12 Jan 2019

地方の獅子舞


前書き

本稿は三重県の北勢地区、四日市市楠町本郷にて明治より継承されていた箕田流獅子舞の楽曲についてのレポートである。北勢地区には鈴鹿市に拠点を置く4流派の獅子舞が広く分布しており、箕田流獅子舞もその1つである。楠町本郷の氏子の方々から本研究に際して獅子舞全曲の動画資料を提供して頂いた。ここに感謝を述べる。

三重県北勢地域の獅子舞ー特に楠町本郷の獅子舞

三重県北勢地域の獅子舞は伊奈冨神社を中心に行われていた太神楽としての獅子舞が元と考えられる。太神楽とは伊勢神宮への参詣の代わりに各家庭を周り、お祓い、お札の交換を行なう神楽である。江戸時代には桑名、四日市に拠点を置く伊勢太神楽が日本全国を回壇した。伊勢太神楽は四山の獅子の1つである山本流から伝習し、改良を加え、曲芸を追加したものである。その結果この地域に受け継がれる獅子舞とは全く異なったものになっている。一方この地域の獅子舞は江戸時代末期から明治初期にかけて鈴鹿、四日市近辺の20数社の神社へ伝習されて広がった。昭和の初年までは舞い年になると旧正月7日〜33日まで津〜四日市までを回壇。その後伊奈冨の春の大祭に集合し舞いを奉納していた。
「民族芸術」三ノ一に藤堂家が寄稿した[伊勢の獅子舞]にもう一寸詳しい記述がある。古来第一の格式に位置づけられた伊奈冨神社の獅子舞神事は4年毎の416日に「舞い込み」、17日に「練り込み」の行事を行なうものであった。獅子舞には必ず神職が付き添い、舞曲中に祈祷の神符を授与した。獅子頭を明神と崇め、男子が紋服を新調すると、この明神に銜えてもらって縁起を祝う習わしもある。獅子を冠る者をししとりと言い、他に口取といって、鳥甲、猿田彦面にささらをとった童子がつく。囃子は普通笛と太鼓で、門舞と本舞とがあり、門舞は門前で一寸舞うもの、本舞いはあらかじめ場所を設けて、四方に竹を立て、注連を巡らし、供え物をして舞うものであった。観音堂の本舞いには、扇の舞い、花の舞い、起こし舞い等、稲生には、乱調、中起、扇舞、子供の芸、神扇、からすとり、打上等があった。
楠本郷は明治に下箕田の久久志弥神社より伝習した地域の1つである。その獅子頭は明治19(1886)に作られた記録がある。3月の第3日曜と10月の体育の日に行われていた。青年団1を中心に10人以上で構成。湯の花神事2は獅子舞の曲中で笛太鼓を伴って行われていた。舞う場所に蓆を12枚程敷いて舞台を作った。口取りは子供たちがたちつけ姿、(袴の一種、膝から下を脚絆(すねにきっちり巻いて歩き易くする布で旅行等に用いた)にして舞った。だんちょう(祈祷)は保存会の者が神主代わりとなり、行なった。楠の獅子舞は獅子の動きに静と動、笛に強弱がり、旋律は優雅で舞いの間に弱く奏でる影の笛の音色が美しい。北か西を正面にして演じられた。太鼓は曲げ物胴の締め太鼓。この太鼓は雅楽で使われるかっこが大型化したものに見える。笛2人、太鼓1人、口取1人、獅子2人を交代で薬45分途切れることなく演じた。現在、本拠の下箕田も含めて楠近隣の獅子舞には45分間決めれなく続く曲は残っていない。楠の獅子舞ではほぼ完全に残っており、それに加えて花の舞いがあった。また湯の花神事に演奏される楽曲が残って居る。その曲は笛とかっこ、銅拍子で演奏される。下箕田にはかつて獅子舞の他に神前に奉納する御神楽があったが現在はない。箕田流の獅子舞を継承する石薬師南町には同じ曲(おかぐらと呼称)が残っている。楠よりも優雅な装飾音が使われる。同北町の山本流では使われない曲である。
実際には神事としての獅子舞を担う家系があり、村の者なら誰でも参加できるわけではなかった。地域によっては郷土の者でも自由に参加できない因習が現在も維持されている。一方で自分が住む地域の獅子舞なら誰でも参加できる獅子舞に変化しここ20年近く盛況をきたしている地区もある。



まとめ

北勢地区の獅子舞の演技内容ほぼ共通していると考えられる。先ず四方を祓い、次に眠っている獅子をわざわざ起こし、扇を使ってちょっかいをだす。戯れた末に噛まれてしまう。最初の四方祓いが呪術的内容を持っているが、他は自業自得の内容の音楽劇であり、これといって深い教訓はない。この一連の舞い全体が神事のためのものとはとても思えない。
参考文献:
  • [長倉神社獅子舞演技説明]
  • [久久志弥神社の栞]
  • [伊奈冨神社栞]
  • [三重県下の特殊神事]
  • [四日市史]
  • [筠庭雑考]
  • [三国地誌]
  • [このころ草]
  • [日本の美術185 行道面と獅子頭]
  • [伊勢太神楽]
  • [楠町史]
  • [神事としての獅子舞]
  • [伊勢の獅子舞]
1村の成年男子によって組織されていたグループ。若連中、宮守、若衆組、若者組とも。村部落単位に独立し、祭礼や諸種の村野行事で重要な役割を担った。鎌倉時代以前からあると考えられる。15歳前後で加入し妻帯と同時に退く。若衆入りすると社会的に一人前と扱われる。
2初めの頃は天王祭に行われていた。大釜に天明4と書かれている

伊勢大神楽

慶長年間(1596~1615)までに江州(滋賀県)佐々木ノ一党から桑名郡上野村に移り、その西の太夫村を開拓した。江戸時代以前に太夫村に住み着いていた人々は近江派の陰陽師、阿倉川には山伏と考えられる。そこへ織田信長に滅ぼされた近江源氏の六角佐々木氏の残党が逃れてきて住み着いた。
山本流の獅子舞を習い、稲生、山本、伊賀国敢国神社の獅子舞と曲芸を組み合わせ、日本全国を回壇した。昭和56(1981)重要無形民族文化財平成12(2000)ユネスコのアジア太平洋無形文化遺産のデーターベースに登録された。かつては桑名市太夫町と四日市史東阿倉川の2箇所が本拠地であり、江戸時代(文化年代(1804~1818))を頂点に活躍。明治22~23伊勢大神楽禁止令が新政府より出され、東日本を回壇していた阿倉川は滅んだ。回壇が布教活動にあたるため、自分たちで神道系の宗教団体を立ち上げて合法的に回壇を行っている。古代中国では獅子舞が元々曲芸であったこと、大道芸、雑技の一種だったことからその元々の姿に近いと考えられる。[伊勢太神楽]