”おおいどの”と読む。
この歌詞は冒頭は大炊殿なのだが、その後は大炊き殿に関係ないのではないか?
豊かしく
腕こそ強く
なりにけり
千歳重ねん
朝な夕なに
朝晩の食事の支度で腕力がついたということかな?
Memo about inline skates, bicycle, programing, study of japanese ancient music, ancient music of chinese tang dynasty
”おおいどの”と読む。
この歌詞は冒頭は大炊殿なのだが、その後は大炊き殿に関係ないのではないか?
豊かしく
腕こそ強く
なりにけり
千歳重ねん
朝な夕なに
朝晩の食事の支度で腕力がついたということかな?
”ひとふたうた” ?
神道の祝詞として用いられているらしい。大和舞歌譜に載っていたので読んだ。
この歌の歌詞は”1〜10 百千万”とこれだけのことなのだが、日本書紀に似た歌があるとかで祝詞として使っているらしい。歌詞は本当にこれだけしかないので、単に数を覚えるための歌に過ぎない。
短に数を覚えるための歌にしては、歌の方が凝っている。この譜には和琴の譜が一部書き込まれている。おそらくこれは伴奏パターンで、このパターンを繰り替えして演奏し、それにのせて旋律を歌うのだろう。
譜の読み方は他の大和歌と同じだった。
この頃読んでいる大和舞歌譜は日本書紀、続日本書紀、古語拾遺などにある歌が用いられている。神道の呪術を歴史書、歌集にある和歌を引用して作っていたことがわかる。
大和舞歌譜というのがあったので、読んでいる。ほとんどが和歌に旋律をつけたもの。なので57調。
この奇数の字数が設定されているところがポイントで、2/4拍子で歌った時に1拍余る。例えば5字の節なら2/4拍子3小節分で、1文字を1拍に割り当てて、1拍休符。
現代でも和歌や俳句を読む時に、それぞれの節で間を置く。これによって詩の単語が聞き取り易くなり、理解する時間も得られる。
この方針で考えると和琴の伴奏パターンは2/4拍子3小節のものと4小節のものがあれば、曲全体を演奏できる。4小節の前1小節を省いて5字の節に割り当てるのも可。
虚見津。タイトルの下に上拍子と書かれている。これは速いテンポの意味。延の2倍速いこともある。
御饌
これらの曲の歌詞は続日本紀や日本書紀、古語拾遺にあったりする。先の和舞、田舞を参考にして1文字1拍で読んでいる。
現代に伝承されているのは室町、江戸時代に復元されたもの。
譜面を読むと●が歌詞の一文字を表しているらしい。
歌詞は国文学資料館の明治撰定譜にある。明治撰定譜 田舞
75調が当てはまるようになっている。旋律の方に余裕がある。
譜は笛の譜字で音程が書かれている。篳篥は古くから伴奏していただろうか?
倭琴は神楽歌の例では旋律を全く弾いていないので、復元するのは困難。
75調というのは偶数拍子(2/4)で歌った時、区切りでブレスを取るためか?神楽では奇数拍子が多い。さらに変拍子だったりすることもある。大陸の雅楽等は一定の拍子である。
日本的なのは奇数拍子や変拍子で、大陸的なのは偶数拍子なのではないか。
田舞が2種類あったので、テンポの緩いものを破として、テンポの速いものを急としたのか?
この譜は文字を芯にして音を当てはめていく読み方だった。歌譜の場合、百や小拍子が無い時はこの様に読むものだろうか?ならば朗詠も違った曲になるはず。
今のところ朗詠は会心の出来には至っていない。
朝方とか昼間でも天気が悪くて寒い時とか通信速度が顕著に落ちたので、当初は分からなかったが、この現象が生じたのが2.4GHzキーボード導入後なので、隣同士に差してたUSB adapterを離してみたら、問題解消した。
”いまよう”
平安中期から鎌倉時代に流行した歌謡。
歌詞は残っているし、楽譜も一応ある。それが本当に平安期のものかわからないが。
雅楽や催馬楽がばっちり譜で残っているので、今様が採譜できなかったということなかったと思う。
音程が書かれている譜を読んでみた。朗詠と異なるところはスケールの第5音以外でも装飾音が付く所。
この譜は神楽歌でも用いられている書式のもの。歌詞の左に線が書かれていてそこに音程が書き込まれている。百と小拍子が書かれていないと各音程をどれくらいの長さで歌うのかさっぱりわからない。
この音価がはっきりしない書き方は音取や調子の書き方。
歌詞が”や”から始まる。これは神楽歌にある早歌というものとそっくり。譜を比べてみたが、今様の譜に書かれている線とは全く一致しなかった。
早歌は延と早の2種類の旋律で構成される。
"一声”という曲がちょっとおもしろかった。
”あかつき”というところが早口。これは他の曲には見られない。時々漢字の読みの初めの仮名が抜け落ちているところがある。この場合、譜に書かれている次の音程を当てはめて仮名を当てているのだが、これで正解かどうかはよくわからない。
この曲は数小節置きに同音反復が行われている。これは一定の拍子に基づいていない。
今回は拍子は一定の拍子にした。元々はどのように演奏していたのか?早々に現代の様なハッタリ演奏法が成立したのか?楽家録には朗詠について書かれていない。
Wikipediaによると朗詠に類似の歌い方が中国にあるらしい。吟誦(ぎんしょう)。
オペラの台詞の箇所みたいな感じか。
他の例。
こちらは詩を読んでるのに近い。
日本の伝統文化が中華の文化の影響を受けているのは当然と思う。しかし吟誦と朗詠は差があり過ぎるように聞こえる。
譜にある朗詠は全て読んだのだが、全く納得いかない。覚えにくい。レパートリーが膨大にあったようなので、覚えにくいはずはないと思う。一定の拍子は無かったのだろうが、覚えやすいフレーズはあったように思う。多家秘書の中の秘譜に朗詠の譜があったので読んでみた。
朗詠について書かれた論文が幾つかある。外国人によって書かれたものがあるのが興味深い。
これまでの例に習って現在の演奏習慣をとっぱらって譜を読んでいる。Dr. Pickenの唐楽の研究にあるように日本の現在の雅楽は古譜の4-12倍遅いテンポで演奏されており、また演奏技術を簡易にするために高度な奏法は排除しているので、原曲の曲想を味わうことができない有様だから。
朗詠の音程はPentatonic scaleのみで”宮商角微羽”(12356)で書かれているのだが、朗詠案譜によると(12456)らしい。現代の歌唱法では譜に波線で表されているところに独特の符点のリズムが用いられる。譜には波線なのでその独特のリズムが書かれているかどうか全くわからない。基本的に音程の書かれた譜字を1拍とした。
まずは嘉辰令月。この歌は3回目の繰り返しの時のみ、合唱になる。音源動画では女性の声を加えている。
ここまで数曲、どれも同じに聞こえて退屈してきた。飽きない遊び方、演奏の仕方があったはず。
江戸時代には百人一首を引用して、歌を作る遊びとか百人一首をおもしろく解釈する講釈本とか流行っていた。
東遊歌の求女子(もとめご)には各神社用の歌詞が多数用意されていて、もともと諸神社用に旋律を変更して歌う歌だったことが分かる。
ではその歌詞を変更して遊べないか?というのが今回の試み。
求女子という曲には岩清水八幡宮用と思われる歌詞が元々ついている。その初めの歌詞は”君が代に”。同じ歌詞で始まる有名な歌に日本国国歌の”君が世”がある。この詩を当てはめるために、求女子の前半部分を繰り返した。
”君”の意味は幾つかある。主君だったり、妻だったり。江戸時代には結婚式によく歌われたらしい。また古代には大君は王でその妻は君だったと考えられる。魏志倭人伝だったか。ここでは嫁としている。
神楽歌の古譜を読むと現代の演奏とは全く違っていることがわかる。古譜には技巧的な民謡調の歌が書かれている。現代の演奏は先人から受け継いでいると言ってはいるが、古譜とは全然違う演奏がなされている。これは明治時代に神道によって国民の心をまとめようとした明治政府の国家的マインドコントロールの影響もあるだろう。古譜は江戸時代の写で、すでに遅いテンポで演奏するためと思われる各種奏法が盛り込まれて書かれている。それらを排除して元々の曲を復元すると民謡調になるわけだ。よく技巧的な民謡を譜に書き取ったものだ。それを破壊せずに下敷きにしてゆっくりなテンポの曲にアレンジするというのは現代の雅楽曲にも見られる。この手法は室町時代に盛んに行われたらしい。その頃に成立した笛譜がおそろしく込み入って書かれているので、テンポを落とさなくては演奏できない。こういうアレンジになったのは、朝廷に統治能力がなくなり、戦乱の世になって地下楽家を雇えなくなり、地下楽家は自分たちの才覚で稼がなくてはいけなくなった。そこで彼らは雅楽を権威づけるため音楽書を書いた。さらに雅楽の演奏が荘厳に聞こえるようにテンポを落として演奏に装飾を盛り込んで、ハッタリを効かせた。その影響が今も残っていて雅楽は原曲の曲想がわからない位ゆっくり演奏されている。政府からは荘厳に聞こえるようテンポを落とすよう要請があったらしい。
元々宗教など科学や経済が充分に発達していなかった時代に民をまとめ、集団としての力を発揮するためのハッタリ手法に過ぎない。神道は中華帝国の道教の日本版に過ぎず、男系継承も五斗米道など古代道教から導入されたものだろう。建物を建てる時に土を盛ってお祓いするのは中華の土公だし、邪を払うという行事などは方相氏や鬼神からくるものだろう。祭礼で宮司が神を呼び出す時に”おおおおー”と言うのも道教にある。これは神楽歌にも表れていた、阿知女の作法では、芸能の神である天之受女を降ろした巫女に呼びかける声として用いられている。
平安時代末期から江戸時代の終わりまで天皇は政治の中心である江戸から離れた京都に取り残されていた。統治能力は無くしているくせに権威だけでも保ちたいのでウザかったから遠ざけられたのだろう。明治からは江戸幕府を打倒するために担ぎ上げられた天皇であるが、実際のところは神輿であって統治者として手腕を振るえるような実力は無かったのではなかろうか?今の天皇はまさにそれで権威の元で育まれ、厳しく躾けられてこなかったので君主っぽい振りができるだけで、中身は腑抜けで根性なしで旧皇族の子供で嫌いな奴は数十年にも渡っていじめ抜くような頭のおかしい奴に育ってしまっている。それを右派のバカどもは担ぎ続けようとするのだから、日本の知的層もクズだとしか思えない状態である。
皇族は国文学の研究の分野にも影響力を及ぼし、憲法で保証されている学問の自由を蔑ろにして、自由な研究を阻んでいる。僕の雅楽の古譜を読む研究にも圧力がかかっており、三重県四日市市楠町本郷の楠村神社に伝承されていて、伝承が途絶えた笛太鼓による神楽曲を復活させた功績があるにも関わらず、その神社での演奏ができない状態に追い込まれている。自治会長は圧力に負けて僕に演奏させないのである。天皇もバカだが、その理不尽に従う国民もバカに過ぎない。こんなクズどもの国の力になろうという賢人など国外へ出て行ってしまっているだろう。前例通りに即位した天皇だが、愚か者を天皇にしたために今後も独立できない日本国のまま時間が経過していくのである。
ほんと今の日本人は愚か者。
代々神楽を受け継いできた楽家に多家がある。その家に受け継がれている多家秘書が誰でも自由にネットで読める。その中に神楽歌の譜がある。
この譜は江戸時代に書かれている。先の僕の読譜による神楽歌譜よりも民謡的傾向が少ないが、影響はたっぷりある。
神道の祭礼で用いられる神楽歌の古譜を読んで音源を作った。
読んだ古譜は神楽歌和琴合譜、江戸時代の写。この時代には既に遅いテンポに後代に成立した奏法を和琴に盛り込んで演奏していたと考えられる。今回の読譜ではそれらを排除して、元々の神楽歌を復元しようと努めた。
まずは神迎え
天之受女を巫女に降ろして踊らせると思われる。歌い続けるために歌い手は2つのグループに分かれて交互に歌う。そのための本方と末方か。韓神というのは朝鮮半島にあった国々の神のことだが、スサノオの子孫を指すらしい。朝鮮半島からの有力な氏族達を移民として多数受け入れたことから、彼らの神も祀って反乱を起こさせず、統治に協力させるためのアイデアか。
次は神遊び
どの歌も民謡調なのが興味深い。現代の神楽では民謡調には聞こえない。最後の早歌は短い歌の応酬でおもしろい。
テンポはゆっくりな部分がM.M.=70-75、速い部分がM.M.=140-150位で倍異なると考えられる。その方が演奏がスムーズにできる。
歌はかなり高度に聞こえる。現在の雅楽の歌い手では到底歌えないのではないだろうか。民謡の達人なら歌えそう。雅楽の楽家は自分たちの技量では到底演奏できない古い曲をテンポをさげて、後々生み出した適当な技術で装飾し、荘厳さと芸術性の高さを装って、自分たちの楽家としての命脈を保ち続けているというところではないか。クズっだね、はっきり言って。そんな奴等に国の伝統音楽やらせてるのはおかしいと思う。現代の奏者でも凄腕になるまで腕磨いて本来の演奏して欲しい。
”あずまあそびうた”
8世紀頃から演奏されていたらしい。
戦国時代に宮中の雅楽が演奏されなくなって断絶していた。江戸時代に復元した。
多家秘書に含まれている多家秘譜に掲載されている。
古代の関東地方の民謡を集めて組曲に仕立て上げたもの。歌はとんでもなく技巧的でモーツァルトのアリアを聞いているかの様。
医療が発達しておらず、疫病でどんどん人が死んでいったことも多かった時代にこんな明るい音楽があって、しかも公式行事に用いられていたとは。この歌詞で!!(驚)現代の厳粛な神道とは全く違う。
Youtubeには東遊歌の動画があるが、古譜とは全然違う。よくもそこまで変えて平気で演奏しているのはやはり神道の宗教家だからだろう。宗教なんてハッタリです。
古代はなんと生き生きしていたことか。それに比べて現代の雅楽のなんとつまらないことか。現代の雅楽は一掃して古代に返った方が、どれだけ人の心に潤いをもたらすことか。
日本はルネサンスが必要と思う。
現代の雅楽を支持している奴らはどういうつもりなのだろうか?雅楽家として飯が食えるように格調高く見せたいのだろうか?
ハッタリも大概にして欲しい。
神歌抄
国会図書館の検索システムで検索するとColBase 国立文化財機構所蔵品総合検索システムへのリンクが出てくる。そのリンク先で一括ダウンロードできる。
神歌抄/毛詩並毛詩正義大雅残巻(紙背)国立文化財機構所蔵品総合検索システム
神楽和琴秘譜
国会図書館に本があるようだが
によると催馬楽の桜人という曲が名古屋市の指定無形文化財に登録されている。
名古屋市中村図書館に”桜人考”という本が所蔵されている。
Jstageで検索すると出てくる論文にまとめられている。
承徳本古謡集は国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。
風俗譜(三五要録巻之十三)は東大史料編纂所のDBにある。
琵琶諸調子譜も東大史料編纂所のDBにある。
龍笛譜「安倍家蔵」は上野学園大学日本音楽史研究所にあるそうだが、ここは遠隔コピーしてくれない。
多家秘譜は新日本古典籍総合データベースで見ることができる。
”しんねん”
旋律は安名尊、梅枝と同じ。
現在も演奏されている。
博雅会による安名尊の演奏
この曲は呂歌、G Mixolydianなのでやや長調よりの音階なのだが、この演奏は暗い。。。。さらに遅い。呪いでもかけるつもり!?という気味の悪さ。当の博雅会は古譜と異なる自分たちの演奏を伝承されたものとか日本人の好みに合わせて変わっていった結果とか言っているが本当にそうだろうか?こんな演奏聞いてもさっぱり今日生きてる尊さを感じないのだが。
雅楽が変質してきたのは、宴会様の曲を儀式に用いるために荘厳に聞かせようとして変に編曲してしまったのも一つの要因だろう。さらに宮廷で雇用されなくなった楽人が自分たちの才覚で食っていかなくてはいけなくなった時、音楽書を書き、自分たちの演奏を装飾で凝り固まらせて芸術的ハッタリをほどこさなくてはいけなかったことも要因だろう。大神系の笛譜はそのため非常に複雑に書かれていたりする。より原典に近いと思われる新撰笛譜では虚飾が無いシンプルな形で書かれていて、笛は独奏ではなく、箏や琵琶の旋律に寄り添うように演奏されたと思われる。
古譜を音源にした結果が次の動画。曲は新年。器楽はほとんど安名尊と同じ。
同じく梅枝。”やましろ”
この曲は明治選定譜に掲載されている。
明治選定譜というのは明治時代に選定、編曲された雅楽譜を言う。箏から左手の奏法が排された。
国文学研究資料館で明治選定譜が見れる。ネット越しでも可。
文化デジタルライブラリーで雅楽の歴史について書かれている。これによると江戸時代からの雅楽の演奏家の紅葉山楽人に加えてあらたに関西の三方楽所の楽人を加えたらしい。そして雅楽曲の解釈などを統一したできたものが明治選定譜だと。慎重に協議された結果が現在の雅楽とは片腹痛い。そんな程度が当時の日本の雅楽の演奏家だったということか。
Youtubeでも山城が演奏されている動画がある。
Youtubeのチャンネルで史書に基づく歴史を解説しているチャンネル。史書が”時の権力者によって都合よく書かれている”ということをよく考慮すべきと思う。右翼過ぎる。
神代なんてものはない。人間の歴史しかありえない。古代は神官を最高位とする位科学的に盲目だった。現代でもそうだが、天皇家はバカばっかりじゃないのか?そんな奴らを最高位にするから、日本少林寺拳法を手下にして王族の子供達にリンチをしかけて服従させるという馬鹿げた行為を少なくとも昭和からやっていた。今の天皇もその首謀者だし、平成天皇はその前任者。今の天皇はさらに愚か者で自分以外の王族が成果を上げたり、上げそうだったりすると邪魔をしたり、成果を抹消したり、自分が何か手助けして自分の成果に加えようとする。自分だけでは対して成果の上げられない能無しであり、且つ他者を羨み、妬み、妨害する愚か者だったりする。それを巧みに嘘をついてごまかしている。こんな子供に育てたのは先代の天皇家で、母の美智子はそれまでの養育体制をやめて自分達で養育するとして精神の堕落した子供を育てあげ、今の天皇家の低堕落を計画的に成し遂げたのではないのか。彼女のバックはキリスト教なので、キリスト教による天皇家に対するテロ行為と思う。
まんまとひっかかった天皇家や宮内庁の愚かさには閉口。そんなやつらに国家最高権威させるべきじゃないと思う。
日本の史書は天武天皇の命により
712に古事記成立。
720に日本書紀成立。
これらより古いものもあったのだが、クーデターによって消失された。
神武東征ででてくる八咫烏は中国の漢以降の書物に出てくる三足烏(wikipedia)だと思われる。雅楽の左方楽のシンボルである三つ巴もこれから派生したものらしい。
三足烏についてはWikipediaに別にページがある。こっち。太陽に住んでいるとされている。紀元前5000年の中国揚子江下流域に最も古い考古学的遺品がある。
神武東征には中華帝国殷にまつわるシンボルが用いられて脚色されているのではないか。
記紀の脚色の例には他にも天孫降臨があげられる。これは612伝来の仏教系音楽劇の伎楽の道行(開演前に舞台のまわりを練り歩く)がモチーフとなっている。猿田彦は道行を先導するインド人仏教僧の知道(ちどう)の姿で描写されている。そして彼が天孫族を先導する。仏教僧に対して”若い女をあてがって落とす”というジョークが絵として残っているように、天之受女命に猿田彦を籠絡させている。
聖徳太子は摂政という地位でありながら仏教興隆の詔を出している。詔とは天皇しか出せないはずなのだが。その後の扱われ方からも特別な存在であることがわかる。
隋に初めて使いを送ったのは倭国王の阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ)で、紀にはこれが書かれていない。多利思北孤は仏教に熱心で自身も修行していた。隋の帝も仏教に熱心で自身も菩薩という位修行していたので、同士として手紙を送ったため”日出處天子致書日沒處天子無恙云云”という対等の立ち位置であるという書き出しになったと思われる。
中国の少林寺には白い肌の僧と黒い肌の僧が武術の稽古を楽しんでいる姿を描写した絵があるが、白い肌はインドのカーストの最高位バラモンを意味し、黒い肌は最下層のダリットを意味していると思われる。仏教では肌の色は関係なく人は皆対等で差別しない。その科学的態度を表しているのではないか。
聖徳太子には十人が一斉に話す内容をすべて聞き取ったという逸話がある。これは作り話に思われる。多利思北孤には妻子があり、子を利歌彌多弗利と言った。これは倭漢通を意味するのではないか。つまり王の子供は日本語と中国語を使えたことを意味しているのでは。言語に対する能力が高かったので後世に話が盛られて十人云々ということになったのかもしれない。
この利歌彌多弗利が聖徳太子ではないのか。隋は運河を作って、海を経由する海運業を不要にした。これによって海運業を担っていた倭国は経済力が衰えた。倭国は国が立ち行かなくなる前に後の日本と手を組み、連合政権を成そうとした。日本の方は海運業に手は出していなかったので、倭よりも優位に連合を進めたため、日本が最高位とする神官の下に倭国王をおいて、実際には倭国王が政治を運営するという体制になった。
倭の五王は日本国の最高位の神官ではなくて、実際に政治の舵をとる大君のことではないのか。それ故に天皇と倭の五王は一致しない。
隋書によると倭国は九州にあって、筑紫から東が倭国だった。筑紫の東には秦王国があった。王国という位なのでそこには王がいて独自に政治を行っていたのだろう。筑紫より西は倭国ではないので、九州全体が倭に統一されていたのではないことがわかる。
卑弥呼の邪馬台国は後の日本に対抗する九州の勢力であったと思われる。この頃は九州北部も邪馬台国の連合国家だった。首都は山門群と思われる。九州は大陸を戦乱で終われた王族などが逃げてきて各地に定住しそれぞれに王国を築いていたので、その国家間同士でも争うことがあった。狗奴國と邪馬台国は争っていた。狗奴國が後の熊襲ならば熊を神とする少数民族の国家だったと考えられる。古代の中華では熊をトーテムとしていたので、中華系か。
聖徳太子は自身の国の存亡のため、日本の神官の下位ではあるが政治の実権を握って国家の発展に寄与した。蘇我入鹿は彼の子の山背大兄が父の業績の威光で丁重に扱われているのが気に食わず、一家全員を自殺に追い込んで滅ぼしてしまった。
聖徳太子は蘇我氏に属していた。入鹿と山背大兄とは従兄弟。蘇我氏の若者が実際の日本の王は自分達の方だと考えても無理はない。実質的にそうだったのだから。
天智天皇は天皇につかず摂政として政務をこなしたのは聖徳太子の時の政治体制を引き継いでいたからではないか。
天武帝はこれに対して、大陸の方針をとった。つまり戦をして勝ったものが王となり国を収める天命を受けるというもの。それ故天武帝の日本を中華式の国にする方針で国書の編纂行われ、できたものが日本書紀と思われる。そういうわけで日本書紀には中華神話のモチーフが用いられて脚色されている。日本書紀の神話の量はかなり少ない。完全な中華式の国書(神話は完全にカット)にしてしまうと、神話を大切にしている国々の反発を招くからだろう。
天智によって蘇我氏は権力を削がれ、九州倭国の勢力は抑え込まれた。
天武はこれを武力で破って神官の位を中華思想的皇帝にした。これを次の代に伝えるために記紀を編纂させたのだろう。数代を経て天智系に戻ったが天皇位を最高とする政治体制は引き継いだ。
元が神官だから科学的思考は期待できまい。現在の皇族がちゃらんぽらんなのは当然と言えば当然か。
”いもがかど”と読む。
妹之門、青之馬、浅緑、蓆田は同じ旋律からできている。その元は夏引楽 破らしいが、器楽曲としては笛譜があるだけで、まだ復元していない。
この曲達のように同じ旋律からできていて、詩だけ異なる歌の群が催馬楽には他にもある。
まず蓆田(むしろだ)
”なんばのうみ”
大阪湾から筑紫津神社辺りまで淀川を船で上ることを歌っていると思われる。
筑紫津神社は高槻市にある。山崎は大阪市北区の山崎町か?梅田に近い。川を船で上るというのは相当大変だと思う。人力なのか風を利用したのか。
曲はかなりおもしろい。もっと大阪人のぎらぎらこてこての訛りの歌かと思いきやとても軽快。
こういうのを楽しんでいたのが平安貴族だったと知られるのはそんなに都合がわるいのか?
明治以来の公家の復権した状態を維持するために平安時代の貴族の文化を芸術的なものに見せたいのか?
”さくらびと”
催馬楽の一曲。名古屋市の指定無形文化財に登録されている。
それがこの動画。一部しか収録されていない。
同じ古譜を元にしているなら結果はもっと似るものと思う。全く異なる曲に聞こえるというのはどういうことなのか?
僕の音源は古譜に書かれているものをそのまま音にしている。器楽の部分は。歌は器楽の譜に書かれた歌詞から作っている。雅楽ではすべての旋律楽器はユニゾンで演奏するように書かれている。現在でもJazzの歌の譜はピアノの右手がその旋律を弾くように書かれている。
そこで催馬楽もユニゾンの旋律ではないかと仮定して歌の旋律を作っている。フレーズの長さは歌譜を参照している。しかしながら、歌譜と仁智、三五に書かれたフレーズの音を延ばす箇所が異なっていたりする。歌譜と仁智、三五は完全にリンクしているのだろうか?と言う疑問がある。
現代の雅楽は本当に古代に演奏されていたものを再現しているようには思えない。古譜にある音楽とは全く違うから。現代の雅楽の演奏家達はどう考えているのだろうか?宮内庁雅楽部もどう考えているのか?
現代の雅楽は明治に西洋の音楽の基本構造を取り入れて編曲されているもののように聞こえる。古譜には旋律楽器はすべてユニゾンで演奏されているのだが、現代の雅楽はそうではない。皇室ゆかりの古代からの伝統音楽を以って西洋列強に並ぶ日本の威信を示したかったのだろうか?それとも国内の一般人に開放された雅楽(江戸時代までは一般人は学ぶことはできなかった)を荘厳なものとして受け留めさせたかったのか?
どちらにしろ、マインドコントロールしようとしたのだろうし、現在もしているのだろう。日本という国家のやり口にも不誠実なところがある。それが現在の雅楽なのだ。
国会図書館のレファレンスで桜人について調査されていた。
名古屋市指定無形文化財である催馬楽「桜人」について知ることのできる資料はないか。
学者二人が既に他界しているので当事者にインタビューできない。清書した譜は市へ提供された。桜人保存会も譜を持っていて演奏団体へ貸出しているらしい。動画で演奏を聞いた限り明らかに仁智と三五にある譜とは異なるし、編曲されている節もある。
昭和30(1955)に名古屋で桜人譜の発見というのは事実なのか、捏造ではないのか?この曲は名古屋市の指定文化財となっているのだが、その認定の経緯ははっきりしていない。
2022/08/11 羽塚堅子氏の著作桜人考に書かれていた。
国文学研究資料館のDBでは桜人の譜が単独ではひっかっかてこない。名古屋市鶴舞図書館には2017年製作のDVDがある。
ブログに桜人について書かれたのがあった。そのコメントに新たな情報が書かれていた。
引用
「昭和になって名古屋市で譜面が発見された」というのは事実と違うようです。名古屋市文化財叢書によれば、信州野尻在の平出久雄氏が収蔵されていた源家古譜を元に、小林橘川市長の指示で羽塚堅子氏が復元されました。
また、歌詞の「とまち」は「十町」です。
ここまで
源家の古譜は三五要録(伏931)には載っていない。仁智は藤とも源とも書かれていないのが1曲だけ掲載されている。
”むしろだ”
竹馬の友という内容か。男性の合唱が合うかも。
この曲は現代の雅楽で演奏されている。
博雅会の演奏。博雅会だけではなく雅楽演奏団体はほとんど明治選定譜で演奏していると思う。読譜も4-12倍遅い現代雅楽の伝統的なやり方で。
この手法で原曲を素晴らしくアレンジしているのなら何も言うことはないのだが、原曲の良さを破壊してしまっているのは大問題と思う。個人の作品なら愚か者がいるな位の問題だが、国家規模でやっているのは病みが大き過ぎる。現代雅楽を支持している人達は一般国民を洗脳しようとしていると思う。古代中華帝国の宴会の音楽だったり、コミカルな仏教音楽劇だったり、大陸の国家の舞踏の曲だったり、大道芸のBGMだったり、原曲はどれも耳に馴染みやすい旋律を持っていると考えられる。
実際雅楽については平安末期に成立した古譜の写本、仁智要録と三五要録を全曲読んでみたが、そこには生き生きとした音楽が書かれていた。
それを知って現代雅楽を聞くとうんざりする。あまりにも愚か過ぎる。基本的に支配者は古代の音楽などどうでも良いのだろう。自分たちの立場や権益を守るために一般国民を洗脳する道具程度にしか考えていないのだろう。
”みのやま”
催馬楽は一度は演奏されなくなり、伝承が途絶えたが、江戸時代初めに数曲が復興された。
現在は明治になって雅楽が一般庶民も習えるようになった折に編曲されたもの(明治選定譜)を演奏している。
1970年代英国の音楽学者Dr. Pickenによって日本に現存する雅楽の古譜に古代中華帝国唐の宴会の曲が残っていることが発見された。そして現代の雅楽が演奏されるテンポは元の4倍から12倍遅いことがわかった。
このことは唐楽以外の雅楽曲、右方楽についても同様だった。催馬楽はまだ調査を始めたばかりだが、古譜にある曲は現在演奏されている曲とは全く違う。良くアレンジされているのではなくて全く異なるものになっている。むしろ西洋音楽を真似して劣化している。
逆に考えれば、無能な国民に政治の主導権を渡して支配階級が壊されないようにするための洗脳支配なのだろうか。一般大衆が無能であることには同意するが、国民主権の今、これやってたらダメでしょ。国民には真実を知らせないと正しく判断できないでしょ。科学的思考が育たないでしょ。
篳篥の譜には”備前悠紀風俗”と書かれている。雅楽の器楽曲には”悠紀の作物”という曲がある。その悠紀さんによるものだろうか?
歌譜からはフレーズの長さをしることができるが音程はわからない。歌の音程は器楽曲の譜に添え書きしてある歌詞から取って作っている。
この歌は現代の民謡につながっていくように聞こえる。
”おいねずみ”
芝祐泰氏が昭和5年に復曲したらしい。その楽譜を使った演奏がこちら。
”いしかわ”
三段で構成される催馬楽。催馬楽とは雅楽で伴奏された日本の歌。当時既にあった雅楽の曲や民謡等から作られたらしい。
石河の詩は知られている方と思う。帯に”綿が入っている”と”仲が絶える”をかけて歌にしている。この催馬楽は二人の台詞のやりとりで成立している。今回の読譜では女性と男性の声で再現してみた。
雅楽には石川という曲がある。こちらは読みは”せっせー”。
”ころもがえ”
現代の雅楽で演奏しているものと古譜に書かれているものはかなり異なる。
僕の音源は箏と琵琶は平安時代末期に成立した譜、篳篥と笛はそれより後に成立したと思われるものを読んで作っている。
現代のバージョンを幾つか。
雅音会
遅い。それに歌の変な揺れ、これは他の催馬楽でも共通して見られる。歌詞は”流行の最先端の布で作られた衣服に衣更えしましょう!”っていう内容なのに葬式ですな。
博雅会
こちらも雅楽の演奏団体としては上手い方だと思うけど、やっぱり葬式音楽になってる。明治選定譜に収録されている譜を使っているのだろうけど、明治選定譜が如何に粗悪品かわかってないらしい。粗悪な音楽を強制することに慣れてしまって(洗脳されて)ぶっ壊れた人間になってしまっているように見える。
では古譜にあるのをそのまま音にしたもの。
これは律歌で暗い調の曲なんだけど、うきうきの感じ!
雅楽は古代中華帝国 唐の宴会用の曲がたくさんあってそれらも含めて全ての曲が古譜の4-12倍遅いテンポで演奏されている。これは1970年代にイギリスのDr. Laurence Pickenが指摘している。彼の著書には40曲程が分析されている。唐楽以外の雅楽曲も調べてみたら全ての曲が極端に遅く演奏されている。
楽譜は漢字、片仮名等で書かれているが、その一文字を4拍に数えるのが現代の手法らしい。これは古い音楽書に書いてあるそうだ。Dr. Pickenは一文字を四分音符1拍に数えている。僕もこれに倣っている。四分音符1拍を細分化して4拍カウントするとアンサンブルがきちっとそろう。これは西洋のクラシックでは基本なのだが、日本の雅楽の演奏家はさっぱり気づかないらしい。気づいても何らかの圧力(政府や皇族?)によって直せないのか。宮内庁雅楽部は国家機関なのだからいい加減なことをしてもらっては困る。
”はしりい”
催馬楽の一つ。
Youtubeで独唱で歌っている人がいたので、どの位古譜に基づいているのか調べるついでに古譜にを音源化した。
まず独唱の。
古譜を読んでみるとおもしろいことに気がついた。この曲には同曲として別のバージョンも譜に記載されている。この歌はE Dorianで単調系なのだが、同曲の方は最後に長三度を歌って長調系で終わるように聞こえる。これってピカデリー三度。
同曲のバージョンも起こして置いた。
先の独唱版は芝祐靖氏の復曲。彼の仕事は明治以降の雅楽の路線を踏襲したものになっている。必ずしも古譜を再現しているわけではないので、古譜をそのままに音にしている僕の動画とは異なってしまうわけ。こういう人の仕事が世の中で真っ当に通ってしまってるって本当におかしい。
”いせのうみ”
催馬楽の律歌。催馬楽とは管弦伴奏付の歌。律歌とは平調の歌。
歌の部分をどのように音にするか問題だったが、NEUTRINOがフリーで使えるのでなんとかなった。
楽譜は箏琵琶は仁智と三五があるので信頼できるが、管は江戸時代になってから作られた復元譜かもしれない。全曲分ないし。それらは音価がはっきりしないので、弦の譜を参考にして音価を設定してく必要がある。
歌の譜は音程が書かれていない。歌は弦楽器のメロディーを参考にして作った。幸い譜には歌詞が書かれている。
この曲は日本伝統音楽研究センターも復元している。
現代版。不出来な編曲でつまらない音楽になっちゃってる。こんな程度のものを宮内庁雅楽部が演奏しているのはとても残念。自分たちで自浄的に改善できないのは話にならないと思う。それをさせない日本の権威はもっと残念。中身無い。
オンライン版を動かしてみようとしているが、エラー多発だった。サイトの説明によると空ディレクトリがアップロードされない環境があるとのこと。これが原因だった。
セットアップの2でのNEUTRINOのパスは左のペインから該当ディレクトリを探し右クリックでパスをコピーしたものを使う。
scoreの下にディレクトリを用意しておかないとサンプルファイルが作成されない。
label/full/
label/mono/
label/timing/
NEUTRINOの下にoutputディレクトリも必要。
説明しているサイトによるとオンライン版はローカルのLinuxでも稼働するとある。
Puppy Linuxなのでdevパッケージを導入した。NEUTRINOディレクトリに入って、NEUTRINO.ipynbに書かれているコマンド(オンライン版のコマンド)の3番を実行するだけ。
実行はmusicxmlファイルをscore/musicxmlに入れて、NEUTRINO/Run.shをテキストで開きファイル名を修正して実行する。
Run.sh内のNSFを実行する箇所はコメントアウトできる。
オンライン版はGPUが使えない時がある。ローカル版ではNSFは作れないがWORLDまではできる。
musicxmlファイルは歌詞を書き込む機能で歌詞を書き込まないと”エラー”がでる。
各modelの音域に合わせてmusicxmlを作らないと音が悪い場合がある。
”ちょうし”
雅楽で舞人が入退場する時に演奏される曲。対位法という技法で作曲されており、各楽器が異なる旋律を同時に演奏することで成立する。
楽家録によると管楽器は複数の奏者がこれに参加し、先の奏者に1拍遅れて演奏する退吹という手法で演奏するとある。
鞨鼓など打楽器も退り叩くらしいが。。。。
弦楽器については書いてなかった。
獅子舞の獅子。
612年に妓楽という仏教系仮面音楽劇の一部として伝来した。以後現在に至るまで舞われている。四天王寺の精霊会で舞われているものが最も古いと思われる。しかし、鎌倉時代に教訓抄によると平安時代末期の時点でオリジナルである宮中の獅子とコピーである四天王寺の獅子はすでにかなり異なっていたらしい。つまり四天王寺の獅子は宮中の獅子曲とは異なるものが受け継がれている。
妓楽の譜が3つ程現存している。単独で譜に残っている2曲とそれらを集めて動画にした。
雅楽の楽曲はそれぞれの調に属している。言い換えればその調の音階で作られている。
調子とは舞人の入退場やチューニングの代わりに演奏される対位法による曲のこと。
小学校や中学校の音楽で習う輪唱というものと同じ手法で作られている。構造はもっと複雑でルール違反が多いが。
各楽器だけで調子を演奏してみるとどれくらいの間隔を置いて輪唱すれば良いのかわかりやすい。
箏の調子から幾つかでやってみた。
双調、黄鐘調、盤識調しか現存していない笛の譜面。
この譜面は音価が明確に書かれていないし、小拍子や百の位置が仁智要録や三五要録と異なっていたりして読むのが困難である。
仁智要録や三五要録に同じ曲が収録されていれば、それを手がかりにしてこの笛譜を修正したり、音価を設定して読むことができる。音価が明瞭に示されている譜がなければ、正しく読めない。先の記事にある仁智要録の妓楽の様になってしまう。
後世の笛譜は音価を明瞭に記すようになっている。譜は進化していたらしい。
”ぎがく”
3つの楽譜を読んだ。他にもあるのかもしれないが個人的に見つけられていない。
この内の一つが関西大学のデジタルアーカイブで公開されている仁智要録巻の12にあるもの。
これは箏のための譜で、打楽器については全く書かれていない。
この譜を初めて読んだ時、菅掻きを1拍としてカウントして単音を前の菅掻きの音価に組み入れることを思いついた。というのは1文字1拍で読んでも旋律として今ひとつキャッチーでなかったからだ。
現存する雅楽の古譜のほとんどを読んで、だいたい雅楽の全貌がわかったので、再度妓楽譜を読むことに挑戦した。
まずは音取や調子、独奏曲のように一文字四分音符1拍で読んだ。それがこちら。
よくわからない旋律。つまらない。簡単過ぎる!
未だに良く分からないのは打楽器。三鼓と銅拍子を伴うのだが、リズムパターンがはっきりしない。三鼓は高麗楽に用いるのだが、そのリズムパターンを妓楽の曲につけるととてもおかしい。合わない。壱鼓のパターンは良く合う。しかし鼓と銅拍子だけで四拍子の三度拍子を打つと一泊目が空拍になる。これで良いのか?鼓は少なくとも2つのグループに分かれて、一泊目を明示するグループと三度拍子を叩くグループがあったのではないだろうか?
この妓楽譜では打楽器は倍のテンポで演奏するのかもしれない。そうでない曲ももちろんある。酔狐、大狐等。これらは序が合う。
この妓楽譜では呉公が冥土となっている。三五要録では呉公である。これらの楽譜の編集者は同一人物なのだが。
”ぎがく”
雅楽以前の仏教系無言仮面音楽劇。この中に天狗の元になる治道や獅子舞が入っていた。
伎楽の譜面は複数残っていて、それぞれに旋律が異なっていたりする。おもしろいのでそれぞれ音源にしている。
以前に2つ読んで音源にしていた。今回は内閣文庫にある伎楽龍笛譜を読んだ。伎楽には複数の曲がある。中でもこの伎楽譜の迦楼羅はとても長く、即興的な旋律が書かれていて完成度が今一つだったりする。
雅楽以前の音楽もかなり聞きやすい。旋律には工夫がなされていておもしろい。
以前に読んだ他の伎楽譜も改めて読み直して音源化した。
関西大学デジタルアーカイブにある仁智要録12巻に収録されている伎楽。伎楽は笛と鼓、銅拍子のみによって演奏されるのだが、この譜は箏のための譜で打楽器については何も書かれていない。
曲によって主音が異なるが、調律は壱越調の調弦のみで演奏されるものと考えられる。この方が調弦を変更しなくて良いので、次の演目へスムーズに入れる。この譜では冥土とされている曲がある。これは江戸時代に宮廷の雅楽復興の折に書かれた楽家録にある伎楽の説明に書かれている。この譜面には一定の拍子が記されていない。それ故音取や調子という曲の譜の読み方で読んだのだが、この手法で読むと全ての音価が基本的に一定となる。以前読んだ折にもこの問題に直面してつまらない旋律が現れてうんざりしていた。菅掻きによる音を常に一拍としてカウントして単音は菅掻きの音価に含ませることによってかなりおもしろい旋律になったが、トータルの小節数が音楽的におかしくなっていた。
宮内庁書陵部に天感楽外伎楽譜という曲集がある。これは林健三氏によって伎楽の論文が書かれている。遠隔コピーを頼むとかなり高額。すでに誰かが以来して専門業者によって写真が撮られているおり、宮内庁書陵部がその版権を持っているであろうと思われるが、未だにネットで画像が公開されていない。
”いぬ”
狛犬のこと。日本の雅楽は左方楽と右方楽にわけて整理された。この左右に分けるというアイデアは政治家のポストにも用いられており、左大臣と右大臣がある。このアイデアは日本のオリジナルではなく百済で行っていたものらしい。日本は百済の影響をずいぶん受けたようだ。
宮中の雅楽では伎楽から獅子だけを取り出し独立した曲として演奏していた。といっても獅子は仏教の御願供養の際に演奏されるもので11世紀以降から頻繁に演奏された記録がある。
仏教の供養ではかつては伎楽という音楽付きの仮面演劇をやっていた。これを元に儀式は拡張され雅楽の曲に差し替えられたり、付け加えられたりした。獅子は元々伎楽にあり、そのまま残され、狛犬が加わったらしい。
その狛犬の譜面が残っていた。これまでは乱声の譜を読むことができなかったのだが、読み方がわかったので読んでみた。ついでにより精密に譜面を読んでみて音源動画をアップグレードした。
”しし”
獅子は獅子舞の獅子。元は612年伝来とされる伎楽の一部だった。伎楽は朝鮮半島の国家だった百済から伝来するが、中華帝国の南朝で伝習したものとある。
伎楽は大乗仏教布教のための音楽劇だった。聖徳太子が詔で”諸仏の供養は楽を以って行うべし”とした”楽”は伎楽だったと考えられる。
この伎楽は奈良県の桜井市を拠点にして子供を集めて伝習され、各地の寺院で行われるようになった。150年間位は相当人気があったらしい。古事記や日本書紀が書かれたのはこの期間で天孫降臨が伎楽の行道をモチーフにして脚色して書かれている。猿田彦は天狗の風貌で描かれているが、これは伎楽の行道を先導する強力な神通力を持つインド人仏教僧の治道(ちどう)である。この猿田彦が天孫族を先導するという風に記紀では描かれている。仏教誕生が2500年程前で大乗仏教は2000年前位からだから、皇紀2600年よりもさらにずっと以前の天孫降臨は成り立たない。
伎楽が飽きられてきたころ、雅楽が入ってきていた。雅楽の曲には伎楽の個々の曲と同じモチーフで作られているものがあり、伎楽の曲はそれらに置き換えられ、供養の儀式は発展した。
獅子は儀式で舞台を払い清める役目を担っていた。その役目は供養の儀式に雅楽が導入されていっても残された。狛犬が追加されていた。
伎楽の譜面は幾つか現存している。しかしながらそれらの内容が異なっている。伝習された寺で工夫がなされ、独自に発展したのかもしれない。獅子の曲もやはりそれぞれ異なっている。
現在の四天王じで行われている獅子は最も古いものと考えられるが、それでさえもかつて宮中の雅楽にあった獅子とは異なると考えられる。平安時代には既に異なったものがあった。
今回読んだ獅子は宝暦三年(1753)と書かれている曲集、六調子並高麗曲譜 伏872 宮内庁書陵部の最後の方に書かれているもの。
この譜の獅子は音取と破から成っている。この破は打楽器を撃つ位置を示す記号がついているのだが、それを考慮して読むととんでもなく込み入った複雑で速い曲になってしまう。これは秘曲を容易に読ませないようにする工夫と思われる。
読み方に見当がついたので読んでみた結果。”ばとう”と読む。
雅楽にはインド由来の仏教系の楽曲が幾つもある。それらについて言及している論文がある。
東洋音樂史講座第一講日本を中心をしたる東洋音樂の系統 (中) 田邊 尚雄
1938年に発行されている。
この論文に高楠博士によると抜頭という曲は抜頭王の名馬が蛇を退治した話を元にしている。
この曲は猛獣に両親を殺された子供が怒り狂い復讐のためにその猛獣を探しに山野へ分け入っていくと中華の音楽書では解説されていて、日本の音楽書もそれを引用している。
現代の雅楽のこの曲は非常に遅いテンポで短調系の先方で演奏されている。
しかし古譜を読んでみると旋法は最も明るいLydianであることがわかる。この旋律が生き生きと奏でられるテンポを見つけ出して演奏すると軽快な曲であることがわかる。
平安時代末期にはすでにこの曲、または乞食調は長調系の明るい旋法であることが忘れ去られていたのだろうか?
”らんじょう”と読む。
幾つかある。
”のんじょ”と読む。
右方楽(高麗楽)とは中華帝国の周辺の異国の音楽を集めたもので、教訓抄によると周礼にすでに記されているらしい。
高麗楽の大曲である新鳥蘇の冒頭に演奏される。どうやって演奏されたのか詳細がわからない。譜は笛と篳篥がある。
曲名に”序”と付くからには他の曲の序に近いものがあると想像していた。しかし太鼓を打つ場所を示す百の文字が書かれていない。
昨日乱声という曲を読んだ。
と4曲あった。どれも百の文字がない。これが納序に近いのではないだろうか。
羅陵王という曲では冒頭に乱序というのが演奏される。これも太鼓の位置が書かれていない。
これと乱声は構造が似ている。
乱声の旋律は笛だけで演奏される。打楽器が付く。乱序もそう。他にも譜に百の文字が書かれていない曲には調子や音取がある。これらも打楽器を伴う。現代の雅楽では極少なく叩いているし、一定のテンポが無かったりする。譜には確かに一定の拍子(四拍子とか)を示すものは書かれていない。しかし打楽器の鞨鼓の譜面には四拍子のパターンが書かれている。
歴史的音楽書には鞨鼓が曲の最後まで叩かれるとは書いていないが、テンポが分からなくならないように叩かせることにして作った音源が以前の調子の音源。これによって調子が対位法的手法で作られていることがわかった。美しいハーモニーがある。
乱声には退吹という手法が用いられる。これは複数の奏者が同じ旋律を演奏するのだけれど、演奏を始めるところを前の奏者より1拍ずつズラして吹く。これによってフーガのような旋律の追いかけっ子が聞こえるわけ。
この旋律の追いかけっ子は後から入る旋律が丁度良い箇所から始めると聞き取り易い。その箇所を探して作ったのが乱声の音源。
その経験を元にして納序にも手を出してみた。そうしてできたのがこれ。
琵琶の秘曲が琵琶の古譜に残されている。3曲ある。
これらは調子の旋律が掲載されている箇所に書かれている。ついでに読んでみたところ調子の演奏手法で演奏するとおもしろい結果が得られた。
石上流泉と石原石上流泉は同じ曲。旋律の一部がオクターブ上がっていたりする。
これらをカノン(かえるの歌などの輪唱)のようにずらして演奏してみると結構おもしろい。特に1拍ずつずらして4声にすると響きが終始充実していて、古楽を聞いている感じがしない。
大常博士揚真操は旋律に工夫が凝らされていて飽きにくくなっている。しかし琵琶のソロとして聞いていても秘曲と言うほどのこともない。
どこが秘曲なのか?それはやはり対位法的に演奏しておもしろいからではないのだろうか?やってみたところかなりおもしろい。
こうして秘曲の内2曲が対位法的に演奏した方がずっと楽しめる作品であることがわかった。この対位法的手法は雅楽の調子の演奏手法なので、時代的に問題はない。
残りの曲であるキツツキは、キツツキのノックする音が聞こえるのを描写した曲だろう。かなり速い一定のテンポがあるが、一定の拍子はない。休符は演奏者の音楽的感性でその長さを決定するらしい。ボディを叩いてキツツキのノックする音を表現する箇所があるが、ノックする音は楽曲全体に渡ってある。おそらく目の前でキツツキがノックしている様子を描写しており、雑音が混ざっているのを表現しているのだろう。
最後に主音のシンコペーションがあるのがおもしろい。
Youtubeで見られる啄木の動画では一定のテンポが無いように聞こえるものがある。それはおそらく間違いと思う。調子の音源を作った時に鞨鼓を鳴らしておいて一定のテンポを維持し、各パートは一定の拍子はなくても一定のテンポ上で旋律を奏するようにした。この結果がなかなか上手くいったので、琵琶の小品についても同様のことが言えるのではないかと考えた。
一定の拍子が無いということは一定のテンポがないということではない。
笙の黄鐘調の調子の譜はほぼA Ionianで書かれている。
これは合竹という和音の構成音があらかじめ指定されていて、その中にG#やC#が入っているのでA Ionianとなってしまうのである。
黄鐘調はA DorianなのでA Ionianと共通するのはF#のみ。その他のC#とG#はNatural CとGに変更できないのだろうか?
水調はA MixolydianでA Ionianと異なるのは第7音のみ。笙にはG#の半音下にNatural Gが残されているので交換可能であることに気づいた。試しにやってみたところ充分によく響く。
これで水調用の調子は黄鐘調の譜のG#をGにすればとりあえず間に合うことがわかった。
太食調(たいしきちょう)の調子。
調子とは曲を演奏する前にチューニング(調律)をするために演奏したり、
舞人が舞台に上がるまでの入場曲として演奏したり、
舞人が舞台から楽屋へ帰るまでの退場曲として演奏したりする。
Youtubeで動画を幾つかみたが、楽家録に書いてあるように演奏されている例が少ない。特に鞨鼓のリズムパターンが異なる。
この動画は調子がまとまって演奏されている。しかしながらどれも調律のための構成になっている。
調律のためには音取という極短い曲が用意されている。篳篥の譜には音取につづいて旋律がかかれているものが品玄調子として書かれていたりする。
楽家録によると調子は調律のためにも用いていたらしい。それ用に略式バージョンのやり方の説明が書かれている。音取はそれよりもさらに短い。
僕が古譜から作ったもの。各楽器は笙、篳篥、笛、鞨鼓、琵琶、箏の順で演奏される。これは楽家録に説明がある。
僕はその説明をある程度守っているが、守っていないところもある。鞨鼓は演奏を始めたら叩きっぱなしだし。笙の一句が終わってから篳篥が吹き出すということなのだが、それより前から始めたりしている。これはなるべく合って聞こえるように配慮するとそうなってしまう。
この調子という曲はそれぞれの楽器の譜の長さが異なる。つまりユニゾンで演奏されるわけではない。またそれぞれの楽器に多数の曲が用意されていたりする。つまり様々な組み合わせを試せる。
おそらく自由対位法という手法で一定のテンポの元に決まった調性の旋法で演奏するというルールで作られていると思われる。それ故、それぞれの楽器が演奏を始める箇所がずれていてもそれなりに聞こえてしまう。
曲には楽譜があるのでそういうわけにはいかない。曲と入場、退場などの使いまわされる小曲の違いを明確に出すには自由対位法を用いたのは効果的と思われる。これといって決まった旋律があるわけでなく、それぞれがそれぞれに演奏して偶発的なハーモニーを味わう。聴き方が曲とは異なるのだ。これはリフレッシュになる。
雅楽はかなり考えて作られていたらしい。
現代は感じ取りやすいテンポを明示するということを避けているように思う。僕の音源動画ではテンポを明示しているので、打楽器は曲の冒頭から入っている。
調子は舞人が楽屋からでて舞台に上がるまで、舞終わってから楽屋に帰るまでに演奏される。
またそれぞれの声部の冒頭に音取を用いてチューニングすることもある。
壱越調の笛と篳篥には品玄という名で譜がある。これ以外に上調子と入調がある。
箏には幾つも譜があり、それぞれ長短があり、終わりの音が主音だったり属音だったりする。
琵琶には1つのパターンしかない。
これらの譜は冒頭を揃えて並べても心地よく響かない。それぞれが独立した旋律を持っているので合わなくて当然。これは自由対位法によるものらしい。
楽家録にある解説に沿って組み合わせても良く合う場合とおかしい場合がある。幾度が試して良い結果がえられるところを見つけた。
”ねとり”と読む。
昨日に続いて高麗楽の音取を読んでみた。高麗笛と篳篥に三鼓が入る。
まず現代の。しかし三鼓は入っていない。
古譜を読んで見たところ冒頭の笛は楽譜と合うが篳篥から合ってない。これも明治になってから作られたのか?
僕が作った音源動画では高麗双調は2:30から。
高麗壱越調はE Mixolydianなのだろうか?曲はE Ionianで書かれているように聞こえる。
琵琶を追加した。楽家録によると笛から始まり、篳篥が続き、琵琶と鼓は中華曲の音取と変わらないとある。実際のところ笛と篳篥は自分で音程を作りながら演奏しているので、始めから正確な音程で吹けない。中華曲の音取の場合は音程が決まっている笙を先に鳴らし、また常に鳴らしているので、笛達はそれに合わせることでチューニングできる。
高麗楽の場合笙を用いない。そうなると琵琶をあらかじめチューニングしておいて、笛達はそれに合わせることで正しく演奏できる。ということは琵琶は笙の様に始めから最後まで演奏し続ける必要がある。
と考えて琵琶を配置した。
”ねとり”と読む。
楽曲の演奏前に音程を合わせるために演奏する。各管楽器の主席奏者のみが演奏する。
現代の雅楽の例がこちら。
これは平調の音取と思われる。横笛と篳篥合ってない。横笛が音程を合わせるのが難しいのは演奏技術が未熟なせいもあるが、現代用いられている龍笛はそもそも内径が太過ぎるので安定した演奏が難しいのではないか。高麗笛と神楽笛の間位の太さになるべきだと思うが。。。
今回古譜から読み出して作ったものがこちら。
他にも演奏前には調子、上げ調子、乱声、品玄などある。これらが唐の宴楽にもあったのだろうか?
弦楽器を追加した。楽家録には笙、篳篥、笛、鞨鼓、琵琶、和琴、箏の順で演奏するとある。また揃って終わるようにする。
箏の爪調は長過ぎるし、琵琶の七撥は短すぎる。音価を倍、又は1/2しても上記の順番では終わりが揃わない。先に演奏を始めた楽器は終わりを延ばすことで調節するのだが、それでも結構延ばすことになる。
そこで当初考えた様に弦楽器においても末尾を揃えてみた。そうして演奏させたところなかなか良く響く。末尾は8分音符1拍程度の調節で済む。
楽家録によると音取はそもそも調子で行っていたらしい。その短いバージョンが今の音取ということか。調子には略式の短いバージョンの方法もあるが、それは音取よりはずっと長い。
左方楽は唐伝来の楽を中心に仏教系の林邑楽等がまとめられている。そのシンボルマークが三つ巴で、太鼓には龍のマークと太陽のオブジェが付いている。
右方楽は朝鮮伝来の舞楽を中心にまとめられている。そのシンボルマークが二つ巴で、太鼓には鳳凰のマークと月のオブジェが付いている。
月のマークは月支国に関係するか、鳳凰は?二つ巴は?右方楽は高麗楽とも呼ばれる。高麗(918-1392)は百済と新羅を合わせているので音楽文化は多様だったと思われる。
平安時代(794-1192)は高麗と時代が合うが、正式な国交の記録は少ない。
主に民間レベルでの国交だったか。
Wikipediaの高麗のページでは音楽文化には触れていない。
雅楽の高麗楽には短い旋律の繰り返しを繋げたものや、中規模の構造の曲が多い。どれも旋律が洗練されていて、聞いていて楽しい。仏教系と思われる曲が幾つかある。
Wikipedia: 味摩之
『日本書紀』によれば、612年(推古天皇20年)に帰化したと言われており、呉(中国南部)で学んで、伎楽の舞を修得したという。『令集解』の『職員令』の項目によると、伎楽と腰鼓などは呉楽であるとされており、その舞は滑稽卑俗なものであったと言われている。
桜井(豊浦寺のあったところ)に住居を与えられ、少年を集めて伎楽の舞を教えたとされる。真野首弟子・新漢済文がその舞を習い、伝承している。
新羅本紀
402 新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師(356-402)今の子、未斯欣を人質として倭に送った(新羅本紀)
Wikipeida: 卑弥呼
魏志倭人伝に
骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占うとあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた
卑弥呼が死んでからは卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
殉葬したり、生口を献じたり、占いしたりというところが殷の習慣に似ている。
殷があったのは紀元前17世紀-紀元前1046年なので、それからずいぶん時間が経っていることがわかる。
殷の王族と思われる箕氏が朝鮮に渡り、衛氏朝鮮(紀元前195年? - 紀元前108年)に負けた。海へ逃げて半島の南部へいき、馬韓を平定して韓の王となった。
これが、紀元前12世紀 - 紀元前194年。
馬韓は紀元前2世紀末から4世紀中葉続く。
この馬韓の中の伯済国が中心になって百済になる。4世紀前半-660年続く。
238に卑弥呼が魏に使いを送って封じられているので、百済になる前の馬韓の時代の話になる。殷の王族の箕氏が馬韓の王となっているので、殷の習慣が広まっていただろう。そしてそれが238以前の九州の邪馬台国へ伝わっていたのだろう。
魏志倭人伝では朝鮮半島の南の端は倭と書かれている。その上には三韓がある。
しかし邪馬台国への道のりでは狗邪韓国から海を渡って進んでいる。
女王国までの国
Wikipediaで殷について読んでいたところ、山海経や淮南子という中国の神話などが書かれた書物があることを知った。
それらには天地開闢の話や足の3本ある烏の話、太陽神の話など載っている。これがかなり古くからあったらしく淮南子の方は前世紀に成立している。また日本には古くから入っていたらしい。
つまり古事記や日本書紀の元ネタになっている可能性がある。
上のブログにはミャオ族の信仰、頭が人体が蛇の神さまの話とか、タイのアカ族の鳥居の話とか三角が連続する模様とかしめ縄とかあるのだが、驚いたのは女性が角みたいに飾りをつけている。これは劉邦が軍に採用したらしい。
都怒我阿羅斯等ってこの部族の人か漢以後の人だろうか?”つのがあるひと”に漢字を当てただけなのがおもしろい。
この人は大加羅(金官国)から来たと考えられているらしい。この国は三韓時代にはどこにも存在しない。弁韓時代の弁辰狗邪国
半島南の倭のあたりが3世紀から6世紀中頃に伽耶になってその中に存在する。
その辺りでは5世紀後半から6世紀中葉に前方後円墳が作られる。日本産の翡翠が大量出土している。
日本では3世紀中頃から7世紀と半島よりちょっと長い。
3世紀半ばから奈良を中心に作られたらしい。
前期 3世紀中頃から4世紀中頃、数は東国に圧倒的に多い。
中期 4世紀後葉~ 5 世紀末葉 は規模が大きい。奈良近辺よりも西と東に数が多い。
後期 6世紀後半、西と奈良近辺では作られなくなるが、東で大型が作られる。
半島南部の倭と呼ばれた地域と弁韓は一体化したのか?そして日本列島と同時期に同じ形状の大規模墳墓が作られる。しかも日本では関東地方に圧倒的に多い。
日本に渡来した王族に国を分け与えたのだが、九州と近畿では間に合わなかったので関東を分けたか?それにしても王に比肩するレベルの大きさのものが多数あるのは、半島諸国の中枢がそのままやってきたのか?
Wikipedia: 周
殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。
この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。
またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。
これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。
建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。
Wikipedia: 楚
海沿いの国では無かった。王の名前に熊がつく。
ミャオ族の祖先が建国したらしい。6代目の熊渠の時に蛮夷だから中華の爵位を受けないと拒否した。
越を滅ぼした。
動物信仰が盛ん
シャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中
Wikipedia: ミャオ族
ミャオ族の多くはすべてのものに霊魂や生命が宿ると信じ、樹、岩、山、川、泉などを崇拝する。祖霊や祖先の祭祀を怠らない。
毎年旧暦10月頃の卯日や辰日を年越しの日の苗年(ノンニャン)として祖先に感謝する祭りを行う。男性は蘆笙(キー)を吹き、女性は華麗な銀飾りと豪華な刺繍の衣装をきて舞う。この時は、男女の自由恋愛の機会でもあり、ユーファンと呼ばれる歌掛けで感情を表現した。
世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。
陽界の精霊は基本的には善意のある守護霊 (Dab quas) と森などに住む悪意のある精霊 (Dab qus) に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護している
天界の精霊には雨をつかさどる龍 (Zaj Laug) や虹 (Zaj sawv) もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊 (Nkauj Hnub)、月の精霊 (Nrang Hli)、雷神 (Xob) などが知られている。
射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。
朝鮮半島にWikipedia:箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年))があった。
Wikipedia:箕子朝鮮によると
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。
漢書によると
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。
史記によると
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。
再びWikipedia:箕子朝鮮によると
秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
魏志韓伝によると
(朝鮮)侯の(箕)淮は勝手に王を称していたが、燕からの亡命人、衛満が攻撃して奪うところとなり、その左右の宮廷人を率いて海に逃がれ、韓の地に居住して自ら韓王と号した。その後裔は絶滅したが、今でも韓人でその祭祀を奉る者がいる。漢の時は楽浪郡に属し、季節毎に朝謁した。
後漢書によると上記の韓王になる下りが詳しい。
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。
馬韓内の伯済国が後に百済になる。三国史の百済のところは日本の記録と合う箇所がある。新羅は基本的に合わない。
このサイトの著者の解説が次。
馬韓の箕氏を滅ぼしたのは魏の楽浪、帯方二郡で、魏志三少帝紀、正始七年(246)に「韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて落ち降った。」
この数十ヶ国は馬韓だけでなく辰韓の国々も含む。
この時の数十ヶ国が弓月君が率いてきた120県ではないか?
Wikipedia: 殷によると
現代の考古学調査によると、殷は占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要とした。中国の文字である漢字は、骨に刻むための象形文字として始まった。これまでに(2012年現在)、少なくとも14000体の殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘されており、それらは殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され、献上された人身御供であった。
倭も生口を中華帝国に献上していた。殷程古くはないが。この人身御供の手法はその後中華圏で用いられたのだろうか?
後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。
Wikipedia: 殷に系図がある。29代の隣に箕氏が書かれている。箕氏朝鮮は殷の王の系譜か。
仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。
上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話(十日神話)は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落される(射日神話)のは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。
倭と百済が仲良かったのは、この王族を共有していたからではないのか?
Wikipedia: 羿によると
天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。
Wikipedia: 三足烏
東アジア地域の神話や絵画などに見られる伝説の生き物である。この烏は太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴であった。最も古い考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域にさかのぼる。
先の9の太陽に住む9の烏を射落としたとしているものもある。
淮南子(えなんじ)という思想書。(著者:劉安(B.C.179-B.C.122))日本には古くから入っていた。
昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという
とか
天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」
日本書紀の初めの
古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。
羿の奥さん嫦娥が夫の分の不死の薬を飲んで月宮殿に逃げてヒキガエルになった。。
離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。
帝夋(ていしゅん)は、上古の中国神話に登場する東方の天帝(帝舜と同じといわれる殷の祖神)。帝俊とも書く。羲和(太陽の女神)と常羲(月の女神)は帝夋の妻である。
政治もおもしろい。殷王は神界と人界を行き来できるシャーマン。
殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。
魏志韓伝の馬韓の習俗の説明には
五月に種まきが終わると鬼神を祭る。群衆は歌って舞い、酒を飲み、昼夜休まない。その舞いは、数十人がいっしょに立ち、円形に一列になって地を踏む。手を下げたり上げたりし、足もそれに合わせてうごく。節回しは(中国、漢の)鐸舞に似たところがある。十月に収穫が終わるとまたこのようなことを繰り返す。
鬼神を信じ、主邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる。これを天君と名づけている。また、諸国にはそれぞれ特別な集落があり、これを名づけて蘇塗(ソト)とする。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える。さまざまな理由で隠れたり逃げたりしてその中に至ったものは皆これを引き渡さず、好んで賊を作っている。その蘇塗を立てる意義は仏教の寺に似たところがあるが、行いの善悪に違いがある。その(馬韓の)北方は(中国の)郡諸国に近く、やや礼に通じているが、遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しい。
古代朝鮮と倭の歴史を年表を作ってみたら噛み合わない。そこで中華史書に年代のはっきりした情報がないかあたっている。三国志(180-280)。
このリンク先でおもしろいのは馬韓の国が載っているところ。
カタカナは漢音。桑外(サウグヮイ)国はソガ国かもしれないというような違いまで含めて良いでしょう。とある。
月支国は辰韓12ヶ国を統治していた王族を輩出していた国。この国自体は馬韓国に属していた。辰韓が秦から逃げてきた人々の国で月支国の王は秦の始皇帝の子孫。弓月君が120県人々を率いて帰化している。
嶋津氏系図によると弓月君である融通王の次に竺達王([208]-)がある。これって筑紫王?土地名+王っていうのが中華の名付け方らしい。
隋書に筑紫国の東に秦王国がある。これって月支国の弓月君がつれてきた120県の人達の国か。華夏と同じというのは当時の漢民族と同じという意味で隋の使者はそれに驚いていた。
弓月君の一団は筑紫と隣の豊日別に住んだのか。そして弓月君の子供が筑紫の王族になったか。
伯済国が後に勢力を増して4世紀に馬韓を統一して百済となす。Wikipedia: 春秋戦国時代
周の後春秋戦国時代の地方国家。長江下流。
呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入る。
呉 B.C. 585-B.C. 473 蘇州周辺 長江下流北側 最後の王夫差は首吊り自殺。
越 B.C. 600-B.C. 306 首都は会稽 長江下流南側 漢民族とは別の百越による国 稲作や銅の生成 頭は断髪、上半身は裸で入れ墨
B.C. 2末からA.D. 4 弁韓から倭、濊などが鉄を調採掘していた。貨幣の代わりに使ってもいた。弁辰狗邪国が狗邪韓国か。
倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていた。
神功皇后の三韓征伐で攻めた都市
地域名に君が付いている。どうして筑紫には王ではなくて君なのか。
蘇我君とか物部君とか検索しても出てこない。
Goo辞書によると古代のもと皇親系の尊号。
紀には地域名に王がついている。長屋王、額田王とか。これは中国の名付け方らしい。
新羅は514から地域名+王の方式でこの時の法興王が仏教を公認している。(528)これより後は全てこの呼び方。それ以前は漢字五文字以上の当て字っぽい。
加耶の王はサータヴァーハナ朝(Sātavāhana、紀元前3世紀/紀元前1世紀? - 後3世紀初頭)は、古代インドの王朝の王女を娶っている。金官国伽倻が後の狗邪韓国。加耶の王も地域+王だが、漢字一文字+王の名前も持っている。倭の五王と同じ名前はない。
馬韓の国王は漢字一文字+王。馬韓はB.C.2-A.D.4中頃。
百済は漢字二文字+王。たまに漢字一文字+王。
鹵の文字を使っている王が百済にいた。
獲加多支鹵大王の名が刻まれている鉄剣が出土した古墳は2箇所。
埼玉 稲荷山古墳 5世紀後半
熊本 江田船山古墳 5世紀末から6世紀初頭
獲加多支鹵、これ”わかたける”って読めない。支と鹵が無理じゃない?
わかたしろ(博多城)の方が読める。博多って筑紫の海より。
鹵を名前に持つ王が百済にいた。
蓋鹵王(近蓋婁王)(がいろおう)455-475 百済王。日本書紀では加須利君(かすりのきみ)
中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗した。
475年には高句麗によって首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、戦死した。百済は一旦滅んだ。
百済は中華南朝と通じてきた。
年代は合う。475に一旦滅んだ百済の蓋鹵王の家来達が倭に逃亡して帰化したのではないか。反乱を防ぐために熊本と埼玉に別けられて住まわされたとか。地方の近代化に貢献したから前方後円墳認められたとか。
だから倭朝廷が熊本から埼玉まで支配していたのは確か。ワカタケルかどうか。一応5世紀にワカタケル=雄略が居た。
文周王(475-477)日本書記の記述が1年遅い。
東城王(479-501)倭へ人質に来ていた王子の中から選ばれて王になった。
武寧王(502-523)
日本書紀に記述があり、そこから年代不詳の天皇の時代を確定できる。
雄略5 461 (457-479)
武烈4 502 (499-506)
上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧にもある。古事記だと雄略は489に死亡している。干支で換算するとそうなるらしい。
武烈帝は実在が怪しいらしい。紀では悪行が書かれているが記には悪行いはない。先代の王を悪く書くのは中華の手法。記は倭側から見た歴史で、紀は日本側から見た歴史とすると武烈は九州王朝側か。
雄略の居た泊瀬朝倉宮ははっきりしていない。九州説、高知説、奈良説。斉明は天智に同行して筑紫へ行ったので、その近辺の朝倉市らしい。比定地2つある。
雄略は呉へ遣使していると紀にあるが、雄略の時代に呉はない。
六朝と言う概念がある。
宋に遣使したか。呉は南朝位の意味か。そうであれば612に伎楽を持ち込んで帰化した味摩之が呉で伎楽を学んだと言っているのはおかしくない。
雄略は124歳で死亡とあるが、2倍していたとして62歳。それで皇位が22年か。遅咲き。允恭が41年と長くてその後安康が短かったから、急遽代打として登板したというところか。
倭の五王の遣使を王毎にまとめると