12 Jan 2019

獅子の歴史


獅子舞の歴史

獅子舞は古くは師子と書かれた。師子に関する記述等を歴史書、歴史的遺物から年代順に抜き出しつつ、関連要素を述べる。師子は社寺の法会に用いられた伎楽(娯楽)という演劇に含まれていた。それ故伎楽についての記述もここに挙げている。
  • 301-400 古代中国北魏の都洛陽では各寺院で釈迦の降誕を祝う降誕会の行列の先祓いとして獅子舞が舞われていた。魔(仏道を妨害する悪魔)除けの獅子であった。散楽1も行われていた。[洛陽伽藍記]
    日本各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から4世紀までに流入していたと考えられる。6世紀に仏教が伝来するのでそれ以前には道教系呪術があったことになる。宗教としての道教が流布されていたのではなく、その思想や呪術の一部が取り入れられていた。[Wikipedia: 道教]
  • 386-534 北魏の頃には寺廟の百戯2として獅子舞が多く演じられた。
  • 420-589 中国の南北朝の頃には仏教が伝わり、邪霊を祓う雑技の一つとして獅子舞が広まっていた。獅子舞は仏教と共に浸透していったと考えられる。
  • 531-572 呉の国王の血をひく和薬使主が、仏典や仏像とともに伎楽調度一具を朝廷に献上した。[Wikipeia: 伎楽]この時の用具に治道の面、獅子頭が含まれてたかどうかは不明。
  • 581- 中国の西域でも降誕会の行道が行われていた。[南海寄帰伝]獅子舞は西域で発祥し、仏教と共に盛んになった。隋唐では宮廷の舞楽に取り入れられた。隋は仏教を奨励し、仏教による平和統一を図った。降誕会の行道の獅子舞が独立して舞楽となり太平楽(五方獅子舞、五穀豊穣、天下太平)として唐に引き継がれた。
  • 612 百済の未摩之が中国の呉3で学んだ伎楽を携え帰化し、奈良(大和桜井)で少年を集めて教えた。教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあり、寺社(法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺など)へ伝習され、供養のための演目となった。[Wikipedia: 伎楽]
  • 686 新羅からの使者をもてなすために、伎楽調度一式が筑紫(九州)へ運ばれた。
  • 712 古事記編纂。天孫の一段を先導する役として鼻高の猿田彦が描かれる。伎楽の行道を先導した治道になぞらえたか。伎楽伝来から調度100年後に当たる。
  • 752 東大寺大仏開眼供養で伎楽が表演される。師子を含んでいたと考えられる。この時使用された横笛等が正倉院に残って居る。班竹の笛は楠町本郷の獅子笛、菊田雅楽器製箕田流獅子笛に近い。それらは数度調査されていが、その周波数からは音程はとても悪く、調律されているとは到底考えられない。[正倉院の楽器][正倉院御物横笛の音律に関する研究]
  • 1083 江家次第 法勝寺塔供養会
    1
    開眼作法2寢儀諸
    着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)[雅楽と法会]
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。

  • 1118 最勝寺供養にて小部正清が甲を着けて太鼓の前に立って笛を吹いた。[教訓抄]これより師子が演奏された記録が急に増える。音楽書に記録があるのは、官祭として舞われたものに限られ、寺社独自の祭礼で演じられたものは含まない。
  • 1136 鳥羽勝光明院供養にて小部正延が吹いた。右方の楽屋より出て太鼓の元に立って吹いた。[教訓抄]
  • 1168-1180 当神社には舞い神楽と唱う儀式あり、高倉天皇(80)の御代(仁安3-治承4(1168-1180))より始まり[久久志弥神社の栞]
  • 1195 東大寺供養にて小部清景が有康に習って吹いた。甲を着けて太鼓の面に立って吹いた。入場するときに甲を脱いで腰につけて入った。太鼓は筑前守有康が打った。ある話では尾張包助が太鼓を打った。有康は拍子を教えた。[教訓抄]
  • 1200~1300と推測 伊勢国(現在の三重県北中勢辺り)山田郷(伊勢神宮外宮の鳥居前町)で毎年正月中旬に箕を2つ合わせて獅子頭を作り、村野飢饉疫病の魔祓いのため、上の家から下の家まで、笛、鼓を伴い、獅子頭に疫神を取り付かせた。その後燈火で焼き払った。「[筠庭雑考]
  • 1214 七条歓喜寿院供養にて小部正氏が住吉神社の神主津守長盛に習って吹いた。権神守津守経国が束帯で太鼓を打った。この左方は先人のものと異なった。法用が終わってから舞った。先ず左楽行事(次第を司る者)が召され、師子を舞うため、4を引き刷りながら楽屋より出て庭中へ進み、半ば辺りに立って甲を脱いで腰に着け、烏帽子を引き立てて古楽乱声を吹いた。その時に左の師子が起き上がって、舞台に上り、四角を拝して、正面に立って2度拝し、この後乱声が吹き止んだ。古くはここで詠があった。次に序、破、急の形式で3回吹いた。師子が舞い終わった後、甲を着けて楽屋へ帰った。その都度異なる。不審がない分けではない。公の行事ではない時の師子の例。鴨神社の一切経会、清延が楽屋の中で吹いた。経頭馬一頭が引いた。天王寺・住吉社に師子がある。それはとても異なるものである。乱声も別物、曲を吹く様子も太鼓を打つ様子も替わっていた。なかなか本朝の師子より興味深い。[教訓抄]
  • 1233 教訓抄成立。師子、妓楽について書かれている。2人立ちの師子のような舞いは獅子以外に数種類あった。
  • 1280 伊奈冨神社に「弘安3(1280)庚辰正月稲生三大神」の墨書銘入った獅子頭が現存。日本最古と考えられる。
  • 1321 宇佐宮仮殿の遷宮を行なうので、弥勒寺堂内壇上で獅子菩薩の舞楽を行おうとしたが、新造の堂内で流血事件があったので、まず清祓が終わらなければ仏神事を行うことができない。[弥勒寺本家石清水八幡宮の牌]
  • 1330 舞楽の伽陵頻と胡跳が演じられた後、師子の乱声が鳴り、狛犬は地にふし、師子が舞台に登る。四方に礼し本尊と證誠を拝む。太鼓が三拍子になったら、つなとりが綱を獅子に打ちかけ、蝿払いと共に舞台の左右のすみに控える。”師子の舞いにはつなとりと蝿払いも居た。舞いの間は師子には綱がついておらず、舞いが終わる時につなとりが綱をかけた様子。社寺に現在も多数の妓楽面が残されており、その鼻高面の裏書に”ツナヒキ”と書かれたものもある。[日本の美術185 行道面と獅子頭]おそらく口取、つなとり、ツナヒキは同じ者を意味し、鼻高面をつけていたと考えられる。笛は戸部政躬。[元徳二年三月日吉社並叡山行幸記呂一] 師子の他に狛犬も演じられたらしい。
  • 1334-1338 虚空蔵寺山本村狛犬2頭、法鏡寺2頭等、覚満建立の薬王寺来縄郷狛犬2[建武中放生会記]
  • 1515 木製で彩色を施した獅子頭が作られた。牛頭社、今の社、須原大社、藤ノ社、茜社、箕曲社(宇治山田市箕曲神社)、落獅子社(世木社)に付属の獅子頭であり、各社に祭られる神の名は知られていない。村人は産土神(産沙紙)と崇めた。木製の獅子頭は作られて数百年を経て御神体と考えられるようになり、神事の最後に村の外れの橋の上に持っていき、太刀で切り払い清められた。頭以外は大かがり火、積木の炎で焼き祓われ、村人はその周りで円陣を組み、踊り狂った。[筠庭雑考]宮廷や寺社の獅子舞では火を使った記録はない。火を使う所から密教系の呪術ではないか。
    現在の伊勢市御園町高向の御頭神事(国指定重要無形民俗文化財)が火祭りを伴う点で、山田郷の獅子舞に似ている。
  • 1616 大かくら獅子舞と申すは伊勢大神よりはじまり、いせの国いのうというむらに天よりふりし獅子かしらありて毎年一国のうちを廻り給うなり。それを学びて国々にあまねく獅子つかひはじまりける。[このころ草] ”いのう”神社に朝廷から獅子頭が与えられたという意味か。
  • 1690 音楽書楽家録成立。師子、妓楽について書かれている。
  • 1763 大宮(本社)、西宮、三大神、菩薩堂(現在の鈴鹿)の獅子4頭が3年に1回丑、辰、未、戌の年に各々の氏子地区に出かけ数ヶ月かけて回壇。[三国地誌]
  • 1886 楠の獅子頭が作られた。[楠町史]

まとめ

獅子舞は1700年程前に中国の西域、現在の新疆ウイグル自治区以西で始まった。仏寺で行われるた邪霊を祓う雑技の1つであった。行道の先祓いとして用いられていた。
仏教と共に広まり、中国の隋唐代には国家の饗宴演目:五方獅子舞(太平楽)として取り上げられた。
日本へは7世紀に伎楽の一部として伝来し、元々は伎楽と一体で演じられていた。寺社、宮廷の祭礼の形式が整えられるに従って、師子だけが別個に用いられた。
伎楽における治道が口取(綱取り)だったかどうかははっきりしない。口取が鼻高面を被っていたかどうかも分からない。口取は獅子に綱をかけ、他に蝿払い役が2人いた。音楽は伎楽とともに戸部氏の龍笛の秘曲として伝承されていたが、途切れ、大神氏によって引き継がれた。
1多種多様な芸(雑技、大道芸、ジャグリング、雑技)を含む散楽。散楽が後に文楽、手品、大道芸、猿楽、能に発展した。
2散楽に同じ。
3中国の呉ではなく、古代朝鮮の久禮、現在の韓国洛東江中下流に位置したという説がある。3c-6cにかけて伽羅という小国家群があり、倭国に従属していた。[韓国仮面劇と日本伎楽の比較研究]
4奈良時代以降の束帯および衣冠着用のときの上着。