Wikipeida: 卑弥呼
魏志倭人伝に
骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占うとあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた
卑弥呼が死んでからは卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
殉葬したり、生口を献じたり、占いしたりというところが殷の習慣に似ている。
殷があったのは紀元前17世紀-紀元前1046年なので、それからずいぶん時間が経っていることがわかる。
殷の王族と思われる箕氏が朝鮮に渡り、衛氏朝鮮(紀元前195年? - 紀元前108年)に負けた。海へ逃げて半島の南部へいき、馬韓を平定して韓の王となった。
これが、紀元前12世紀 - 紀元前194年。
馬韓は紀元前2世紀末から4世紀中葉続く。
この馬韓の中の伯済国が中心になって百済になる。4世紀前半-660年続く。
238に卑弥呼が魏に使いを送って封じられているので、百済になる前の馬韓の時代の話になる。殷の王族の箕氏が馬韓の王となっているので、殷の習慣が広まっていただろう。そしてそれが238以前の九州の邪馬台国へ伝わっていたのだろう。
魏志倭人伝では朝鮮半島の南の端は倭と書かれている。その上には三韓がある。
しかし邪馬台国への道のりでは狗邪韓国から海を渡って進んでいる。
女王国までの国
- 狗邪韓国
- 対馬国
- 一大国
- 末盧国
- 伊都国
- 奴国
- 不弥国
- 投馬国
- 邪馬台国
- 斯馬国
- 己百支国
- 伊邪国
- 都支国
- 彌奴国、
- 好古都国
- 不呼国
- 姐奴国
- 對蘇国
- 蘇奴国、
- 呼邑国
- 華奴蘇奴国
- 鬼国
- 爲吾国
- 鬼奴国
- 邪馬国
- 躬臣国
- 巴利国
- 支惟国
- 烏奴国
- 奴国
- 狗奴国 この王が狗古智卑狗で女王に属さない。