30 Aug 2019

Form to play piano

The form is very important to play piano, I think.
We can notice that we use 3 positions of hands for playing all scales & arpeggios.
Then, the seat of height is also important.

Sonata k.330 C major Mozart
C major demands round form for fingers basically.

https://youtu.be/Ds54uyHOT_I

On above example, player's elbows are lower than hands and fingers almost are extended.

https://youtu.be/kpDkOuZPktc

On above example, player's elbows are higher than hands and fingers are rounded.

https://youtu.be/9O2VxbQQkFE
On above example, player's elbows are higher than hands, but fingers are not very rounded. The tempo isn't very fast.

https://youtu.be/-V4bGocFwnE
This example looks medium.

https://youtu.be/p9YlP7auUjw
We can't observe this example. But his seat height is very low and elbows are lower than hands. His playing is very interesting.

https://youtu.be/g1d4VKb5WNA
This example is fast. His elbows are almost same height to his hands. Finger form isn't round.

https://youtu.be/L6Kxm0y-X2g
The elbows are almost same height to his hands.

https://youtu.be/JT-6qET1lKE
The elbows are almost same height to his hands. The Form of fingers isn't always round.

https://youtu.be/uN4FwiuA5Vo
This piano looks period one. His elbows are almost same height to his hands.

High elbow than hands and round finger maybe fit to playing speedy.

28 Aug 2019

桜井宗教儀礼教育

纏向って奈良県桜井市にあったのか。
612 未摩之は桜井で伎楽を教えた。
弥生時代には道教係の宗教儀礼の教育機関があったらしい。伎楽は仏教系だがここで広められたということは飛鳥時代もその機能があったのかもしれない。
田楽楽人もここで育っただろうか? 伎楽と田楽は笛と鼓が共通して用いられる。現在も獅子田楽として伝わっている。


付記2 纏向遺跡の実相
https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/eb55b058aad49582fbc6d6871b073b05

27 Aug 2019

卑弥呼以前の宗教

興味深いブログを見つけた。日本の古墳を調査すると彩に装飾されいる。その幾可文様は大陸の長江辺りでも見られるし、雲南省の少数民族、苗、羌族に今も残っている。又長江辺りの稲作民の宗教で蛇と女禍の神の神仰が日本にも伝わっている。大國主が蛇神。スサノオ、午頭天王とか。

これらの民族宗教が稲作とともに日本に渡り、縄文時代に日本列島に伝わったらしい。漢字は呉の人々が倭人に加わってから憶えたのではないか。

その上で紀元後位から原始道教が卑弥呼辺りで流行し、
4世紀位から仏教、8世紀には天武帝によって道教が持ち込まれた。
近畿王朝はいつから男子男系世襲か分からない。三種の神器は道教の影響。

各国で道教が行われていて各々に三種の神器持っていたのかもしれない。

参照先のブログ参考になる。


倭人が来た道
https://blog.goo.ne.jp/isaq2011

邪馬台国・奇跡の解法
https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear

卑弥呼の鬼道

先に古田武彦氏の失われた九州王朝を読んだ。
三角縁神獣鏡にある文言に"師子辟邪"があった。これは師子舞に通じると考えられる。漢代にはすでに師子舞が仏教系寺廟で行われていた。
おもしろいとに中国ではこのタイプの鏡が一枚も出土していない。国産の鏡に師子辟邪とあり3世紀につくられたものなら師子辟邪の概念は仏教より先に日本に来ていたと言えるのでは。そうとしても師子舞が行われていたとは言えない。
銅鏡を作る文化が呉にあり、3世紀に日本で作られた可能性があって、漢字の読みの基本が呉音。612に伎楽を渡した未摩之はそれを呉で学んだと言う。呉服屋さん。倭人は太伯の子孫と自ら言い、太伯は呉の王。
句呉 BC1096(585)-BC473 古過ぎる。しかし夏の九夷が倭なら余裕だ。江蘇省蘇州市周辺。市樹クスノキ!蘇我に献上された仏像クスノキ製。。隋の時に蘇州になった。以前は呉(県郡国)。小野妹子が蘇因高の名を隋でもらった。呉由来だが蘇と地名を改めたので蘇姓か?
国姓は姫(き)。百済の史書で倭国を貴国と表わすケースがある。
周(BC1046-BC256)は青銅器文明。祭祀用で芸術性高い。茅葺きから瓦屋根にかわり始める。雅楽始まる。
殷(BC17C一BC1046) 王はシャーマン。人身御供。骨に文字を刻むため文字が生まれた。10の氏族による王位交替制、非世襲。太陽の末裔。氏族每のムラから成る共同体。周辺国人を多量に生贄にしたことからほろぼされた。

夏(BC2070-BC1600) 全土を9つに分け九州といった。天下、世界全体の意。州で分けるって夏の制度だったのか。周礼にもある。水稲も行っていた。南方系海洋民族説有り。

古い中国の制度は漢には引き継がれなかった。倭は少なくとも句呉、越の代に大きく影響を受けたか?天毎氏は彼らを渡したのか?


卑弥呼が鬼道を用いて民を惑わしていたのは太平道、五斗米道などの道教と関係があるのではないか?病気を治し、信仰と呪術で民と多数の王をまとめたのでは?

57 漢委奴国王印
107 後漢に倭王師升が朝貢。

この師升、姓名がわからない。

五斗米道は後漢(25-220)の末にできたので師升より遅れるがその内容がおもしろい。
〇教祖を天師と呼んだ。
天皇の天、師升の師。師子の師。

〇呪術で病気を治した。
日本の天皇は病を治すため仏教の祈とうにすがった。仏教以前に道教にすがっていてもおかしくない。

〇男系男子が継ぐ。
正一教として現在までうけつがれており、男系男子の世襲が原則。天皇も男系男子で継いでいるようだが、師升一卑弥呼ー台与の間は男系男子の世襲ではない。

現在も行われている神道の祭祀で神様を呼び出す際に低い声をあげるのがある。これは道教に由来すると考えられる。中国人作曲家による曲にOn Taoismというのがあり、そこでも用いられている。
道鏡は「卜占」「蠱術」「鬼道」を含んでいて、占術は太古、蠱術は蠱毒、鬼道は託宣として記紀にある。蠱毒は皇子同志の呪い殺し合いに用いられたし、託宣は天皇が和琴を弾いて皇后に神を降ろすという描写がある。つまり古代日本に道教が浸透していた。神道の基礎とも考えられ、男系男子が世襲する点もその影響ではないか。

師升が鬼道で国をまとめ、卑弥呼は日の巫女をあがめるクニの代表でやはり鬼道を用いていたのではないか?師升と卑弥呼は九州にある別のクニの代表で漢のように武力でまとめようとしてもその時点ではできず、宗教でまとめたのではないか?とはいえ卑弥呼の場合、引きこもっており、実務は弟が行ったので、祭と政の役割分担はあったようだ。後の多利思比古の時も兄弟統治だったのでこのシステムが受け継がれたのではないか。隋の帝は仏教系でより科学的に政治が行われており、そのような道教システムをおかしいと指摘したのでは。
多利思比古はまだ浅学だったので仏教の実践は未だ不充分だったと思われる。


三角縁神獣鏡
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1

蠱毒
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%B1%E6%AF%92

道鏡
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

太平道
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E9%81%93

五斗米道
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%97%E7%B1%B3%E9%81%93

正一教
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%80%E6%95%99

25 Aug 2019

読書感想文: 失われた九州王朝 古田武彦

1973出版。漢の委奴の国王と読むのは明治に発表された論文があったが学会で支持されなかったそうだ。バカな学会だ。

先に氏の著作 盗まれた神話を読んだ。順逆になるがおもしろい。昨今のDNAの研究から人類の移動の跡をだいたい示すことができるようになり、マ一ケティングの手法を用いてその観点から日本史を説明しているweb siteがある。それもまたおもしろい。学校で習う古代史がいかに浅はかで、侵略勢力やその手法に言及しないでいるのかよく分かる。
少なくとも中華、キリスト教、仏教、イスラム教は厳しく規制するか国外追放すべきと思う。

委奴は糸島では?そして大率であって軍事と外交を担当していた機関では?委の使者が大夫を名乗るの興味深い。田楽芸人が殿上に上がるために与えられた位が太夫。花魏、今の芸人にも太夫いるし、獅子舞のプロにもいる。漢より古い中華国の制度にあったというのはおもしろい。

倭の五王と多利思比古は別の王国の王じゃないか?師升や卑弥呼はその内30ヶ国にかつがれた女王なのか。

伊都、伊=近い、都=首都

三角縁神獣鏡に左龍右虎 師子辟邪とある。

引用の引用:
魯、遂に漢中に拠り、鬼道を以て民を教え、自ら師君と号す。魏志第八・張魯伝

これ卑弥呼?師升も鬼道用いた?

429-479 宋に軍事権を認めてもらった倭の五王、大率?名前は倭武、倭讃とか自ら名乗っている。つまり中国系の名前をつかっていた倭の一国が大率のボスになったか、元々描字のない王族が大率のポストについたか。この本では中華に朝貢している国として中華名を名乗るようになったと学えている。

続日本紀に大倭。。
百済の古代史正確だ。比して日本の古代史のいい加減さはひど過ぎる。現在は韓国の手口はひどいものだがかつての日本の歴史でっち上げもひどい。その上に成り立ってる天皇制考え直すべきでは。

記紀で天皇の寿命合ってない。2倍年暦から天皇は農民側に居たことになる。継体以後に1倍年暦。

百済記の''貴国"表現については考えもしなかった。貴倭国、基肄城
筑紫君、肥君、大王、阿輩鶏彌、鶏彌。

608 イ妥王、小徳阿輩臺を遣わし(略)鼓角を鳴らして(略)
隋書にある。すでに行進用の鼓角があった!

小野妹子は天帶彦(あめたらしひこ)国押人命の系列。近江国滋賀郡小野村出身。
皇帝から名前:蘇因高もらってる。

天之日矛(あめのひぼこ)新羅の王子の名に近いと指摘がある。おもしろい。天毎氏が海人として近江ということは琵琶湖で漁とか渡とか?
天武の場合大海皇子の名は入凡海氏の教育を受けたから。

魚の目玉が如意宝珠で仏教信仰を示す。
六波羅蜜多経(大乗仏典)、雑宝蔵経(魏で訳された)に如意宝珠の語あり。

対馬、一岐国は倭ではなかったのか?筑紫、秦王国と10余国はイ妥。

隋書で倭とイ妥は別の国らしい。これより前のイ妥が古くからの朝貢国。では魏、漢、宋書に倭とあるのは?
倭=難波朝廷
イ妥=北九州

イ妥が東国を配下においたから日出づる処〜と言えたか?
継体ー安閑の空位。
百済本記の531 天皇・太子、皇子が供に亡くなるという記事。疫病?これが磐井の乱のことか?
九州王朝の話で近畿天皇は702から中華に認められる。

あくまで漢民族系王朝をボスとあおいでいたわけだから、中華周辺の民族がたてた王朝、例えば隋はイ妥から見れば同列。故に日出処る〜なのか。それぐらい学校で教えれば良いのに。

磐井の乱は九州vs近畿か。継体期になし。農民系だから権力志向なのか。九州系に変えるべき。九州系宮家とか九州王家とか残ってないのか。

天皇家に他国が使を遣わしたら朝貢ってなかしい。藤原氏はこっちの味方か。。。

502 倭王武 梁書
531 磐井 滅亡
国造=豪族。九州が独立政権なら天皇家とは対等。
農民系の神道(鬼道)の巫女の子孫にのっとられた日本。天皇号は中華周辺国が用いるようになっていた。日本独自のものではない。しかも史書ねつ造でだまし続ける手口。その史書での討伐の手口も卑怯、残忍。中華人か!! 帰化中華庸兵を雇ったのか?だから百済系か。

犬上君三田耜も君のつく王家?

共和国にすべき。現天皇系譜の肩は持てぬ!

一大率は一大軍隊か。

九州王朝倭が唐代から日本に改称。近畿王朝に併合され、国号を継いだ。
九州王朝が熱心だった仏教文化、唐の稲作王朝システムを取り込んだ。磐井征伐に百済系庸兵の手を借りたので花をもたせるため百済から学んだ話を盛り込んだ。

旧唐書は偽書じゃない!! ということは偽書扱いしている学会は百済近畿王朝勢力か。
旧唐書で中國側が新日本の使節が史実を語らないことをいぶかしがっているから、史書作成になったか。しかし能力と性格が稚拙だったので不出来になった。
基本的に嘘だったので平安代を通して嘘固めをした。

近畿王朝がどれくらい続いているか不明。

引用:遣唐使
631-648 倭
654 倭 朝貢 乙巳の変の9年後

653-839 日本

48年の間に国が替った。

645 乙巳の変 入鹿 暗殺 磐井からはかなり下った。

666 正月まで倭国が日本列島代表となっていた。

日本に送られていた唐俘は捕虜?

522から近畿朝に年号あった。

九州王朝の盟友百済、仇敵新羅。

白村江は三国史記では近畿王朝書かれてない。九州王朝

琉求とイ妥国は隋書で別扱い。

661 天智 称制
663 白村江 近畿は参加していない?
668 即位

9国が九州で21ヶ国が四国中国地方。
これは国生みの瀬戸内辺の島と陸をさすか。
9夷。

おもしろかった。右派系の歴史番組とか科学者とかも洗脳下にあるということか。抜け切るの難しいね。

我が家系の先代はろくに思考できず、記憶力にたよったバカ供で継続して勉強しようとしない。歴史の探求もしない。やはりクズとは縁を切らないと知的能力を延ばせない。僕はそういうタイプだ。切り捨てねばならぬ手遅れもいる。

22 Aug 2019

DNAから見る歴史

http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/pindex.html

おもしろい。多量なのでなかなか読み進まない。
歴史研究が変わり、教育も変わっていくだろう。
九州王朝の海人はどこからきたのか。

日本書紀と整合性がないのは日本書紀がでっち上げられた史書だということか。現天皇に繁がる系譜がやってきたことは中華化ではないか。

雅楽も変質しているがこてこて中華基盤。
日本に移民した中華豪族が日本に多数あった王家をかついで中華化したのか?

倭経済が到れて、他王家が移民中華豪族に泣きついたか?

結局、中央集権になじめない嘘飾を排し実力を評価する倭人気質はかわらず地方主権を復活させようということか。

琉球って倭国じゃないか?

21 Aug 2019

読書感想文: 盗まれた神話 古田武彦

日本古代の九州王朝説を打ち立てた古田氏の著作。彼の手法を学ぶ意味でも手取り早く史書の研究に関して知るためにも役立つ。
天皇はかつぎ上げられた御輿の存在で権威はあっても権力はない。その歴史は史書にあるが、その史書が周辺国の史書と合わなさ過ぎるところが多い。また8世紀に成立したとされているが、平安期かもしれない。
筑紫の大量の古仏教寺院跡と平安京への移築、関係あるのか?隋書の秦王国とか大阪の百済郡とか、宮内庁雅楽部の楽士が新羅系とか?

要約:
銅鐸にまつわる神話伝承が全くない現状から今天皇家は銅鐸祭祀と相容れない異質の文化圏の出身者で、近畿を中心とした銅鐸祭祀は根出やしになり、伝承も神話も消された。

おもしろい!学校で習った銅鐸だがここまで考えなかった。雅楽に銅鐸は用いられない。仏寺も神社の祭祀にもない。DNAは独自のものが混ざりながら残っている。つまり文化があとかたもなく消された。伝承もなくなるとは、文字がなかったからか?

612 百済から未摩乏が伎楽を携え、帰化した。桜井で少年を集め伝習させた。

これって九州王朝の話じゃないのか?あすか板ぶきの宮跡が筑紫にあるらしい。古代尺八愛好家の聖徳太子も九州王朝の話?多利思比古とその息子の業績を盗用したか?

津田左右吉の論文は荒い。

倭奴 いど国、わのなの国ではない?
倭奴 伊都 糸島?

熊襲の兄弟統治、多利思比古の?卑弥呼も。
景行神功の熊襲征伐は九州王朝成立譯。

古事記は天皇家内伝承。

百済本記 531 磐井 日本の天皇 敗死。
日本旧記は九州王朝のこと、九州が日本を使った。

三種の神器 九州北部漢代地層より出土。

日向は後に成立。

57 漢倭奴国王の時には漢字を扱えた。卑弥呼は重訳した。

紀記の神武東征の話はひどい。全く大きく和するではない。戦いで死んだ現地の有力者の死体をさらに切り刻み、さらした。和親を求めた者たちを酒宴に招き、謀って皆殺し、従わない者逹を追放し奈良を手に入れた。
中華の手法ではないか?

人心を握ぎるため、記紀を作って天皇家の支配の始まりを正当化し、人々を洗脳した。歷史的手法なのだろうがひどい話だ。大和政権の始まりは全く大きく和していない。中華的王権略奮手法ではないか。
これに瀬戸内の数国が加担していた。つまり西日本は中華的やり口に賛同していたということか。九州は中華の影響を受けたというより、中華に染まったのではないか。中華の一族が権力を握ったのでは。それが天皇家なのか。そんな国がアジアを白人支配から解放しようと戦ったのか。理解できない。権力は実際には武家出身者に移っていたからか?

雅楽が中華なのはやはり中華の影響が大きかったからで左方が中華と国振りにあてられ右方と相対するのは、中華日本vs朝鮮満州に見える。

天国の分国!国生みの話で天のつく国州島が天降るの天か、天国。海洋族だから陸の国でなくて島の連合体で良い訳か。阿毎氏。海人氏。うみんちゅ?

沖之島が重要な地ということが考古学的にもわかるのは興味深い。

韓神 加羅。宮中の祭祀に韓神の歌がある。

天国は九州周辺の島を拠点とし、出雲は北九州沿岸を支配していた。


古田さんの研究スゴイ。おもしろい。明析!

17 Aug 2019

国家仏教教化

北九州(倭)では朝鮮や中華との交易によって先進文化が流入しやすい地域であった。卑弥呼の頃には道教らしきものがあり、道教の手法は今も神道に残っている。
半島から仏教が渡来し、仏僧にかつがれて仏教を取り入れ国を中華化し始めた。中華の制度、建築、文化を取り込隋と対等に外交しようとし始めた。
百済系と新羅系の仏教があり、新羅系が蘇我氏のバックで優位だったが、藤原氏の謀略で殺され失脚し、百済優位に変わった。藤原氏は百済仏教系。
白村江で大敗し失脚。百済難民を多数受入れた。難民による反乱、侵略工作を防ぐため難民は関東へ送られたのでは。
つまり新羅系仏教復権、これが天武か。
百済系は唐と直接交易し仏僧を多数送っていた。京を造営して技術を活用しつつ、実験し、古い仏教を切り捨てようとした。
平安仏教は貴族を信仰でからめとり権勢を伸ばした。
鎌倉以後、武士、民を信者として経済的寄りどころとした。教養の低い人用の教義を作って洗脳しまくった。
結果、仏教集団が大名のようになった。仏教側から見れば大成功。
信長、秀吉、家康は仏教、侵略キリスト教を徹底的につぶした。
残存仏教は戸籍管理局として幕府に組みこまれ、管理下におかれた。それでも戒名を考案し、民衆からお金をまき上げ、信仰洗脳を続けた。
今も一宗教として宗教ビジネスを展開している。科学的に見れば不要のもの。

江戸時代、御師によって神社旅行ブームがビジネスとして広まった。
経済発展し、田舎ではさらなる利益追求のため神社の社格を購入した。白川神道は下級神道商人を囲い込んで勢力を伸ばした。
民衆は神道ビジネスの食い物にされた。

明治以降、皇国系の教育が進められた。科学的裹付けの乏しい洗脳だった。儒教の影響も残り、バカ老人でも敬われる文化が続いた。

戦後、宗教自由化、国家神道は廃止。これによってあらゆる宗教の洗脳によって国民の富と知的思考力が奮れ放大の状態が続いている。メディアも洗脳手法を用いてビジネスやっている。

人間の基本性質の1つが洗脳されやすい点で、もう1つは科学的に高度な能力を獲得できる点。先を避けないと後の能力は充分伸びない。故に社会は互いに洗脳しないように注意を払う人間関係、放送、発言がなされるべきで、また不誠実な人は徹底して社会に出さず、生活保護で生きるようにすべき。社会は善人中心に構成されるべきと思う。

16 Aug 2019

出雲、通典

参照先
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/amater25.html

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/soushi/frame/soushi_frame_yomi.htm

宋史 日本国伝
楽に国中・高麗の二部有り。

984 の時点で国振りと中華曲、高麗楽に分けられていた。

王を姓としていた。この時点までで64代。
古事記の神々は王てして九州在住 筑紫日向宮 だった。
約23代 初代 天御中主、2代目以後は名た尊をつける。略 伊弉諾尊、素戔烏尊、天照大神尊
男神と考えると天照にも奥さんいたか?天照に大が付くから国譲り(ゆすり?)っぽいことしたのか?

神武から大和州橿原(奈良)へ引越した。橿原は大規模稲作ができた。移民受入地だったのでは?移民のリーダーからスタートしたのかも。高貴じゃなかった。欠史八代はこれといって何もしてない下級クラスだったのでは。

仲衰、神功、応神は扱いが異なる。
鎮国香椎大神、太奈良良姫大神、ハ蕃菩薩とされた。足姫は開化の孫とある。次が大臣紀武内。大王じやない人が書かれてる。

欽明又は天国排開広庭。11に百済より仏教伝わった。

用明の子が聖徳太子。ここから出てくるのか。隋に遣いを出した。法華経欲しかった。物部、蘇我は九州王朝の大臣だったのか。仏典を求めたことが書かれている大王が散見する。天智、天武についてはコメント無。聖武の女が孝明と野姫。
北陸、関東~九州までまとまって日本国と言えるようになったのは984頃の事か。

東大寺の話でてくる。

通典
参照先
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu_ref01.htm

樂有五絃・琴・笛。
多利思比古辺りの話。600頃。五絃は五弦琵琶か。

裴世清が行った筑紫の東の秦王国とは?
鳴鼓角來迎。太鼓と角笛?

多利思比古が対等を主張する手紙を書いたのは仏法を学んでいたからで、それ故皇帝だからといって遠慮しなかった。仏陀は王の家来ではないし、身分に貴賤なし。もちろん国際情勢を読んでいた。
仏教を学ぶことで科学的見方ができるようになった多利思比古の功績を日本側がぱくった。仏教側から見れば、仏教を布教し仏教国家に染め上げ、僧の優位な国を作る(かつてインドで仏教が衰退したし、インドでは対抗宗教が多かった。)という大乗仏教(宗教化した仏教)の仏教国樹立作戦に倭がかかったわけである。中央アジア、中国西域、中華、朝鮮と仏教教化は進行していた。日本は仏教の目覚ましい効果に注目し、仏教を取り入れ学ぼうとした。これを進めたのが蘇我氏で、対立したのが物部氏。言い換えると日本中華化をしようとしていた蘇我対保守物部。日本は新羅の文化を主に取り入れていた。
仏教を信奉した者が成した功積を宣伝するため聖徳太子という超人伝説が作り上げられた。記紀ではあからさまに仏教の功績を書かず、実際には権力者を取り込んでいた。藤原氏には興福寺があり、神道を従えるために春日大社もあった。
百済系仏教の鎌足の戦略は新羅系仏教の蘇我氏から権力を奮い天智に組して百済を救うことだったが白村江で大敗した。
中央権力から外されたが、仏教系の疲来の家なので中国語を学び、中華の国作りを学べる環境にあった。古事記は国史のたたき台であり、完成後、不比等監修の元皇子逹の協力を経て完成させた。
目的は、日本の大王の権威の正当性を作り上げ、王権を奮うための争いを亡くし、その功績で仏教国家化を進め、地位、生活を安定させることにあった。そのため全国の伝承を集め、組み合わせ、中華に対抗できるものを作った。
倭には史書があったが、中華国との国交の歴史は隷属の関係なので消したかった。中華皇帝の天命の概念を踏えるため、九州王朝を天界の話にすることにした。
日本の方の史書は初期はハッキリ書かれてなかった。欠史八代。
まあ繁いだ。
天皇家を万世ー系に見せることが中華国より優れた正統性を示すことにつながった。
つまり天智以後の天皇は血筋が繁るがそれより前は繁げた。既存の仏教勢力を切り離すため京を移した。
神武が築紫王朝の直系かは分からないし、天照が天御中主の直系か分からない。親せきかもしれない。
天皇を男系に限ることで外国人や民間人を天皇にならなくなる。これによって国民の日本国への帰属意識を強め、国家を近隣他国から守るため民主国家における合法的な世論統一が容易、確実、になる。
実際には国家防衛意識が薄く、社会的公正さの乏しい多数の国民が主権を持っているので、教育して教えるよりマインドコントロールした方が現実的だというところだろう。戦前、戦後でも国民が主権者として充分成長するまでは仕方がない。国家防衛は直ちに必要だからだ。

社会事体狂って見えるわけだ。マインドコントロールがメディアによっても感染する。取り締まる法がないので目覚めるチャンスがない。洗脳状態なので知的成長しにくい。ひどい話だ。


アテルイは東北の王朝の話か。

15 Aug 2019

神武東征

参照先
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimukita/jimukita.html

九州日向の豪族の若者がなんらかの問題で国払いに処され、旅をして見聞したり、仕事を憶えたりしながら、暮らしてる内に奈良で稲作の大溝作地ができ移往者が集っているという話を聞いて、移住したというところの話ではないか。
九州築紫は朝鮮と公益もあり豊かだったが日向は稲作に適した土地が少なく人口増化に耐えられなかったのかもしれない。

大阪では追払われたが、和歌山回りで奈良へ着いた。朝鮮由来の鏡、ガラス璧等を持っており、文字も読書でき各地を見聞して知繊もあったし、祭祀に祥しかったので、奈良盆地の豪族の娘と婚姻し、田植の祭祀などやってた。又社交性が高かったので中裁とかもできた。
重宝され、他の豪族とも代々婚姻し、豪Y族逹の中で祭祀、交渉を行うものとして働いた。
欠史八代はこんな感じで地元の中で婚姻関係によって豪族同志も結びつき、いつのまにか親族が広まり、祭祀者としてあがめられていった。周辺国に息子達を派遣し、祭祀を伝へ嫁をもらって大和朝延の基礎を作っていき、日本国を作っていった。
主要なメンバーの話し合いで合義していて神武の子孫もそこへ加わっていた。国の祭祀を行う役でもあった。やがてリーダー格となって大王としての地位についたが、武力で大王になったのではなく祭祀と交渉力でなった。

九州王朝倭(築紫)が白村江で大負けして国力低下したところで、近畿大和政権に加わってもらった。中国との国交権をゆずってもらい、以後日本が中国に遣いを送るようになった。

師子資料

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html

旧唐書、新唐書、三国志記

http://kamodoku.dee.cc/kutoujo.html
ここを参照した。

CGSの小名木さんの歴史で旧唐書が紹介されてた。
https://youtu.be/1AtMji1VLQg

ハッキリ書いてある。これが偽書?

倭国は元は倭奴国。金印の国。
631 朝貢。王の姓は阿毎氏。新羅にとてもよく似ている。聖徳太子の仏教の師は新羅出身。
九州北部(倭奴国)と新羅、九州南、西部と百済が結びついてたと解説がある。藤原、天智帝はこちら側なのか?

648 新羅に書を託して後連絡なし。


日本国。倭国の別種?元は小国だったが倭国を併合して倭から名を変えた。尊大で誠実でないので怪しい。
703 粟田真人 朝貢。気に入られる。
716 阿倍仲麻呂 朝貢。以後大陸にとどまり、重用される。日本側からのスパイかな。

804 空海入唐。

839 朝貢

唐の将軍 劉仁軌 伝

白村江の戰の話。書紀の631 舒明帝の時に百済から人質とった。舒明、天智は倭国の大王か。書紀は九州の大王の歴史を継いでいる!! 書紀では170舟が出かけて、旧唐書では400舟沈んだ。日本国はどうしてたのか?舟出してたのか?


629-641 舒明 息長足日広額天皇 "おきながたらしー'' は出身を表している?
642-645 皇極 天豊財重日足姫天皇 "たらし''が入ってる。
645-654 孝徳 天万豊日天皇
648を最後に倭国からの連絡なくなる。
655-661 斉明 天豊財重日足姫天皇 2回目。
668-672 天智 天命開別天皇
672 弘文 大友皇子 明治に天皇として列せられた。
673-686 天武 天渟中原瀛真人天皇 奥さん鸕野讃良皇女うのさん。後の持統。




古代に渡羅楽というのが伝わってきたのだが詳しく分からない。耽羅国ここから来たのでは?今の済州島。朝鮮から伝わった音楽が主に右方楽に分類されたのだが、新羅楽、百済楽、高麗楽、渤海楽とあって、今の右方楽を聞いても分類できない。能の女面や翁の源型と見られる舞楽が右方楽なのが興味深い。能管は中華曲用の龍笛に似るが少し小さく運指と音程がズレる。内径の構造のせいと思われるが、雅楽に用いられる楽器は調律されており、それらは明治より前まで民衆には公開されなかった。おそらく能管はわざと調律を狂わせたものを使うことを許されたのだろう。
地下楽家がそれをにぎっていたのではないか。貴族にできたであろうか。


新唐書
参照先
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON1.htm

日本は元は倭国。
その初めの王は天御中主。32代位まで筑紫に居た。尊を名に付ける。
その子が大和州を治めた。以後大和の天皇が続けてあげられる。
600 隋の頃に初めて中国と国交を持った。師升は?卑弥呼は?台与は?用明は多利思比古。阿毎氏。倭の五王は?
親から子へ継がっていく。
孝徳、天豊財、天智、天武、総持の辺りさらっと書いてある。
文武は先帝の子と書いてない。


三国史記
参照先
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON2.htm

670以降は日本。倭が日本と名を変えた。

539-571 欽明 任那日本府は日本の支配下。百済王に働きかけた天皇は実は倭王。
景行 九州王朝の発展史。武内宿禰は倭国の配下か。

14 Aug 2019

古代日本史

日本に資料がなくて大陸のを頼るしかない。
Wikipediaを参照し、先の先の家村和幸先生の動画より妄想を加えた。

西暦57 倭(九州)の小国奴国(儺県:なのあがた)は、実は日本の一地方地治体であったが中央に密して大陸漢王朝の支配下に入って勢力をつけようとしていた。漢は日本侵略の手先にしようと優遇した。

107 倭国王 帥升と名乗るものが漢へ朝貢した。九州が統一され、漢に認められるため連絡に行った。つまり奴国は配下になった又は滅びた。生口を俸げたとあるので奴隷制があった。

147-189
結局師升の九州統一は永続きせず、卑弥呼が登場するまで荒れる。

238(239)卑弥呼が魏に朝貢し、新魏倭王になる。朝鮮半島の国々とも国交あり。

248 邪馬台国VS狗奴国
卑弥呼死ぬ。

266 台与 晋に朝貢

289-413
謎。大陸と国交なし。

413 東晋 倭王讃
略。朝鮮半島での軍事権の承認
478 宋 倭王武 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王
502 宋 倭王武 征夷大将軍

倭の五王の宋への朝貢
倭というから九州の国とすると中央に対する反逆か?書紀に書かれていないので中央からは認めたくないことか?
筑紫大宰の前身になるものがあって丸投げしてたか?大陸の権威を借りてた事実を消したいか?

600 阿毎多利思比古随に遣使
607

多利思比古は山門郡の者。つまり日本の地の内通者。記紀に書かれていない。
608 隋からの返遣として裴世清が訪れている。筑紫に至った後東へ進んだ。筑紫より東はすべて倭としている。
日出処の天子日没処の天子...の書を送ったのはこちら。新唐書では用明帝としているので、その和歌彌多弗利(わかんどおり、和漢通利?)は聖徳太子(厩戸皇子)等の皇子と考えられる。
後宮に600-700人の女性という規模から考えると大王クラスか。用明とした時皇子6人は多いのか。用明帝とするのは正しいか。山門郡の者とすると大王が内通者となるが。これ馬子じゃない? 馬子の弟は境部摩理勢。馬子が夜担当で摩理勢が昼?
蘇我氏は武内宿禰の系統。


書紀によると聖徳太子の活躍がある。
600 新羅征討
601 斑鳩宮を建てる。
602 新羅征討 筑紫に25000の軍を集めたが攻めなかった。
603 冠位12階制定。
604 17条憲法

607 小野妹子 遣隋使
608 裴世清が国書をもって来日。経路は隋書多利思比古のところと同じように見える。


585-587? 用明 皇子6人。
587-592? 崇竣
593-628 推古 女帝 豊御食炊屋姫 飯炊姉ちゃん。この人が外宮の祭神じゃないか?
内宮は天照だが女神としてのモデルは神功皇后とか。
馬子は大王にはなれなかったが王として裴世清に会ったのでは?この件で一段と反感をかって己乙の変になった。馬子の子は蝦夷。善徳はお坊さんになった。
稲目、馬子などの世代と用明の皇太子逹が協力して国作りにかなり貢献したのだが対立勢力が育ってしまって消されたとか。

藤原氏か。。

多利思比孤とか

先の家村さんの説から妄想した。

冠位十二階を取り入れていた倭国の王阿毎多利思北孤(あめのたりしひこ)は"あめの''から大王系で大陸にたらしこんだ位の意味になるか。つまり卑弥呼と同じで中央に密して大陸と通じ、大陸による日本侵略の手先になってた。中央から見れば反逆、消したい歴史。
中央の方は東てい国として漢に認識されていた国のことか。大陸の侵略計画から見れば九州倭国を調略、手先にするのが良いように見える。戦争ゲームのようでおもしろい。


倭の五王は倭ということから九州の王で、中央ではない。とすると九州は気長足姫の卑弥呼倒伐後も裏切りが続いていたと考えられる。
中央も大陸南朝に遣使していた。倭からの遣が途だえた時に九州は再度平定されたというところか。つまり九州という地域は元は中央の大王の政権の発生の地で、大陸との行き来が容易だった。大陸と通じて力を蓄え中央に対抗する勢力に進んでなろうとする、たぶらかされやすい、たらしこまれやすい地域だった。
後に大宰府がおかれたのは地元に任せておくと大陸にたらしこまれて反逆者次々にあらわれるので、中央の管割にしたというところか。つまり九州の人々は日本を守るには使えない人々だった。
邪馬台国は九州にあった。大陸に密通して日本侵略の手先になっていた。仕方なかっただろう。それ故中央も中華化を進めたのではないか。
人間の心は弱い、マインドコントロールされやすいということを知っておくべき。そしてされないように対抗手段を学ぶべきと思う。

13 Aug 2019

邪馬台国とか

古い音楽調べるの好きなので、ついでに歴史も学んでいる。

魏志倭人伝に書かれいる卑弥呼と邪馬台国は本筋ではなかったようだ。

https://youtu.be/xmaGVBBEjXU

家村和幸さんの説が興味深い。この人の神代の話は全くもってつまらないが、戦いがからんでくると途端に明僚になるので驚く。
邪馬台国=山門郡(九州)
卑弥呼=田油津姫
と説明されている。
田油津が''たぶらかす"に音が近い。
角のある甲をかぶった渡来人を都怒我阿羅斯等(ツヌガアルヒト)と呼んだり、真人の和名のつけ方等、当時のセンスがヒントになっているのでは。
日本書紀が日本史の正史として研究されていて神功皇后が卑弥呼を倒した。両者とも孫子兵法の熟読者かどうか。。。

九州の国々は日本の統治下の郡であった。邪馬台国の卑弥呼は中央政権に密して大陸と通じ、その影響力を駆使して周辺国を配下にし勢力を伸ばしていた。つまり大陸の日本侵略攻策が九州に広まっていた。
当時の中央の大王が妻を連れて遠征に出て九州を大陸の侵略から奪環しようとしたが、敵の戦略的攻撃によって戦死した。
連いてきた妻が旗頭となって卑弥呼を倒伐。邪馬台国の反逆、大陸の侵略から日本は守られた。

大陸の謀略による規暮の大きな内部反乱であった。他地域に反乱の気配を起させないよう書紀で小さく扱った。つまり大陸側に小事と思わせつつも釘を差したいので記述したというところか。

神功皇后=気長足姫(おきながたらしひめ)の功績なのか武内宿禰の忠心なのか。夫亡き後武内をたらしこんで子をはらんで味方にしたから侵略を防げたのか、日本は守られた。
中央は大王不在の間に政権がのっとられ、足姫とその子は邪馬(じゃま)になった。暗殺者からのがれつつ、子を産み育て中央へ返り咲くという筋か。
気長(きなが)に計画して生き延び、必要があれば男をたらしこんで味方にする。分かりやすい名前。つまりここで男系天皇が武内氏のDNA Y染色体に代わった。その後どうなったのか?男系にこだわってたら直系の誰かに後に戻ったのか?

宋書にある王年代紀にあるように九州は中央政権が誕生したところだった。その歴代の王の中に天照が居て、女神とは明記されていない。
卑弥呼は反逆者の首領(今でいえば左派のリーダー 〇んほうか)なので女性の天照のモデルにはしない。気長女姫はたらしだがよくやったと思う。やっぱ彼女か。

教科書には神功皇后の話はでてこない。代わりに卑弥呼。情報操作されてる。そして歴史は用語の記憶と年号の記憶で量られ、国防の歴史のストーリーは考えもしない。長年かけて洗脳しやすい人材を洗脳して育てる。素晴らしい手口だ。コミンテルン、GHQ、WIG、日本人派、赤い人達。命がけで戦わねばならぬっ!

大王の年齢が長過ぎるのは数代いたからか?すでに大家がたくさんあって持ち回りしてたのか?大陸側に記録がないところを延ばしたのか? 神っぽくみえるように?

家村さんによると魏志は偽書。魏が漢を継ぐ正統性を示すために漢書の記述を引き継いだ。明治にはあった説らしい。