3 Jul 2019

日本雅楽の歴史

長江下江のかほと文明で水稲が裁培された。その遺跡から土笛が出土しており、そっくりな笛が北九州一出雲一越地域からも出土している。閉管なので低く鳴る。中華では雅楽に取りこまれた。
トトロの笛。

原始仏教は衰退し、大乗仏教として宗教化し、勢力を延ばす方向に転じた。仏教ミュージカルが流行した。音楽付きでセリフの無い演劇が生み出された。中華西域を経て、医術、演劇を内包した仏教と共に中華圏に浸透し、中華南朝一百済一日本と6〜7世紀に伝わった。
伎楽(娯楽)。伎楽は寺に広まり、その笛と腰鼓が田楽に用いられた。これにササラが加わり、獅子田楽になっていく。伎楽自体は断絶。笛の調律はかなり怪しいと考えられる。弦楽器は含まれず、調律の必要がなかった。

元々の雅楽は中華周王朝の頃からあったらしいが、日本が輪入したのは主に演会用の燕楽であって、時の中華王朝が周辺国を制して得たそれらの国の音楽を指す。隋の時には倭国楽もあった。
朝蘚経由又は中華から直に日本へもたらされた。
雅楽。輸入されてしばらくはテンポがキープされただろう。貴族が学び愛好した。楽曲はユニゾンに変奏を加えて奏された。儀式において荘厳さを出すように2倍以上遅く演奏されるようになり、原曲の印像が薄れていった。

鎌倉以後衰退。地下楽家が書物を残す。
秀吉〜家光までかかって復活した。これが今に続くが、民間には伝えられなかったので、今も田楽の神楽笛は調律が悪い。
現代の雅楽のオーケストレーションは古譜から読める演奏とはかなり違う。
明治以降、さらに荘厳さを增すようにテンポを落として奏され、楽曲によっては元の16倍の遅さになり、もはや元の曲想は聞きとれない。そのやり方は現在も続いており、不明瞭な演奏が権威と供に広まっている。楽器の調律は整っていたが、龍笛の太さはバランスの良い狛笛、太笛の比より太過ぎておかしい。中笛が良い構造の笛と思われるが絶えて残っていない。

〇〇天皇という呼称は平安以降のものらしい。古事記、日本書紀は完成後書き換えられたという説がある。
天皇の和名を見ると"天"とか"日本"とか"倭"で始まる。その天皇の出身勢力を示しているのでは?


神話の主旨や中華史書から考えると日本にまだまとまった国がない時に大陸から水稲を持って渡ってきた人々がいた。九州に適した土地は少なかったが、水稲によって食糧事情は幾らか改善された。リーダーは水稲地域を增やすため本州へ移っていった。
越、奈良、愛知に広い適地が見つかり、水稲が始った。多くの人々が集まり、增えていき、国ができた。水稲のおかげで国が栄え、リ一ダーは広く祭られることとなった。中華史書では東てい国と呼ばれ、倭国とは別に公益していた。日本海を北上して朝蘚に渡る航路で。九州にたよらず大陸と交益していた。

その後また大陸から渡ってきた呉、越の人々が九州に往み付いた。九州では水稲に適した地がなく人口增加や飢餓に対応できず、他周落を攻撃し人口を減らして生き延びた。互いに争う彼らには常の策だった。大陸出身なので大陸の中華王朝との交益は始めやすかった。それを繰り返す内、本州に広大な水稲地帯があることを知り、次のターゲットとなった。
出雲に攻め入った時大国主は九州を彼らに讓って本州を東へ渡っていった。実は大穀倉地帯があることを知っていたので争うよりも移住を決めた。

大穀倉世帯の国々の連系は九州族の勢力を越えていた。九州族は連系に加わり奈良へ移住し、九州の建物を移築して、土地に九州ゆかりの名をつけた。結局内部闘争にあけくれた。
融合しつつも大陸系が朝廷をのっとり、中華の伝統にのっとって歴史を編集して万系一世を称し今に至る。



根本的に日本列島の全ての人は渡来なので天皇が渡来の古中華王族の子孫でも問題ない。
要は中華みたいにひたすら国内で殺し合う国にならないように平和に生きる方向に進んだところが日本の良いところか。闘争に明け暮れる中華の子孫を内包しながらもよく平和な国になったものだ。そこがこの島国で生きる人のなした事だということか。

プロパガンダをハッキリさせ、それに対攻し、仕掛けた奴らを国外退拠にし、理性的な社会を能動的に取り戻し、守る体制をとった方が良いのでは。