2 Sept 2020

獅子舞は倭国の時からある。

獅子舞は伎楽に含まれていた。日本書紀では612年に百済経由で日本に入ってきたことになっている。この時代まだ日本は倭国だった。

新羅本紀と新唐書では670に日本に改めたことになっている。この時は天智が皇太子として実権を握っていた。

593-628 推古(外宮に祭られてる人?)

612 百済より伎楽伝来

629-641 舒明

642-645 皇極

645 乙巳の変(ここから天智帝が政治しきる)

645-654 孝徳

655-661 斉明(皇極の2回目)

663 白村江の戦い

668-672 天智(ここで天智が即位)

670 国号を日本に改称(新羅本紀)

673-686 天武

690-697 持統

697-707 文武

703 粟田真人が唐に朝貢(旧唐書)

707-715 元明


648に新羅の遣唐使に託けて唐に文を出した時は倭。


魏史倭人伝では日本については書かれていない。

倭は古くは100余国、交流のあるところは30国。

対海国 1000戸

一大国 3000戸

末盧国 4000戸

伊都国 1000戸

奴国 2万戸

不弥国 1000戸

投馬国 5万戸

邪馬台国 7万戸

邪馬台より北に多数の国がありそれが女王の勢力範囲とされている。刺青で貫頭衣。国々に市があって物々交換している。大倭がこれを監視している。


この市場を監視している大倭。倭を倭と書けば大和(やまと)になる。国々に市があったので国々に大倭がいたと思われる。監視する位だから武力があったはず。

対馬に1000戸妻を3人子供3人老夫妻2人とすれば1戸6人、6000人。現在の対馬は32000人。
この人口で米を作っていても足らないので米を仕入れに他国へ行く。生産量はかなり低いのか。

倭から魏には生口と呼ばれる奴隷を献上していた。これは奴隷制があったことを意味している。


旧唐書では倭国と日本の両方について述べられている。

倭国は古の倭奴国のことである。50余国が服属していた。王の姓は阿毎氏。冠位12階があった。東西5ヶ月南北3ヶ月の旅程。賎人は貫頭衣、貴人は新羅の服装に似ている。

703の遣唐使の前に日本について述べている。

  • 倭国が国号を変えた。
  • 日本は倭国の別種で古くは小国だったが倭国を併合した。
日本の使者は尊大で誠実に答えないので怪しいと書かれている。

新唐書では倭は日本にまとめられている。
日本は古の倭奴国。王の姓が阿毎氏。
600 はじめて中華帝国に通じたとある。この時の王が多利思比古で用明とされている。
670 に国名を日本とした。歴代天皇が次々と上げられていて、女帝もいる。32代までは筑紫にいて神武か大和州へ移ったとある。大和州は本州のことか。

600以前から中華帝国に通じていたはずだが。。
日本書紀は日本側の歴史を主軸にしたものか。九州一体の邪馬台国勢力を取り込んでその歴史を神話にしたか。神話にしたのは倭国が存在した記憶を消し去り、旧倭国勢力を取り込んで中央集権制を継続させるための権威を作り出すためだったか。古に小国だった日本はどのあたりにあったのだろうか?刺青の習慣がないところだったのか?

612に伝来した伎楽の一部の獅子舞が四天王寺に今もある。教訓抄によると平安時代末期にはすでに宮中の獅子舞と異なっていたものだった。このところ伎楽譜を読んでいるが、宮内庁書陵部の伏1170と仁智要録12巻ではぜんぜん違う。

参考文献