自己は自分の帰処である。故に自分をととのえよ。ー商人が良い馬を調教するように。
166は基本。他人を利用しようとする人は徹底して回避する対象。201野球ファンにも見られる。スポーツ観戦も勝敗に心が動かされる見方では心が病んでいる。380応用行動心理学は動物を躾けるのにも人間を訓練するのにも有効。この文は興味深い。

ウダーナヴァルガ

  • 13-18 けだし良家の(人々からの)つねに受ける礼拝と尊敬とは、汚泥のようなものであると(修行者は)しっているからである。細い矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬をすてることは難しい。
ウダーナヴァルガは信仰を勧める文が収録されており、原始仏典とは趣きを異にする。幾らかの文は現在の葬式仏教からは意外性を示す。
参考文献
  • Wikipedia 初期仏教、仏教、律、大衆部、教相判釈、ヴェーダ
  • ブッダのことば 中村元 岩波文庫
  • ブッダの真理のことば、感興のことば


密教

平安時代、政治を担っていた貴族は度々起こる疫病の流行を解決することができず、恐れおののいていた。寺院に引きこもり仏像に祈るだけの奈良仏教を見限り、呪術を行う密教に期待した。現代にも繋がっている密教とはどういうものか?原始仏教では僧による呪術は禁止されていたのだが。
インドでは仏僧は教理の研究に集中し、布教を疎かにしていて、民衆の間では衰退していた。
  • 初期密教:バラモン教の呪文(マントラ)に影響を受け、呪術的要素が取り入れらた。呪文を唱えて現世利益を願った。
  • 中期密教:ヒンズー教に対抗するため理論体系が整備され、大日如来(実在した人ではない)が中心に据えられた。ヒンズーの日常祭祀、民間信仰、大衆重視には歯がたたなかった。
  • 後期密教:ヒンズーの神の性力を崇拝するタントラ思想がとりいれられた。仏教のヒンズー化。中国には性道徳上受け入れられなかったと考えられる。よって日本に伝わった密教は中期密教と言える。
ヒンズーが大衆に広まり、イスラム教の仏教への弾圧によってインドから仏教は消滅した。
日本では6cまでに密教が断片的に伝えられており、初期密教があった。
奈良時代には役小角によって山岳信仰と初期密教が結びつき、修験道が始まった。仏教伝来前の古神道と仏教の融合、神仏習合の主体となった。空海は遣唐使になる前に山岳修行をしていた。天台宗の高僧にも山岳修行を行った者がいた。修験道は仏教の一派とも考えられている。修験者はほぼ本山派(天台)と当山派(真言)に分けられる。後に空海によって中期密教が伝えられた。[Wikipedia: 密教]
密教の呪術の歴史を追ってみる。
  • B.C. 13c アーリア人がイラン高原からインドに侵入し、土着のドラヴィダ人を支配するため、土着の神を祀る祭祀(呪術)を行った。雅楽の舞楽:案摩7がこの祭祀の様子を表したものと考えられる。
  • B.C. 5c 4ヴェーダ8が完成され、バラモン教となった。カースト制度9を含んでいた。
  • 仏教、ジャイナ教10から批判される。
  • A.D. 1c バラモン教はヒンズー教に変化し、最高支配階級のバラモンの勢力は失われた。
  • 仏教衰退。バラモン教の呪術を取り込む。
  • 中国、日本へ伝来。
  • 平安2宗(天台宗、真言宗)が朝廷より護国寺とされる。御霊会を任される。
  • 密教、儒教、道教、天文、暦書等から日本独自の陰陽道が作られる。
  • 戦国時代に衰退。
  • 江戸時代 幕府の管理下におかれる。政治への影響力は無かった。
  • 明治 呪術が禁止された。

日本の仏教史

587 仏教推進派の蘇我氏が反対派の物部氏を滅ぼし、国内への仏教の浸透が本格化した。[Wikipedia: 丁未の乱]
平安時代までの仏教は国家、貴族に独占されており、民衆に広めることは禁じられていた。
平安時代に鎮護国家を担った山門(比叡山延暦寺)勢力は教義の教えや体系的な学問に励む一方、加持祈祷や僧兵の武力を通じて、政治権力を持つようになっていた。11
延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。
1150ごろから1300にかけて、政権が武士たちに渡り、貴族が没落していくなか、仏教は新たにパトロンを見つける必要に迫られた。新興の武士や農民たちをターゲットとし、大衆の救済へを謳い国家から自立した布教活動が行われ、仏教の一般大衆化が推進された。天台宗は元々すべての衆生は成仏できるという立場を取っており、比叡山で学んだ僧によって鎌倉仏教が作られた。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗(この内2つの禅宗は中国から新たに輸入された。)これらは細かい教理は其々異なるが、平安時代までの出家僧に要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(禅宗は戒律を重視)、信仰によって在家(在俗生活)のままで救われると説く点では共通する。
出家し修行する僧からみれば、修行がばかばかしくなるおかしな教えである。大乗仏教は悟った僧の間では民主主義的であるが、悟っていない民衆は教義を信じ込ませて僧に従わせれば良いと考えているので、大衆をパトロンにするには簡単な教義で信仰心を植え付けるのが常套手段だったのだろう。
[Wikipedia: 鎌倉仏教]
1338-1573室町時代には寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や供養料などを元手に金融業に進出するところもあった。また当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。
1467応仁の乱後、治安の悪化とともに宗教勢力も武力を強めた。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体同志による宗教戦争も起こった。中でも加賀国一揆等の一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約80年に渡って徴税権と裁判権を握り国を支配した。石山本願寺などは大名家のような強固な組織となり、その勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須であった。大名の多くは妥協の道をとっていた。
しかし尾張の戦国大名・織田信長は「天下布武」という方針の下、対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦など。[Wikipedia: 日本の仏教]



1582信長が本能寺の変で死ぬと家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺や高野山を屈服させた。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩・惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。この結果として平安時代末期から約五百年間続いた寺社勢力は日本の権力構造から消えることとなった。



1603-1887江戸時代 徳川家康は寺社奉行を置き仏教を取り締まった。寺院諸法度を制定し、人々を必ずいずれかの寺院に登録させ、布教活動を実質的に封じた。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗の本願寺に対しては、内部紛争につけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させた。
1665年に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行い規制を強化した。



伊勢流、熱田流太神楽(獅子舞)が江戸に上って回壇する。伊勢太神楽は陰陽師系の六角佐々木氏が織田信長の侵攻から逃れ桑名に住み着き、山本流から獅子舞を習って日本全国を回壇し始めた。
1868-1912明治時代 大政奉還により天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少した。各宗派は仏教の近代化を推し進め、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。



1926-1989昭和近代の政府は、1939に宗教団体法を制定。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではなく公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、明治期から法案が提出されることがあったが否決続きで成立していなかった。宗教団体法の制定によって一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。
1945第二次世界大戦後、宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1951認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長に日蓮正宗系新宗教の創価学会や法華系新宗教の立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。1970年代には精神世界ブームに後押しされ、密教系新宗教である阿含宗や真如苑が伸張した。1980年代後半には、チベット仏教・原始仏教・ヒンドゥー教等の影響を受けたオウム真理教が注目された。1980年代末期から1990年代中期にかけて、オウム真理教はオウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こし、これをきっかけにして1995年には宗教法人法が一部改正された。[Wikipedia: 日本の仏教]

まとめ

元々の仏教は宗教への迷妄から抜け出し、科学的に観察、思考、行動を行えるように訓練するものであったと考えられる。インドで一時衰退し、大乗仏教となって再興した時には、僧の間では民主主義的議決が行われていても、一般民衆は教義で騙して僧に従わせるという宗教に成り代わっていた。それが日本に伝来し、豪族、貴族、士族をパトロンとし、領地と僧兵を抱え一国を牛じるまでに成長した。獅子舞は仏教系の呪術舞であった。
戦国時代に織田信長による虐殺によって統制が始まり、平安時代よりの仏教勢力の力は削がれた。
江戸時代には陰陽師共々幕府の監督下に置かれた。仏教は幕府の寺請制度に組み込み監督下に置かれた。獅子舞はこの過程で仏教から切り離され、神社へと移され、仏教系呪術から神事となったのではないか?



陰陽師への統制

江戸時代には陰陽師の活動を統制するため、陰陽師の本家を再興させて諸国陰陽師を支配させた。陰陽道が政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着した。その活動においてはだましものと扱われた者も非常に多く、後の占い禁止につながった。
1872新政府は陰陽道を迷信として廃止した。



神社史

中世 神仏習合によって神道と密教が統合され、神道は十分に自立した活動を展開することはなかった。
1336-1537室町時代 公家の吉田家が神道を仏教から独立させ、その優位を説き始めた。吉田家は神祇官の下級官吏から出世し、応仁の乱によって廃絶した神祇官庁舎の役割を吉田家の施設が代行することになり、神道界の頂点の地位を占めていった。一名の神職が数村の祭祀を兼帯することが一般的であった。
豊臣政権も徳川政権も、朝廷・天皇を温存したのは、その保護が西国大名をはじめとする諸勢力に政権奪取の名分を与えない効力を有するからであった。
1600-1650 兵農分離政策によって各領主が江戸に常駐の兵力として住まわされた。以前は領主によって維持・運営されていた地域の神社の神職が失脚することもあり、在地の氏子によって運営され始めた。東照宮を頂点とする宗教秩序が再構築され、神社・神職の統制が始まった。
地方を巡って活動していた山伏が地方に定住した。山伏が行っていた人形芝居、獅子舞等の芸能が地域に定着し始めた。
1650-1700 公家の吉田家が幕府を後ろ立てにして神職制度を支配。祀られる神がはっきりしない神社は破却され、多数の神社が淘汰された。神職の整理・序列化が進められた。式内社等の古社が重視された。
1700-1750 荘郷を解体し、新たに村を設定(村切り)した。新たに区画分けされた村毎に氏神が祀られた。元々の荘郷氏神を継承することもあったが、あらたな氏神が設定されることもあった。この時の村の区画が”字”として残っている。農業生産力が向上し、余剰産物の売買が活発になり、商品経済が全国的に発展した。神社境内や付属の山林の価値が上昇した。神社の支配権を巡る争奪が激化した。
神社の支配権の確定が必要になり、経済的余裕の出来た村は吉田家から神位を買った。祭神等の基礎事項が明確でなかい場合は吉田家の勘考によって決定された。こうして祭神や由緒の均質化が進行し、在地に伝承された神格や由緒が駆逐され、記紀神話など朝廷の神体系に組み込まれていった。
1750-1873 神職が存在しない村では百姓身分の宮守、掃除人が神社支配権を掌握し、事実上神職戸して活動する者が現れた。都市では農村を追われた棄民が竈祓や祈祷、祭礼時の臨時雇、門付けを行なう「神道者」が現れた。公家の白川家がこれらの下級宗教者を取り込み、神職のみを対象としていた吉田家に対抗し始めた。結果地方の神社に朝廷に深く関わる神が祭られることになった。
神社は地域の文化芸能の拠点になり、宗教者が中心になって文化が盛んになった。著名な神社への参詣、祭礼の華美化、境内での様々な芸能興業が流行した。多くの参詣客を誘引するする神社を擁する地域では、神社の存在と人気の多寡が地域経済に大きく影響した。
1873 明治政府により神道国教化。大社が国有化され、天皇・朝廷を民衆から切り離して権威を高め、政府の威信も高めた。帝国憲法では信教の自由が明記されていたにも関わらず政府は神道国教化を目指したが振るわず、次に「神道は宗教ではない」として神道・神社を他宗教の上位に置く事は信教の自由とは矛盾しないという公式見解を示し国家神道を推進した。[近世神社通史稿]
1945 日本の降伏により太平洋戦争終結。神道指令により神社と行政機関の接点が全て廃止される。
1946 すべての神社関係法令が廃止され、神道は政教分離政策によって政治から切り離された。これ以後神社本庁によって統括されるが、神社本庁は民間の一宗教法人に過ぎない。[Wikipedia: 国家神道]

まとめ

江戸時代中期(1750)以降に農業生産が安定し、経済が発展した。地域の集落はより一層の利益を上げるため神社の格式を明確化させた。吉田神道と白川神道の覇権争いによって地方の末端の神社に朝廷由来の神々が祀られることになった。江戸時代は仏教は幕府によって厳しく統制された。仏教由来の芸能、行事は神社に拠点を移したのではないか?神社は地域文化・芸能の拠点になった。楠町本郷の箕田流の獅子舞はこの時代以降に成立したものではないか?明治時代には神道国教化政策に沿って神道の威信を示すために格式の高い神社にしかなかった獅子舞が伝承されたのでは?その演目の筋が中国の古い獅子舞、湖南省の獅子舞に似ているのが興味深い。江戸時代には幕府によって仏教は厳しく統制下されていた。仏教系の呪術芸能は神社に移され、仏教との関係性を断たれた。それ故鼻高面が古代のインドの仏教僧に由来していることが伏せられたのではないか?
この地方の獅子舞の団体を幾つか見学したが、現在に至ってもなお過去の統治体制によって行われた心理的統治政策(洗脳)の影響が見られる。教育の不徹底さ、儒教的道徳、礼儀が若い世代の知的成長を妨げている現状が改善されることは当分ないと思われる。
1伎楽では迦楼羅。蛇を好物とする音楽の神。舞楽の迦陵頻伽はこの鳥の舞いという説がある。
2このクリシュナの吹く横笛が現在の横笛の源流ではないか。
3自らを頼り、自ら修行して悟るという仏教の源流。托鉢における金銭の布施を非容認。釈迦やその直弟子の伝統的な教義を守る保守派仏教。インド各地に分散していた修行者達がそれぞれに仏典の整理・解析を行ったので、20程の学派ができた。この内上座部だけが現在まで続いている。
4大乗仏教の源流とする説がある。托鉢における金銭の布施を容認。容認派が多人数だったため大衆部という。
5人は他者によって救済されることが可能で、修行者が一般民衆など非出家者をも救済する教義。
6密教とは大乗仏教のヒンズー化である。
7厚紙と白い布で出来た蔵面をつけ、杓を持って舞う。番舞いは二の舞。アーリア人が土着の神に対する祭祀を行い、土着のドラヴィダ人がそれを模した様子を表したという説がある。蔵面は風土病の感染対策と考えられる。
8B.C. 1000頃からB.C.500頃にかけてインドで編纂された宗教文書。バラモン教の聖典。呪詞が含まれている。
9司祭階級(バラモン)を頂点とする身分制度。王侯貴族はその次の階級クシャトリア。釈迦はクシャトリア出身。
10バラモン教、ヴェーダの権威を否定した。苦行・禁欲主義。
11延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備え、また神輿を担いで強訴を行い、自身の要求を主張するようになった。