2 Nov 2021

日本史思いつき

 真日本史

Youtubeのチャンネルで史書に基づく歴史を解説しているチャンネル。史書が”時の権力者によって都合よく書かれている”ということをよく考慮すべきと思う。右翼過ぎる。

神代なんてものはない。人間の歴史しかありえない。古代は神官を最高位とする位科学的に盲目だった。現代でもそうだが、天皇家はバカばっかりじゃないのか?そんな奴らを最高位にするから、日本少林寺拳法を手下にして王族の子供達にリンチをしかけて服従させるという馬鹿げた行為を少なくとも昭和からやっていた。今の天皇もその首謀者だし、平成天皇はその前任者。今の天皇はさらに愚か者で自分以外の王族が成果を上げたり、上げそうだったりすると邪魔をしたり、成果を抹消したり、自分が何か手助けして自分の成果に加えようとする。自分だけでは対して成果の上げられない能無しであり、且つ他者を羨み、妬み、妨害する愚か者だったりする。それを巧みに嘘をついてごまかしている。こんな子供に育てたのは先代の天皇家で、母の美智子はそれまでの養育体制をやめて自分達で養育するとして精神の堕落した子供を育てあげ、今の天皇家の低堕落を計画的に成し遂げたのではないのか。彼女のバックはキリスト教なので、キリスト教による天皇家に対するテロ行為と思う。

まんまとひっかかった天皇家や宮内庁の愚かさには閉口。そんなやつらに国家最高権威させるべきじゃないと思う。


日本の史書は天武天皇の命により

712に古事記成立。

720に日本書紀成立。

これらより古いものもあったのだが、クーデターによって消失された。


神武東征ででてくる八咫烏は中国の漢以降の書物に出てくる三足烏(wikipedia)だと思われる。雅楽の左方楽のシンボルである三つ巴もこれから派生したものらしい。

三足烏についてはWikipediaに別にページがある。こっち。太陽に住んでいるとされている。紀元前5000年の中国揚子江下流域に最も古い考古学的遺品がある。

神武東征には中華帝国殷にまつわるシンボルが用いられて脚色されているのではないか。


記紀の脚色の例には他にも天孫降臨があげられる。これは612伝来の仏教系音楽劇の伎楽の道行(開演前に舞台のまわりを練り歩く)がモチーフとなっている。猿田彦は道行を先導するインド人仏教僧の知道(ちどう)の姿で描写されている。そして彼が天孫族を先導する。仏教僧に対して”若い女をあてがって落とす”というジョークが絵として残っているように、天之受女命に猿田彦を籠絡させている。


聖徳太子は摂政という地位でありながら仏教興隆の詔を出している。詔とは天皇しか出せないはずなのだが。その後の扱われ方からも特別な存在であることがわかる。

隋に初めて使いを送ったのは倭国王の阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ)で、紀にはこれが書かれていない。多利思北孤は仏教に熱心で自身も修行していた。隋の帝も仏教に熱心で自身も菩薩という位修行していたので、同士として手紙を送ったため”日出處天子致書日沒處天子無恙云云”という対等の立ち位置であるという書き出しになったと思われる。

中国の少林寺には白い肌の僧と黒い肌の僧が武術の稽古を楽しんでいる姿を描写した絵があるが、白い肌はインドのカーストの最高位バラモンを意味し、黒い肌は最下層のダリットを意味していると思われる。仏教では肌の色は関係なく人は皆対等で差別しない。その科学的態度を表しているのではないか。

聖徳太子には十人が一斉に話す内容をすべて聞き取ったという逸話がある。これは作り話に思われる。多利思北孤には妻子があり、子を利歌彌多弗利と言った。これは倭漢通を意味するのではないか。つまり王の子供は日本語と中国語を使えたことを意味しているのでは。言語に対する能力が高かったので後世に話が盛られて十人云々ということになったのかもしれない。

この利歌彌多弗利が聖徳太子ではないのか。隋は運河を作って、海を経由する海運業を不要にした。これによって海運業を担っていた倭国は経済力が衰えた。倭国は国が立ち行かなくなる前に後の日本と手を組み、連合政権を成そうとした。日本の方は海運業に手は出していなかったので、倭よりも優位に連合を進めたため、日本が最高位とする神官の下に倭国王をおいて、実際には倭国王が政治を運営するという体制になった。

倭の五王は日本国の最高位の神官ではなくて、実際に政治の舵をとる大君のことではないのか。それ故に天皇と倭の五王は一致しない。

隋書によると倭国は九州にあって、筑紫から東が倭国だった。筑紫の東には秦王国があった。王国という位なのでそこには王がいて独自に政治を行っていたのだろう。筑紫より西は倭国ではないので、九州全体が倭に統一されていたのではないことがわかる。

卑弥呼の邪馬台国は後の日本に対抗する九州の勢力であったと思われる。この頃は九州北部も邪馬台国の連合国家だった。首都は山門群と思われる。九州は大陸を戦乱で終われた王族などが逃げてきて各地に定住しそれぞれに王国を築いていたので、その国家間同士でも争うことがあった。狗奴國と邪馬台国は争っていた。狗奴國が後の熊襲ならば熊を神とする少数民族の国家だったと考えられる。古代の中華では熊をトーテムとしていたので、中華系か。

聖徳太子は自身の国の存亡のため、日本の神官の下位ではあるが政治の実権を握って国家の発展に寄与した。蘇我入鹿は彼の子の山背大兄が父の業績の威光で丁重に扱われているのが気に食わず、一家全員を自殺に追い込んで滅ぼしてしまった。

聖徳太子は蘇我氏に属していた。入鹿と山背大兄とは従兄弟。蘇我氏の若者が実際の日本の王は自分達の方だと考えても無理はない。実質的にそうだったのだから。

天智天皇は天皇につかず摂政として政務をこなしたのは聖徳太子の時の政治体制を引き継いでいたからではないか。

天武帝はこれに対して、大陸の方針をとった。つまり戦をして勝ったものが王となり国を収める天命を受けるというもの。それ故天武帝の日本を中華式の国にする方針で国書の編纂行われ、できたものが日本書紀と思われる。そういうわけで日本書紀には中華神話のモチーフが用いられて脚色されている。日本書紀の神話の量はかなり少ない。完全な中華式の国書(神話は完全にカット)にしてしまうと、神話を大切にしている国々の反発を招くからだろう。

天智によって蘇我氏は権力を削がれ、九州倭国の勢力は抑え込まれた。

天武はこれを武力で破って神官の位を中華思想的皇帝にした。これを次の代に伝えるために記紀を編纂させたのだろう。数代を経て天智系に戻ったが天皇位を最高とする政治体制は引き継いだ。

元が神官だから科学的思考は期待できまい。現在の皇族がちゃらんぽらんなのは当然と言えば当然か。