12 Jan 2019

獅子舞曲


楠町本郷の箕田流獅子舞の曲

元々の音階

楽曲は筒音をド(主音)とするドレミ(-1/4音)ソラシの6音音階を基本に出来ており、ファ#が時折用いられ、極一部でファが用いられる。ミ(-1/4音)はミとミbの間の音である。ミとミbの間が雅楽で言う1律、洋楽で言う半音1個の差があり、さらにその半分のところにミ(-1/4音)がある。この音階は古代中国の俗楽にも無く、日本の雅楽にもない。また現代に一般的に使用される鍵盤楽器を正しく調律した状態ではこの音は基本的に使えない。
昭和40年に奉納された獅子笛ではミがミとミbの中間にあり、この笛で演奏された旋律に深みがあるかのように聞こえる。下箕田や石薬師南町の箕田流で使用されている笛はm熱田の菊田雅楽器製で、現在の標準とされている440hzよりも1全音低い392hzで調律されており、ミは1/4音低くない。1
正倉院に残存している横笛はとても音程が悪く[正倉院の楽器]、調律されているとは考えられない。その調律の悪さから、それらの横笛は合奏を前提とする雅楽に用いられたのではなく、伎楽の様に独奏に用いられたのだろう。獅子笛がこれらの残存の横笛を手本に作られているのならば、元々調律された音階を持っていない可能性が高い。
獅子舞の楽曲を記憶している人に曲を口ずさんでもらうと、その旋律は基本的に五音音階で歌われる。基準音を平均律の音程のどれかに移動して歌ってもらえば採譜時の困難さが軽減される。

採譜に際して一部変更された音階

獅子舞の楽曲を五線譜に採譜した際、このミ(-1/4音)をミで置きかえると全体に明るい旋律になった。ミbで置き換えると元々の旋律にあった深い印象を通り越して陰鬱な旋律になった。結局、平均律で演奏する際はミを基本として、ところどころでミbで置き換えることとした。これによって獅子舞を構成している音階はドレミファ#ソラシになった。西洋の教会旋法のリディアン音階と同一である。この音階の2全音高いものが沙蛇調として日本雅楽や古代中国の俗楽用の調に残っている。沙蛇調はインド由来の調と考えられている。

楽曲の特徴

日本の伝統音楽は主音とその4度上の2つの核音(主音ドに対するファ)の上下を漂うように構成される。楠町本郷の箕田流獅子舞の曲では主音と5度を骨格としている。これは雅楽や洋楽に見られる特徴であり、この曲は日本の伝統音楽ではない。また一定のテンポではっきりしたリズムで演奏され、日本の伝統音楽というよりはアジアから輸入された音楽のように聞こえる。
現存する雅楽(宮内庁雅楽部の演奏も同様)は原曲の4-16倍程度遅く演奏されている。これは伝承の過程で後継者の実力が十分つかないまま継承されたり、荘厳に感じられるようにテンポを遅くした演奏が要求されたためと考えられる。結果原曲が分からないほどゆっくり演奏され、間延びした音は伝統的奏法によって表現される。これは基本的な技量が乏しい奏者による誤魔化しである。
楠町本郷の獅子舞の曲は希薄な拍子感で随所に綻びが認められるものの欠損はないように見える。雅楽におけるテンポの大幅な低下や誤魔化しの伝統的奏法などは見られない。
個々の楽曲、座付、だんちょ、こっこっこ、舞出し等と雅楽の古譜にある駒形舞の獅子、蘇芳菲、犬、狛龍等と比較しても其々がより長い。また両方に共通する楽句は認められない。楠町本郷に伝わる箕田流の獅子舞の曲が雅楽の駒形舞に繋がるものとは考えられない。楽曲構成は雅楽の古譜と比較すると複雑過ぎる。よって平安時代までに成立したものとは考えにくい。江戸時代後期には神社が地域文化の中心となっていたことからその時期に成立したのではないか?
明治期に伝承された羽津地区の箕田流の曲とはとてもよく似ている。2細部は異なる。楠町本郷の曲は変拍子が随所に見られ、拍子感が希薄になっている。伝承においては前の代の演奏をそのまま受け継ぐことが前提とされており、誤った箇所を修正することができなかったようである。そのため不完全な曲に慣れてしまい、音楽性が充分に育たなかったと思われる。この点から採譜した楽譜をそのまま郷土芸能の資料として使うことは全く勧められない。楠町本郷の楠村神社では著者による編集を行った楽譜を元に著者が演奏を再興している。氏子達の会議で数ヶ所の訂正箇所について説明し、それら訂正が悪意によるものでないことを示したが、先の祭礼の後にも氏子からは演奏が従来の物とやや異なる点に不満を抱き、若い者を走らせ「よくも変えてくれたなー」と著者に恨み言を度々吐かせている。

座付

舞いと太鼓を伴わず、笛だけで演奏される。この楽曲は湯の花神事でも用いられる。羽津地区の箕田流獅子舞ではこれを壇兆、次の曲を座附と呼んでいる。曲の名称は伝承の過程やその地域の神社の祭礼の様式に合わせて代わったのだろう。
4/4
拍子ではっきりしたテンポを明示せず、ゆったりとした体で低い音域でトリルをふんだんに使って演奏される序奏3、次に序の雰囲気を破り2/4拍子で次のだんちょに似た旋律が演奏される。旋律の中心がミ、ソと移って行き、より華やかに演奏され、換頭4を経て曲の中間部分が繰り返される。楽曲の最後には再び破の冒頭の旋律が再現され、締めくくられる。雅楽の序破急の音楽形式の影響を受けていると思われる。

だんちょ

この曲より舞いが加わる。口取と師子が共に舞う。雅楽の舞楽では舞人が舞台に入場する時に乱声を演奏して舞台を祓う。だんちょと乱声は音が似ており、曲名は乱声に由来するのかもしれない。陰陽道では大声を発して魔を祓う乱声がある。
2/4
拍子、先ず太鼓のみでこの曲の基本のリズムパターンが演奏される。笛は先の座付の2/4拍子の部分と同じモチーフがやや変更されて演奏される。途中突然6/8拍子になって雰囲気が変わり、短調な繰り返しに慣れた耳が驚かされる。この曲と座付は構成上とてもよく似ている。どちらかがベースとなって一方の曲が作られたのではないか。

間奏

楠町本郷の箕田流獅子舞は全曲を通して音楽が途切れることなく演奏される。曲と曲を繋ぐ間奏曲が幾つもある。それらは座付の序奏部分と似ている。だんちょうの後の間奏部分は座付の序奏とほぼ同じ旋律で始まる。

こっこっこっ(獅子起こし)

この曲のタイトルは鶏の鳴き声なのか?曲中では桴で太鼓の縁を”こっこっこっ”と繰り返し叩いており、鶏の鳴き声に聞こえる。口取は長鳴鶏の一種東天紅を模した甲を被っている。口取の直近のモデルは雅楽の散手や貴徳と言った武舞いと考えられる。それらは竜甲、鳳凰甲を被って舞われる。雅楽の一般的な甲は鳥甲である。その名称から鶏甲とし、より具体的な形状にしたものが使われている。他地区では起こしと呼ばれている。師子を目覚めさせるからである。
初めに口取が独りで舞う。これは地面の下に住む魔物を祓う呪術である。陰陽道の反閉や相撲のしこ踏みも同様の呪術である。地面の下に住む魔物とは元は道教の土公のことだろう。新築のお祓いでも祀られる。この間師子は眠っているが、自身の廻りを飛び跳ねて踊る口取の舞いによって目を覚ます。
2/4拍子、太鼓の演奏から始まる。前振りの3小節は曲中で用いられるパターンではない。4小節目から太鼓の縁を叩く、そこから4小節間が基本パターンである。旋律のフレーズは長短まばらで太鼓の基本パターンとは12小節に1回合う程度である。笛は弱拍から吹き出される。この曲の旋律はソから始まり、ここまでの曲とは印象が変わる。その曲調は次の舞出しに近い。最低音のドから最高音のドまで全音域が使われ、難易度が上がる。楽曲はほぼ全体が部分的に繰り返して演奏される。シラソの3連符を複数回繰り返すフレーズは座付にも使用されており、全曲の最後に奏される舞上げにもつかわれており、楽曲に統一感を与えている。後半の最低音から始まる旋律は弱拍から始まるものと強拍からのものがある。拍子感の希薄さから生じた誤りと考えられる。3拍子が部分的に頻発する箇所は雅楽の夜多羅拍子5の影響だろうか?太鼓は一拍ごとのパターンを繰り返し拍子感は表出されていないため希薄である。それによって3拍子と2拍子が交互に繰り返されるおもしろさは伝わってこず、ただ不明瞭でよくわからない感じが立ちこめる。この箇所は他地区では見られない特徴であり、初めて聴く際には驚いたが楽譜にして調べてみると効果の上がる構造ではないことがわかる。このような不出来な楽曲を鵜呑みで継承させようとするのは酷いとしか言いようがない。音楽的教養の低さと実力の伴わない見栄の高さのためのはったりであろう。

間奏

師子舞人の交代あり。口取はささらから扇に持ち換えて舞う。
前曲の勢いのあるテンポをそのまま引き継ぎ、低音域で短いフレーズの繰り返しで演奏される。繰り返し部分が多数あり、その回数2回、4回、7回と個々フレーズによって異なる。最後に1オクターブ上で演奏され、そのままのテンポで次の舞出しに入る。

舞出し(舞出し1

時折師子を扇で煽る。師子は扇を取ろうとする。飼い猫を猫じゃらしでじゃらす様子を元にしているのか?
速いテンポでアーフタクト6と装飾音が応酬する。舞出し独自のテーマが細切れに演奏される。少し演奏しては途絶え、次に途中から演奏が始まり、また途絶える。この手法はテーマを通常通り演奏し、それを細切れにした場合に十分有効だと思われる。しかしながら楠町本郷では小節数数が増えており、通常通り演奏したテーマと隠された部分がずれてしまい、不明瞭さがもたらされている。ここからの一連の舞いにはこの独自テーマの使い回しが多用され、曲名毎に明確に曲を区別することができない。曲は間奏部分によって5つに分けられる。舞いの名称による区別はここで言う楽曲の構造上の区別とは一致しない。

舞出し2

低い音域でテンポを落として演奏される間奏から始まる。先の舞出しにほぼ同じ。

別れ扇(舞出し3前半)

口取は正座したまま伏せた師子を扇で煽る。師子は釣られて立ち上がり、扇を銜え取ろうとする。師子が扇に噛みつく瞬間に口取が扇をかわす。笛は高音のドを連続して吹くが伝統的手法がここには全く見られない。

跳び扇(舞出し3後半)

口取は扇を師子と自分の間に置き、閉じた扇子を叩いて師子を一層煽る。置かれた扇子を挟んで師子と口取が舞う。師子は時折扇を取ろうとするも口取に阻まれる。うなだれた師子を口取が扇子を叩いて鼓舞する。最後には口取が扇子を拾い上げる。
この曲の後半部分では師子が扇を取れなくてがっかりしたり、扇を再び取ろうと再燃している心情を笛の旋律が表現している。中音ミの連続した旋律をレの装飾音で切って演奏する伝統的手法が見られる。舞出しの各曲に共通して使用される快速のテンポのテーマにソからラにかけてポルタメントが付加され演奏される。他曲ではこのポルタメントは付加されない。

銜え扇(舞出し4

口取が正座の状態で扇で師子を煽る。師子はそれに釣られて立ち上がり、扇を銜え取る。扇を銜えたまま、師子だけが舞い、喜びを表現する。口取は柏手を打って頭を下げる。扇を取った師子の喜びの舞い。
ここでも師子の落胆のテーマが演奏される。

隅扇(舞出し5

舞台の対角線上に口取と師子が向い立ち舞う。其々が舞台の隅で転げる。正座した口取に師子が噛みつくが、口取は何ともない。口取が神通力で師子の噛みつきを無効化したということらしい。この呪術的な設定は山伏、修験道、陰陽師、仏教系呪師、呪禁師などの古代宗教の呪術に由来すると思われる。地区によっては噛みつかれるタイミングで剣印を結ぶところもある。師子は口を開けたまま呆然として後ずさりし、離れて伏せる。師子は最後に扇を口取に返す。
ここまでが一連の舞いらしい。この後の花の舞との間には間奏は無い。

花の舞

この舞いのモデルは中国南部の獅子舞の採青と考えられる。笹に三角のクッションを数個吊るし、その下で師子が舞う。口取は登場しない。師子が笹に鶴されたクッションを噛もうとする。低音の静かな部分と軽快なテンポの部分が交互に出てきて、師子の舞もそれに合わせて大胆に変化する。最後には師子が転ぶ。間奏曲はなく、続けて太鼓の軽快なリズムで舞上げが始まる。
楽曲は間奏部分から始まる。そして花の舞のテーマが演奏される。ゆっくりしたテンポでリズムが明確に表されず、採譜に苦労した。このテーマを15回繰り返す。その間にテーマは短くされたり、別のテーマが付加されたりして変形する。Coda(結句)は本局だけでなく全曲を通して全く同じものが用いられている。曲の統一感をもたらしていはいるがあまりに変化がなさ過ぎ、個々の曲の独自性が損なわれている。
  • 1間奏(序奏とも言える)+テーマ
  • 2テーマ
  • 3テーマ
  • 4テーマ
  • 5テーマ短い版+独自部分テーマ
  • 6テーマ短い版A
  • 7テーマ短い版B
  • 8テーマ短い版A
  • 9テーマ短い版C
  • 10テーマ短い版A
  • 11テーマ短い版C
  • 12テーマ短い版A
  • 13テーマ短い版
  • 14テーマ短い版再構成版
  • 15テーマ短い版+跳び扇のテーマ+[シラソ]+Coda
本曲ではミとミbが明確に使い分けられている。楽曲は低音レを必要としておりそのために第7孔を開ければ、ミbはクロスフィンガリングか音孔の半開、唄口による調整で出さなくてはいけないが、楽曲での使われ方からはそれらの方法は難易度高すぎる。おそらく元々調律がなされておらず、正確な音程で作られた楽曲ではなかったのではないか。しかしながら平均律の音程で書き表すことができる点がおもしろい。

舞上げ

だんちょで使用された軽快な旋律が再び奏でられる。口取が再登場し、師子の横に並んで共に軽快なテンポで舞い、一連の演目が閉じられる。

飼い慣らし

楠町本郷の箕田流には無い。地域によっては貝鳴らしと書く。他地区の旋律からだんちょや舞上げで使われる軽快なテンポの部分と考えられる。一連の舞いからは独立しており回壇において使われたと考えられる。

おかぐら

楠町本郷で春秋に行われる神事では獅子舞の楽曲以外に比較的短い行進曲風の楽曲が演奏される。ほとんど同じ楽曲が石薬師南町の箕田流獅子舞にも受け継がれている。石薬師北町の山本流獅子舞ではこの曲は使われない。南町ではこの曲を”おかぐら”と呼んでいる。その演奏は優雅な装飾音をともなって雅やかである。楠町本郷の演奏では風雅な雰囲気は全くなく、実直さが目立つ。
楠町本郷のおかぐらには導入部分が残っており、常にそれから演奏を始め、本曲に入る。その導入部分の調はドレミbファ(ソラシ)である。(ソラシ)は導入部分では使用されない。本曲ではドレミ(ファ#)ソラシで作られている。(ファ#)は使用されない。獅子舞と同じ笛を用いて演奏され、本曲の音階は獅子舞と同じ音階とも考えられるが、元々ファ#が存在しないドレミソラシの6音音階とも考えられる。全曲が2/4拍子である。歩く位の速さで演奏される。太鼓と銅拍子を伴う。獅子舞では銅拍子は用いられない。
1正確に言えば獅子笛のミはピアノのレであって、獅子笛は1全音低い。譜読みを容易にするため移動ドで表現している。
2Youtubeに昭和57年撮影の動画がアップされている。
3実際には一定のテンポの2/4拍子で演奏される部分とほぼ同じテンポだが4/4拍子で数えられるのでゆったりと聞こえる。序奏は1小節が4拍。テンポが上がる部分は1小節が2拍。
4繰り返しの際に演奏される部分。雅楽の楽曲にしばしば見られる。
5平安時代に京都の楽人が考案したという変拍子である。
6フレーズが弱拍から始まること。

伎楽と獅子舞の楽器

伎楽と獅子舞の楽器

612年に百済から日本に伝来した[日本書紀]伎楽に師子が含まれている。笛、腰鼓、鉦鼓(後に銅抜(銅拍子)に代わる)によって演奏される。これらは仏典に出てくる楽器である。[仏典に現れた楽器・音楽・舞踏]
これらの内笛と腰鼓は田楽にも用いられている。田楽は田植え前に田の地鎮を行なう呪術で、田楽法師によって行われていた。腰鼓は音量が小さく、笛1本とバランスをとるために10個を要したらしい。笛は6孔であったらしい。[正倉院の楽器]
年中行事絵巻の御霊会に見られる田楽では板切れを多数結びつけたささらが、笛、腰鼓とともに使われている。図1の御霊会の行道の獅子舞では1頭毎に笛太鼓の囃子が付くが、その太鼓は現在の締太鼓とは異なっている。
楠村神社の祭礼では7孔の笛(獅子舞共用)、締太鼓、銅拍子が用いられる。笛と銅拍子は伎楽と共通している。締太鼓とは鞨鼓がやや大型化した太鼓である。笛2本に対して十分な音量がある。北勢地区の仏教系の神事、西日野、東日野の大念仏、下箕田の虫送り等、様々な大きさの物が使われている。鞨鼓は雅楽で用いられる楽器で楽曲を指揮する役目を受け持つ。

田楽

もともと耕田儀礼の伴奏と舞踊だったものが、仏教や笛太鼓による囃子と結びき、芸能として洗練された。平安後期には寺社の保護のもとに田楽座を形成し、田楽を専門に躍る田楽法師という職業的芸人が生まれた。神社での流鏑馬や相撲1、王の舞2等と共に神事渡物の演目に組み入れられた。
中世3以来、各地に伝わる民俗芸能の田楽をまとめると、共通する要素は次のようになる。
  • びんざさら4を用いる
  • 腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない
  • 風流笠など、華美・異形な被り物を着用する
  • 踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを行なう
  • 単純な緩慢な踊り、音曲である
  • 行道のプロセスが重視される
  • 王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い
現在までに、びんざさらを使う躍り系の田楽と、擦りささらを使う田はやし系の田楽とに分かれてきた。躍り系の田楽には、豊穣を祈念するものと、魔事退散を祈念するものとがある。擦り系の田楽は稲を植える前に水田の中に入って地鎮の呪術として奏された。

まとめ

伎楽は奈良、平安時代には寺社で広く演奏された。伎楽で使用されていた笛、腰鼓が田楽にも用いられ、呪術として一定の格式を構成したのではないか。田楽が廃れた後も地域の祭礼の楽器として現在まで残ったのではないか。北勢地区の獅子舞は、水田の地鎮の呪術としての擦り系ささらを用いていることから呪術系の田楽に由来するのではないか。また田遊び、湯の花神事を伴っている例もあり、豊穣を祈願するという点からも田楽の一種、獅子田楽と考えられる。
田楽は元々面を用いない呪術であった。[日中韓の仮面劇]同時代にあった猿楽では鎌倉時代以降に寺院での供養で面を用いて行なう呪術劇を任され、以後創意工夫ががなされて発展し能になった。田楽の獅子舞、王舞い等面を用いる楽舞は、能のような創意工夫の発展の後が見られないことから、より後代に付け足されたものと考えられる。
北勢地区の獅子舞は鈴鹿市の伊奈冨神社を中心にした4流派を受け継いでいる。その獅子舞の演劇の内容は全ての流派でほぼ同一である。しかし楽曲は異なる。2017年に復活した都波岐奈加等神社の中戸流の曲は楠町本郷の箕田流と共通するモチーフが使われている。
元々伊奈冨神社を中心に4つ程の田楽座があり、飢饉に対する呪術として獅子頭がもたらされ、獅子舞を行なうことが許された。舞とその内容が伝えられたが、曲は伝えられなかった。そこで各田楽座が自分たちで曲をつけた。それが4つの流派として今に受け継がれているのではないか。
北勢地区の獅子舞は江戸時代末期から明治にかけて鈴鹿市の周辺へ伝承された。江戸幕府が倒れ、開国して異国の文化が流入し、世の中の急速な変化の中で、伝統文化の継承に危機感を感じたからではないだろうか?
[Wikipedia: 田楽]
[田楽考]

獅子笛

正倉院所蔵の班竹の横笛が楠村神社に昭和40年に奉納された横笛に近い。菊田雅楽器製の箕田流の獅子笛はより遠い。
横笛比較図(正倉院の楽器 日本経済新聞社 1967
これらの笛はその調査記録からいずれも音程がとても悪いことが分かる。また総じて現在の雅楽よりも1全音低い傾向がある。笛の外周直径が22-25mm程度あり、指穴の位置に対して、内径が太過ぎて最低音辺りの調律がとれない。その指穴の位置が内径に対して狭すぎる。獅子笛は神楽笛と同じ程度の基準音程で演奏される。神楽笛と同じ19-20mm程度の外径で作ると調律のとれた笛ができる。但し、神楽笛は6孔であり、獅子笛の曲のために7孔を追加する必要がある。指孔を全て塞いだ最低音をドとすると7孔はレになるように開ける。元々指穴が7孔ある龍笛では第7孔は最低音レに対してレ#である。共に7孔の指穴を持つ北勢地域の獅子笛と龍笛であるがこの点が異なる。7孔をレにすることで他調の演奏に制限が加わるが、楠町本郷の箕田流の曲は1つの調性のみで演奏されるので問題はない。7孔の笛の完成度5としては半分以下の性能になる。昭和40年に楠町本郷の楠村神社に奉納された獅子笛4本の第7孔はレ#に近い。従って楽曲の音階に沿って作られたものではない。楠町近隣の獅子舞(他流も含む)で使用されている獅子笛もその第7孔の配置から楽曲の音階に沿って作られたものとは考えられない。


正倉院に現存する横笛は総じて音程がとても悪い。調律された笙や箏、琵琶と一緒に演奏されたとは考えにくい。これらは現在の獅子舞や祭り囃子のように独奏やユニゾンでの演奏に用いられたのではないか?飛鳥時代以降伎楽が寺社に普及し、その楽器が田楽に用いられるようになった。その呪術的性質から現在まで笛を改良することなく、低い基準音を守って使用され続けているのではないか?
伎楽は朝鮮半島の百済からもたらされたが、元々は中国と西域、インド由来の演劇であったものが朝鮮半島を通って日本にもたらされただけであり、雅楽で朝鮮由来の曲を演奏する高麗笛(神楽笛より2全音高く、指穴は6孔)を用いなかったのかもしれない。
参考文献:
  • [正倉院の楽器]
1宮廷の相撲では獅子舞、狛犬等の駒形舞が舞われた。
2鼻高面を着けて鉾を以って舞う。
3鎌倉幕府1192から室町幕府滅亡1573まで。
4多数の板切れをつなぎ合わせたささら。
57孔の横笛はインドで発明されたと考えられており、シルクロードを通って大陸の東西へ伝搬した。1600-1750西洋のバロック時代には室内楽用に7孔の笛が開発され、使用された。笛1本で全ての調(24調)が演奏できる性能を持っていたと考えられる。著者による複製製作研究によって確認した。

獅子


師子

伎楽の師子

612年に伎楽の一部として師子が日本に伝来した。古典の音楽書に伎楽について書かれている。
  • 48日仏生会、715日伎楽会と言う。(略)この舞いは聖徳太子の時代に百済より未摩之という舞師が伝えた妓楽である。先ず盤渉調音取り、次に同行音声または同行拍子を奏して行道をする。列の順序は先ず師子、次に諸曲の舞人、次に笛吹き、帽子冠を被った者、三鼓2人、銅拍子2人。先ず師子が舞う。その曲壱越調音、陵王の破に似る。喚頭1あり。古い書物には破、喚頭3回、高舞3回、口下3回、何事哉。(略)[教訓抄]
  • 伎楽の笛は戸部氏相伝の曲。笙、篳篥の曲ではなく、三鼓も用いない。横笛の秘曲である。興福寺の混同で毎年48日に演奏される。曲は残っているが、舞いは断絶している。[楽家録ー伎楽之笛相伝]
伎楽も龍笛の秘曲であった。上記教訓抄の記述では、伎楽の師子は壱越調で陵王破に似ており、繰り返しの際に演奏される喚頭部分があった。壱越調は、箕田流獅子舞よりも全音1個高い調で、音階はレミファ#ソラシドである。古い書物からの引用の、“破”と”喚頭”は曲の構成部分と繰り返しを意味していると考えられる。高舞と口下についてはわからない。
[雅楽ー古楽譜の解読]に伎楽を五線譜に書き直したものが掲載されている。師子も含まれている。この師子は[伎楽曲新考]で述べられている秘曲師子とは異なる曲である。

秘曲師子

古典の音楽書に師子が龍笛の秘曲であると書かれている。
  • この曲は序破急2がある。御願供養3で演奏される。笛太鼓鉦鼓が用いられた。戸部氏が伝える秘曲である。次の詠がある。西に向かって唱える。
    獅子天竺 問学聖人 瑠璃大臣 来朝太子
    飛行自在 飲食羅刹 全身仏性 尽未輦車
    毘婆太子 高祖大臣 随身眷属 故我稽(首)礼[教訓抄]

  • 中華の曲において獅子荒序伎楽、高麗曲において狛犬吉簡を秘曲とする。この内獅子伎楽は横笛に限る。[楽家録ー横笛秘曲]
  • 獅子は笙、篳篥の曲ではない、横笛の秘曲である。戸部氏にて断絶後、京都楽人大神氏が相伝した。毎年天王寺にて215日と22日に演奏した。15日は秦氏が奏し、22日は必ず大神氏が奏した。音取りは秘するため伝えられない。曲は残って居るが舞いは断絶。先ず左方が菩薩を奏し、その後右方がこれを奏する。舞いの手順は獅子2頭が舞台に上り2回廻る。1頭は順方向、もう1頭は逆方向。1人は獅子頭を被り、もう1人は尾に入る。計4人。最後に楽屋に入って終わる。旧記によると、先ず乱声を奏し、この間に舞い人出る。次に音取り、そして当曲演奏。[楽家録ー獅子笛相伝]
師子については研究論文が幾つもある。林謙三による論文では、師子は壱越調で曲は雅楽の陵王破に似ていることを楽曲を分析して確認している。[雅楽ー古楽譜の解読]
鎌倉時代に写された伎楽の譜(琵琶)が残っており、五線譜に書き直されたものが[伎楽曲新考]にある。この伎楽の譜の師子は教訓抄、楽家録等の音楽書に見られる秘曲師子と考えられ、序破急の形式からなっている。[伎楽曲新考]
元々伎楽の一部であった師子が、それだけ取り出して法会に使われるようになった。
実際の演奏に際しては、その譜の音価を1/4にして演奏されていたと考えられる。短い序破急の形式からなり、箕田流の獅子舞の曲とは全く異なる曲である。

秘曲師子はどのように舞われたか

師子の演技の様子について書かれた記事を抜き出す。
  • 伎楽の師子
    古い書物には破、喚頭3回、高舞3回、口下3回、何事哉。[教訓抄]

  • 1214七条歓喜寿院供養にて(略)この左方は先人のものと異なった。法用が終わってから舞った。先ず左楽行事(次第を司る者)が召され、師子を舞うため、4を引き刷りながら楽屋より出て庭中へ進み、半ば辺りに立って甲を脱いで腰に着け、烏帽子を引き立てて古楽乱声を吹いた。その時に左の師子が起き上がって、舞台に上り、四角を拝して、正面に立って2度拝し、この後乱声が吹き止んだ。古くはここで詠5があった。次に序、破、急の形式で3回吹いた。師子が舞い終わった後、甲を着けて楽屋へ帰った。その都度異なる。不審がない分けではない。公の行事ではない時の師子の例。鴨神社の一切経会、清延が楽屋の中で吹いた。経頭馬一頭が引いた。天王寺・住吉社に師子がある。それはとても異なるものである。乱声も別物、曲を吹く様子も太鼓を打つ様子も替わっていた。なかなか本朝の師子より興味深い。(略)[教訓抄]
  • 1330舞楽の伽陵頻と胡跳が演じられた後、師子の乱声が鳴り、狛犬は地にふし、師子が舞台に登る。四方に礼し本尊と證誠を拝む。太鼓が三拍子になったら、つなとりが綱を獅子に打ちかけ、蝿払いと共に舞台の左右のすみに控える。[元徳二年三月日吉社並叡山行幸記呂一]
  • 龍頭鷁首6の船が現れ出て、獅子、駒犬、傀儡など船より神前に参り、菩薩舞い等種々の曲を行い、古式の様相を表した。駒形の舞楽の後2獅子2頭で獅子舞が行われ、鳥蝶舞楽、菩薩が行われた。[北和介文書放生会記、法鏡寺文書等 放生会の由緒]
  • 1開眼作法2寢儀諸着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師7参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。
    [雅楽と法会]


中国の獅子舞

伎楽由来の日本の雅楽や寺社の師子は北勢地区の獅子舞と似ている部分が少ない。日本よりも古くから獅子舞があったと考えられる中国の獅子舞はどのようなものか?


漢代の壁画や石刻に“舞巨獣”というのがあり、これが中国南北朝時代(日本では古墳時代)になると獅子舞として、百戯の1つとなり、唐代には”五方獅子舞”と称せられた。(略)もっとも獅子舞はイラン原産でシルクロードを経て中国へ入ってきたといわれている。[新装新版中国文化伝来事典:獅子舞]
獅子舞の発展の歴史は長い。漢代(BC206-AD220)の「象人8」、北魏(386-534)の「避邪獅子」、唐代(618-907)の「五方獅子舞」、宋代(960-1279)の「獅子戯球」、明代(1368-1644)の「大小獅子」と、たゆみ無く蓄積され発展していった。[舞龍舞獅]
清代(1636-1912)の頃の雑技には舞獅子という演目ではなく「太獅子」「少獅子」とある。太獅子は大人の獅子で、少獅子は子供の獅子である。[アジア演劇人類学の世界]

現在の中国の獅子舞

中国の獅子舞は発展して現在、南北二大流派が形成されている。一般に揚子江を境にして北と南を分ける。[アジア演劇人類学の世界]

北方獅子:

北獅は正月に演じられ、主として新年を迎えた人々に福をもたらす神獣である獅子が、邪気を祓う古儺の習俗を強く反映しているようである。また神を迎える賽会(祭礼)、雨乞いや厳粛なる祭儀などでも獅子舞が演じられることがある。
伝統的な演出形式は2匹の獅子と2人の舞人からなる。大羅漢の面見を付けた
矮胖和尚(背が低く腹が膨れた和尚)が獅子を引き出すののが原型で、仏教と獅子舞との関係に追遡できる。いかなる獰猛な獣も和尚の霊力によって意のままになることを表現している。この原型は南方より伝えられたとも言われる。[アジア演劇人類学の世界]
北獅は獅子の生態を真似た軽快な動きと玉乗りなど曲芸の要素を取り入れているのが特徴となる。二人で演じるのが大獅で、独りで演じるのが小獅である。大獅は文獅と武獅に分けられることもある。文獅はおとなしい獅子の姿を主に演じる。毛をなめたり、振り回したり、かいたり、また転げ回ったりする。武獅は、獅子の勇猛な性格を主に演じる。飛びかかったり、よじ登ったり、飛び跳ねたり、球を踏んだりする。大獅は二人、少獅は一人で演じる。獅子の身につけた装飾は長い毛によって隠されている。獅子を舞うときは獅子だけが見えていて、中の人は全く見えない[神事としての獅子舞]中の李英儒の説明より

南方獅子:

南獅は獅子の鱗状の文様が特徴であり、演技は武功を基礎として勇猛果敢である。どの獅子も2人で演じられる。ただ縁起中に中の人間が見えてもかまわない。
南方派もまた北方派も獅子を舞う間、銅鐸や太鼓が伴奏する。演じるとき、型で決まった動作があり、例えば球ころがしの獅子舞い、武士の獅子舞い、兄妹の獅子舞などである。獅子舞は地方によって違い、例えば河北には双獅、安徽には青獅がある。[神事としての獅子舞]中の李英儒の説明より
広東の瑞獅(醒獅ともいう)は梯子を登り、高いところで曲芸的なものを見せたりする。本来は竹竿の先に紅封包(お金を包んだもの)と一束の緑葉をつけたものを、獅子舞の後脚の者の肩の上に乗って、一歩一歩その竹竿に近づき、手を獅子の口から伸ばして紅封包を取るという採青から発達したものである。この演出は戯園(劇場)や広場で演じられることが多く、楼台の上に作られた椅子から下を眺めたり、ぐるぐると徘徊したり、見回したり、激しくぶつかったり、しゃがみ込んで歯を磨いたり、ときには身を伏して寝たりするように、様々な態を見せたりする。(略)湖南省の獅子舞は、毛を舐めたり、痒みを掻いたり、転げたりする。獅子郎は大羅漢の面見をつけ、手に大きな蒲扇をもって、獅子をからかったり、眠っている獅子に手を出したりする。[アジア演劇人類学の世界]

南北の共通点

獅子舞は中国の民族的行事の中でも最も一般的な民間舞踏である。長い間、獅子は人々の心の内で瑞獣であり、武威と吉祥の象徴であった。そのため、春節や元宵、縁日などの大事な祝賀行事に、各地の人々は銅鐸や太鼓を叩いて獅子を舞う。自ら楽しむと共に、邪気を祓い、福を求める願いを託した。[舞龍舞獅]
中国の獅子舞は、時代色や地方色によってさまざまであるが、悪霊の退散や招福を願うという点で、また民間で行われる芸能であるという点で一貫している。民間芸能としても今日でも盛んに行われている。[神事としての獅子舞]
安徽省9では病気になった人が寝ている寝室に獅子が入り舞うことで目に見えない病魔を祓い除くことができると信じられている。また幼い児を獅子の口内にいれて、咬んでもらうことをする。こうすれば病気せずに、丈夫に成長すると言われる。[アジア演劇人類学の世界]


まとめ

湖南省の獅子舞が、面を付け扇で獅子をからかったり、眠っている獅子に手を出したりするという点で、北勢地区の獅子舞に似ている。


日本の獅子舞

唐の獅子舞が日本に伝わり、舞楽として演奏されている内に、太神楽などで悪魔払いや豊作の祈祷として民間に定着したものである。[新装新版中国文化伝来事典:獅子舞]
日本の獅子舞は仏教行事から神事へと発展し、さらに見せ物的要素が加わり民間芸能として盛んになった。民俗芸能として広まったことにより、能の「石橋」、歌舞伎の獅子の演目として舞台芸能として発展した。[神事としての獅子舞]
舞いにおいては、雅楽や社寺の祭礼の師子の記録よりも、中国の南方の獅子舞の原型に近いと思われる。
まとめ
北獅子と南獅子の両方ともその原型においては獅子使いが羅漢の面ををつけていたのは興味深い。しかし原型がいつ頃のものかはわからない。
北勢地区の獅子舞は、年中行事絵巻にある祇園、稲荷の御霊会の絵図にある獅子舞とよく似ている。獅子頭の形、幌の装飾、行道においては先に鉾、次いで鼻高面、獅子と続き、行道の並び順と同じである。一方でその舞いは四方祓いのみが雅楽や社寺の祭礼の師子の舞いと共通している。全体としては中国南方湖南省の扇を使って獅子にちょっかいをだす獅子舞に近い。広東の瑞獅の原型である採青は花の舞の原型のようにも見える。これら南方の獅子舞の舞いが別個に日本に伝わったため、花の舞が一連の獅子舞とは別個になっているのかもしれない。
この中国の獅子舞の原型がいつ頃のものであるかわからない。日本でも獅子舞は仏教と共に発展した。口取は仏教にちなむ役割、インド人仏教僧の導師、呪禁師等ではないか。

中国との国交

飛鳥、奈良、平安時代を通して中国に対して朝貢し、冊封されて交易を行い、密教、舞楽が伝来した。894に遣唐使が停止され、907には唐が滅び、遣唐使も消滅した。
960に北宋が起こり、九州では商人達による私貿易が行われていた。
1126南宋成立。私貿易が続く。
1173に平清盛が正式に国交を開き日宋貿易を振興した。
1185-1333鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、幕府は民間貿易を認めていた。
南宋の滅亡(1279)後も延長として元との日元貿易が行われている。
1401室町幕府(1338-1573)によって日明貿易が本格的に再開される。遣唐使消滅からここまで日中の交易は私貿易が主だった。
1603-1867江戸幕府の鎖国政策によって貿易が制限されつつ行われた。貿易の相手はオランダ東インド会社や、中国の明・清の商人、李氏朝鮮、琉球王国、アイヌだった。[Wikipedia: 日本の貿易史]

まとめ

平安期より後には公的権力によって貿易が独占されることが少なく、中国の民間の獅子舞が日本に流出する機会はあったと考えられる。
1雅楽の唐楽において,曲の冒頭に演奏した部分と入替えて演奏する部分。
2日本雅楽の楽曲構造
3
4奈良時代以降の束帯および衣冠着用のときの上着。
5詠とは楽曲中で読まれる詩である。[教訓抄]には次の詠を西に向かって唱えるとある。
獅子天竺 問学聖人 瑠璃大臣 来朝太子
飛行自在 飲食羅刹 全身仏性 尽未輦車
毘婆太子 高祖大臣 随身眷属 故我稽(首)礼
6平安時代、船遊びに用いた21対の船。鷁は想像上の白い水鳥。
7呪禁師ではないか?
8動物等のものまね芸
9上海、南京に近い。

口取

口取
中国の民間の獅子舞の原型では、獅子使いは羅漢1の面を被っていた。[アジア演劇人類学の世界]羅漢は仏教僧を意味する。
伎楽の鼻高面飛鳥時代に日本に伝来した伎楽は師子を含んでいた。伎楽とは仮面を着けて行なう演劇でその内容は仏教の教えに沿うものだったと考えられる。その行道の先頭、師子の前を歩くのは治道である。多数の伎楽面が現存しており、それらの内治道と婆羅門の役柄用の面が良く似ている。
婆羅門の方は頭頂部分が欠損している様に見える。婆羅門はバラモン教の僧だろう。治道は剃髪した仏教僧で、両者とも鼻が長いのはインド人(アーリア人)の特徴ではないか?両方とも現在の鼻高面よりも鼻が下向いている。
御霊会の鼻高面
年中行事絵巻 国会図書館デジタルライブラリー
平安時代に始まった祇園御霊会では行道の先頭は鼻高面を着けた舞い人が散手破陣楽という舞を舞っている。この鼻高面の舞人は行道の間に御輿を置く場所を祓って清めることも行っている。
図1の右下で右手に剣印を結び、左手に鉾を持った鼻高面が見える。剣印は道教や密教において用いられる。稲荷の御霊会では鼻高面を腹部の前につけて馬に乗り、顔を蔵面のような白い布で隠している者が行道を先導している。その鼻高面は雅楽の舞の貴徳の面と説明されている。[日本絵巻大成] 平安時代に整理された雅楽では、唐由来の舞楽を左方に、朝鮮由来の舞楽を右方に配置した。散手と貴徳はそれぞれの方に属する番舞である。左に赤、右に緑が配色され、舞人の衣装もこれらの色を基調とされた。両方とも鉾を持ち、剣印を結んで舞う。散手は竜甲を被り、貴徳は鳳凰甲を被る。但し貴徳の面は白っぽい肌色である。両方とも仏教に由来せず、一国の王をモチーフにしている。武勇に優れた王による天下太平の舞である。江戸時代に成立した[楽家録]の舞い面図では散手の鼻は高くない。貴徳はやや高いが伎楽の治道には全く及ばない。両方とも髭がついている。他の面では菩薩も鼻高ではない。地久と胡徳楽、陵王はやや鼻高に描かれている。陵王の頭に龍がついており、散手の面に竜甲を被った様に似ている。陵王も印を結んで舞う舞いである。
信西古楽図の鼻高面
覆刻日本古典全集 信西古楽図 政宗敦夫 現代思潮新社 1980
唐代の宴饗用の舞楽を描いた[信西古楽図]にも鼻高面が描かれている。これも剣印を結んで、鉾を使って舞う。この鼻高面には髭が生えており、太刀や鉾を持つことから散手や貴徳の様に武人の舞いに見える。この図では鳥甲を被っているが、散手では竜甲、貴徳では鳳凰甲を被り、よりシンプルな形の鉾を使う等細かな違いがある。
古代中国の俗楽に「安公子2」という曲があるが、安弓子と同一の曲かどうかはわからない。王令言という楽人は音律を熟知していた。その息子が隋の皇帝煬帝が江都へ行幸する折にその供をすることになっていた。息子が戸外で琵琶「安公子」を弾いたのをを聞いた令言はその曲の主音の反射音が無かったことに気づき、主音は皇帝を象徴するものだが、それが返ってこない。帝は戻ってこれない程危険なことになるから供を辞めるように言った。[随書][隋唐宮廷音楽史試探(1)]この記述は煬帝の音楽への知識が薄弱なことを批判する狙いもあったと考えられる。
安弓子の名を持つ曲が平安時代末1177以降に成立した楽譜集[仁智要録][三五要録]に収録されている。それぞれ箏、琵琶のための楽譜である。
安弓子は性調に分類されている。性調には4曲だけが収録されており、その内千金女児、長命女児は新楽で産屋で奏されたらしい。安弓子もこれらに似た曲調である。[平安朝の雅楽 古楽譜による唐楽曲の楽理的研究]によるとこれら3曲は雅楽の平調の曲と同様の装飾音の傾向がある。
結局のところ安弓子がどういった内容のものだったかは全くわからない。信西古楽図の安弓子は名称を付け間違えたのかもしれない。
音が似た呪術がある。
インドで密教が成立する以前、アングリマーラ経を唱えることで安産を願うなど、仏陀によって説かれた経典を唱えることによって祝福するという習慣が存在した。
難波宮へ遷宮する際に安宅地鎮のため真言密教の尼僧によって飛鳥時代に伝来した安宅神呪経が読み上げられた。
まとめ
伎楽の面が現存最古の鼻高面で、治道はインドの仏教僧と考えられる。婆羅門の面も高い鼻を持つので、それはアーリア人の特徴と思われる。
平安時代の御霊会では雅楽の武舞いの散手と貴徳が行道を先導した。これらは武に秀でた国王をモデルにしている。
北勢地区の獅子舞の口取は鼻高面を着けて舞う。その源流は伎楽の鼻高でインド人の仏教僧であったが、平安時代には武舞の散手と貴徳に鼻高面を付けたものに置き換わった。それらが直接のモデルになり、鶏甲を被って鼻高面をつけた口取になったのではないか。
口取の赤い衣装は雅楽の散手にちなんだものと考えられる。地区によっては緑や青を使っているところもある。江戸時代には士農工商の階級制度があった。ある界曹の人々は藍染しか着ることが認められなかった。それと関係があるのか?

獅子の歴史


獅子舞の歴史

獅子舞は古くは師子と書かれた。師子に関する記述等を歴史書、歴史的遺物から年代順に抜き出しつつ、関連要素を述べる。師子は社寺の法会に用いられた伎楽(娯楽)という演劇に含まれていた。それ故伎楽についての記述もここに挙げている。
  • 301-400 古代中国北魏の都洛陽では各寺院で釈迦の降誕を祝う降誕会の行列の先祓いとして獅子舞が舞われていた。魔(仏道を妨害する悪魔)除けの獅子であった。散楽1も行われていた。[洛陽伽藍記]
    日本各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から4世紀までに流入していたと考えられる。6世紀に仏教が伝来するのでそれ以前には道教系呪術があったことになる。宗教としての道教が流布されていたのではなく、その思想や呪術の一部が取り入れられていた。[Wikipedia: 道教]
  • 386-534 北魏の頃には寺廟の百戯2として獅子舞が多く演じられた。
  • 420-589 中国の南北朝の頃には仏教が伝わり、邪霊を祓う雑技の一つとして獅子舞が広まっていた。獅子舞は仏教と共に浸透していったと考えられる。
  • 531-572 呉の国王の血をひく和薬使主が、仏典や仏像とともに伎楽調度一具を朝廷に献上した。[Wikipeia: 伎楽]この時の用具に治道の面、獅子頭が含まれてたかどうかは不明。
  • 581- 中国の西域でも降誕会の行道が行われていた。[南海寄帰伝]獅子舞は西域で発祥し、仏教と共に盛んになった。隋唐では宮廷の舞楽に取り入れられた。隋は仏教を奨励し、仏教による平和統一を図った。降誕会の行道の獅子舞が独立して舞楽となり太平楽(五方獅子舞、五穀豊穣、天下太平)として唐に引き継がれた。
  • 612 百済の未摩之が中国の呉3で学んだ伎楽を携え帰化し、奈良(大和桜井)で少年を集めて教えた。教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあり、寺社(法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺など)へ伝習され、供養のための演目となった。[Wikipedia: 伎楽]
  • 686 新羅からの使者をもてなすために、伎楽調度一式が筑紫(九州)へ運ばれた。
  • 712 古事記編纂。天孫の一段を先導する役として鼻高の猿田彦が描かれる。伎楽の行道を先導した治道になぞらえたか。伎楽伝来から調度100年後に当たる。
  • 752 東大寺大仏開眼供養で伎楽が表演される。師子を含んでいたと考えられる。この時使用された横笛等が正倉院に残って居る。班竹の笛は楠町本郷の獅子笛、菊田雅楽器製箕田流獅子笛に近い。それらは数度調査されていが、その周波数からは音程はとても悪く、調律されているとは到底考えられない。[正倉院の楽器][正倉院御物横笛の音律に関する研究]
  • 1083 江家次第 法勝寺塔供養会
    1
    開眼作法2寢儀諸
    着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)[雅楽と法会]
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。

  • 1118 最勝寺供養にて小部正清が甲を着けて太鼓の前に立って笛を吹いた。[教訓抄]これより師子が演奏された記録が急に増える。音楽書に記録があるのは、官祭として舞われたものに限られ、寺社独自の祭礼で演じられたものは含まない。
  • 1136 鳥羽勝光明院供養にて小部正延が吹いた。右方の楽屋より出て太鼓の元に立って吹いた。[教訓抄]
  • 1168-1180 当神社には舞い神楽と唱う儀式あり、高倉天皇(80)の御代(仁安3-治承4(1168-1180))より始まり[久久志弥神社の栞]
  • 1195 東大寺供養にて小部清景が有康に習って吹いた。甲を着けて太鼓の面に立って吹いた。入場するときに甲を脱いで腰につけて入った。太鼓は筑前守有康が打った。ある話では尾張包助が太鼓を打った。有康は拍子を教えた。[教訓抄]
  • 1200~1300と推測 伊勢国(現在の三重県北中勢辺り)山田郷(伊勢神宮外宮の鳥居前町)で毎年正月中旬に箕を2つ合わせて獅子頭を作り、村野飢饉疫病の魔祓いのため、上の家から下の家まで、笛、鼓を伴い、獅子頭に疫神を取り付かせた。その後燈火で焼き払った。「[筠庭雑考]
  • 1214 七条歓喜寿院供養にて小部正氏が住吉神社の神主津守長盛に習って吹いた。権神守津守経国が束帯で太鼓を打った。この左方は先人のものと異なった。法用が終わってから舞った。先ず左楽行事(次第を司る者)が召され、師子を舞うため、4を引き刷りながら楽屋より出て庭中へ進み、半ば辺りに立って甲を脱いで腰に着け、烏帽子を引き立てて古楽乱声を吹いた。その時に左の師子が起き上がって、舞台に上り、四角を拝して、正面に立って2度拝し、この後乱声が吹き止んだ。古くはここで詠があった。次に序、破、急の形式で3回吹いた。師子が舞い終わった後、甲を着けて楽屋へ帰った。その都度異なる。不審がない分けではない。公の行事ではない時の師子の例。鴨神社の一切経会、清延が楽屋の中で吹いた。経頭馬一頭が引いた。天王寺・住吉社に師子がある。それはとても異なるものである。乱声も別物、曲を吹く様子も太鼓を打つ様子も替わっていた。なかなか本朝の師子より興味深い。[教訓抄]
  • 1233 教訓抄成立。師子、妓楽について書かれている。2人立ちの師子のような舞いは獅子以外に数種類あった。
  • 1280 伊奈冨神社に「弘安3(1280)庚辰正月稲生三大神」の墨書銘入った獅子頭が現存。日本最古と考えられる。
  • 1321 宇佐宮仮殿の遷宮を行なうので、弥勒寺堂内壇上で獅子菩薩の舞楽を行おうとしたが、新造の堂内で流血事件があったので、まず清祓が終わらなければ仏神事を行うことができない。[弥勒寺本家石清水八幡宮の牌]
  • 1330 舞楽の伽陵頻と胡跳が演じられた後、師子の乱声が鳴り、狛犬は地にふし、師子が舞台に登る。四方に礼し本尊と證誠を拝む。太鼓が三拍子になったら、つなとりが綱を獅子に打ちかけ、蝿払いと共に舞台の左右のすみに控える。”師子の舞いにはつなとりと蝿払いも居た。舞いの間は師子には綱がついておらず、舞いが終わる時につなとりが綱をかけた様子。社寺に現在も多数の妓楽面が残されており、その鼻高面の裏書に”ツナヒキ”と書かれたものもある。[日本の美術185 行道面と獅子頭]おそらく口取、つなとり、ツナヒキは同じ者を意味し、鼻高面をつけていたと考えられる。笛は戸部政躬。[元徳二年三月日吉社並叡山行幸記呂一] 師子の他に狛犬も演じられたらしい。
  • 1334-1338 虚空蔵寺山本村狛犬2頭、法鏡寺2頭等、覚満建立の薬王寺来縄郷狛犬2[建武中放生会記]
  • 1515 木製で彩色を施した獅子頭が作られた。牛頭社、今の社、須原大社、藤ノ社、茜社、箕曲社(宇治山田市箕曲神社)、落獅子社(世木社)に付属の獅子頭であり、各社に祭られる神の名は知られていない。村人は産土神(産沙紙)と崇めた。木製の獅子頭は作られて数百年を経て御神体と考えられるようになり、神事の最後に村の外れの橋の上に持っていき、太刀で切り払い清められた。頭以外は大かがり火、積木の炎で焼き祓われ、村人はその周りで円陣を組み、踊り狂った。[筠庭雑考]宮廷や寺社の獅子舞では火を使った記録はない。火を使う所から密教系の呪術ではないか。
    現在の伊勢市御園町高向の御頭神事(国指定重要無形民俗文化財)が火祭りを伴う点で、山田郷の獅子舞に似ている。
  • 1616 大かくら獅子舞と申すは伊勢大神よりはじまり、いせの国いのうというむらに天よりふりし獅子かしらありて毎年一国のうちを廻り給うなり。それを学びて国々にあまねく獅子つかひはじまりける。[このころ草] ”いのう”神社に朝廷から獅子頭が与えられたという意味か。
  • 1690 音楽書楽家録成立。師子、妓楽について書かれている。
  • 1763 大宮(本社)、西宮、三大神、菩薩堂(現在の鈴鹿)の獅子4頭が3年に1回丑、辰、未、戌の年に各々の氏子地区に出かけ数ヶ月かけて回壇。[三国地誌]
  • 1886 楠の獅子頭が作られた。[楠町史]

まとめ

獅子舞は1700年程前に中国の西域、現在の新疆ウイグル自治区以西で始まった。仏寺で行われるた邪霊を祓う雑技の1つであった。行道の先祓いとして用いられていた。
仏教と共に広まり、中国の隋唐代には国家の饗宴演目:五方獅子舞(太平楽)として取り上げられた。
日本へは7世紀に伎楽の一部として伝来し、元々は伎楽と一体で演じられていた。寺社、宮廷の祭礼の形式が整えられるに従って、師子だけが別個に用いられた。
伎楽における治道が口取(綱取り)だったかどうかははっきりしない。口取が鼻高面を被っていたかどうかも分からない。口取は獅子に綱をかけ、他に蝿払い役が2人いた。音楽は伎楽とともに戸部氏の龍笛の秘曲として伝承されていたが、途切れ、大神氏によって引き継がれた。
1多種多様な芸(雑技、大道芸、ジャグリング、雑技)を含む散楽。散楽が後に文楽、手品、大道芸、猿楽、能に発展した。
2散楽に同じ。
3中国の呉ではなく、古代朝鮮の久禮、現在の韓国洛東江中下流に位置したという説がある。3c-6cにかけて伽羅という小国家群があり、倭国に従属していた。[韓国仮面劇と日本伎楽の比較研究]
4奈良時代以降の束帯および衣冠着用のときの上着。

地方の獅子舞


前書き

本稿は三重県の北勢地区、四日市市楠町本郷にて明治より継承されていた箕田流獅子舞の楽曲についてのレポートである。北勢地区には鈴鹿市に拠点を置く4流派の獅子舞が広く分布しており、箕田流獅子舞もその1つである。楠町本郷の氏子の方々から本研究に際して獅子舞全曲の動画資料を提供して頂いた。ここに感謝を述べる。

三重県北勢地域の獅子舞ー特に楠町本郷の獅子舞

三重県北勢地域の獅子舞は伊奈冨神社を中心に行われていた太神楽としての獅子舞が元と考えられる。太神楽とは伊勢神宮への参詣の代わりに各家庭を周り、お祓い、お札の交換を行なう神楽である。江戸時代には桑名、四日市に拠点を置く伊勢太神楽が日本全国を回壇した。伊勢太神楽は四山の獅子の1つである山本流から伝習し、改良を加え、曲芸を追加したものである。その結果この地域に受け継がれる獅子舞とは全く異なったものになっている。一方この地域の獅子舞は江戸時代末期から明治初期にかけて鈴鹿、四日市近辺の20数社の神社へ伝習されて広がった。昭和の初年までは舞い年になると旧正月7日〜33日まで津〜四日市までを回壇。その後伊奈冨の春の大祭に集合し舞いを奉納していた。
「民族芸術」三ノ一に藤堂家が寄稿した[伊勢の獅子舞]にもう一寸詳しい記述がある。古来第一の格式に位置づけられた伊奈冨神社の獅子舞神事は4年毎の416日に「舞い込み」、17日に「練り込み」の行事を行なうものであった。獅子舞には必ず神職が付き添い、舞曲中に祈祷の神符を授与した。獅子頭を明神と崇め、男子が紋服を新調すると、この明神に銜えてもらって縁起を祝う習わしもある。獅子を冠る者をししとりと言い、他に口取といって、鳥甲、猿田彦面にささらをとった童子がつく。囃子は普通笛と太鼓で、門舞と本舞とがあり、門舞は門前で一寸舞うもの、本舞いはあらかじめ場所を設けて、四方に竹を立て、注連を巡らし、供え物をして舞うものであった。観音堂の本舞いには、扇の舞い、花の舞い、起こし舞い等、稲生には、乱調、中起、扇舞、子供の芸、神扇、からすとり、打上等があった。
楠本郷は明治に下箕田の久久志弥神社より伝習した地域の1つである。その獅子頭は明治19(1886)に作られた記録がある。3月の第3日曜と10月の体育の日に行われていた。青年団1を中心に10人以上で構成。湯の花神事2は獅子舞の曲中で笛太鼓を伴って行われていた。舞う場所に蓆を12枚程敷いて舞台を作った。口取りは子供たちがたちつけ姿、(袴の一種、膝から下を脚絆(すねにきっちり巻いて歩き易くする布で旅行等に用いた)にして舞った。だんちょう(祈祷)は保存会の者が神主代わりとなり、行なった。楠の獅子舞は獅子の動きに静と動、笛に強弱がり、旋律は優雅で舞いの間に弱く奏でる影の笛の音色が美しい。北か西を正面にして演じられた。太鼓は曲げ物胴の締め太鼓。この太鼓は雅楽で使われるかっこが大型化したものに見える。笛2人、太鼓1人、口取1人、獅子2人を交代で薬45分途切れることなく演じた。現在、本拠の下箕田も含めて楠近隣の獅子舞には45分間決めれなく続く曲は残っていない。楠の獅子舞ではほぼ完全に残っており、それに加えて花の舞いがあった。また湯の花神事に演奏される楽曲が残って居る。その曲は笛とかっこ、銅拍子で演奏される。下箕田にはかつて獅子舞の他に神前に奉納する御神楽があったが現在はない。箕田流の獅子舞を継承する石薬師南町には同じ曲(おかぐらと呼称)が残っている。楠よりも優雅な装飾音が使われる。同北町の山本流では使われない曲である。
実際には神事としての獅子舞を担う家系があり、村の者なら誰でも参加できるわけではなかった。地域によっては郷土の者でも自由に参加できない因習が現在も維持されている。一方で自分が住む地域の獅子舞なら誰でも参加できる獅子舞に変化しここ20年近く盛況をきたしている地区もある。



まとめ

北勢地区の獅子舞の演技内容ほぼ共通していると考えられる。先ず四方を祓い、次に眠っている獅子をわざわざ起こし、扇を使ってちょっかいをだす。戯れた末に噛まれてしまう。最初の四方祓いが呪術的内容を持っているが、他は自業自得の内容の音楽劇であり、これといって深い教訓はない。この一連の舞い全体が神事のためのものとはとても思えない。
参考文献:
  • [長倉神社獅子舞演技説明]
  • [久久志弥神社の栞]
  • [伊奈冨神社栞]
  • [三重県下の特殊神事]
  • [四日市史]
  • [筠庭雑考]
  • [三国地誌]
  • [このころ草]
  • [日本の美術185 行道面と獅子頭]
  • [伊勢太神楽]
  • [楠町史]
  • [神事としての獅子舞]
  • [伊勢の獅子舞]
1村の成年男子によって組織されていたグループ。若連中、宮守、若衆組、若者組とも。村部落単位に独立し、祭礼や諸種の村野行事で重要な役割を担った。鎌倉時代以前からあると考えられる。15歳前後で加入し妻帯と同時に退く。若衆入りすると社会的に一人前と扱われる。
2初めの頃は天王祭に行われていた。大釜に天明4と書かれている

伊勢大神楽

慶長年間(1596~1615)までに江州(滋賀県)佐々木ノ一党から桑名郡上野村に移り、その西の太夫村を開拓した。江戸時代以前に太夫村に住み着いていた人々は近江派の陰陽師、阿倉川には山伏と考えられる。そこへ織田信長に滅ぼされた近江源氏の六角佐々木氏の残党が逃れてきて住み着いた。
山本流の獅子舞を習い、稲生、山本、伊賀国敢国神社の獅子舞と曲芸を組み合わせ、日本全国を回壇した。昭和56(1981)重要無形民族文化財平成12(2000)ユネスコのアジア太平洋無形文化遺産のデーターベースに登録された。かつては桑名市太夫町と四日市史東阿倉川の2箇所が本拠地であり、江戸時代(文化年代(1804~1818))を頂点に活躍。明治22~23伊勢大神楽禁止令が新政府より出され、東日本を回壇していた阿倉川は滅んだ。回壇が布教活動にあたるため、自分たちで神道系の宗教団体を立ち上げて合法的に回壇を行っている。古代中国では獅子舞が元々曲芸であったこと、大道芸、雑技の一種だったことからその元々の姿に近いと考えられる。[伊勢太神楽]