Youtubeの妄想歴史探索で興味深い点があった。
【ゆっくり解説】空白の150年 倭の五王の正体とは⁉
埼玉県の稲荷山古墳から出土したもの鉄剣に文字が彫り込まれていた。その文字の中に”獲加多支鹵大王”とあった。
熊本県玉名郡和水町江田船山古墳から出土した鉄剣にも同じ文字があった。
これをワカタケル大王と読んで雄略天皇に比定する説が有力。
5世紀後半にワカタケル大王の権力が九州から東国まで及んでいたと考えられている。
上の動画では、8:46百済の蓋鹵王(455-475)ではないかと言っている。見慣れない漢字は当てはまる。
この王を最後に高句麗に攻められていったん百済は滅亡したと考えられている。
倭の五王によると武の外交記録は478-502で蓋鹵王が死んだ後。これでは当人とは言えない。
この時代の倭王が漢字一文字の名を使っているのがおもしろい。中華名でも国王の名を漢字一文字で表すことがあるのだろうか?
大陸から移住してきた団体が集団で反乱するということがしばしばあったらしい。それでそれらの団体を分割して地方にバラバラに住まわせるということをした。
この鉄剣を持つ百済系のグループは分割されて、九州と埼玉に住まわされたのではないか。他国の人とはいえ、高貴な身分だったので武器を奪わなかったとか。
九州王朝説が興味深いので動画を見ている。考古学的事実として九州北部に古い寺の跡(基礎)がたくさんあるが、建物が発掘されていない。これらの建物が近畿へ移されたという説。
これの変なところは九州から大規模に近畿へ移住したのだが、記紀にはそれが書かれていないところ。
邪馬台国の刺青文化と南方の中華国呉の刺青の習慣がおもしろい。また卑弥呼の墓は殉葬されたらしい。鬼道は当時の大陸にもあった。
稲作は6000年前に岡山で行われていたらしい。
水稲は1100年前から始まった。
長江下流の河姆渡文化(5000-4500)では水稲を栽培してた。ここから出土する土笛が弥生時代末期の北九州ー出雲ー能登あたりから100個位出土している。
長江下流の呉はB.C.585-B.C.473。倭人はこの国の太伯の子孫と言っている。全身に刺青。
越B.C.600-B.C.306。銅の精錬技術高い。上半身刺青。
倭人の絵が残っている。職貢図という。6世紀に描かれた。倭人の服装は肌の露出多いし、貫頭衣じゃない。説明文は魏志倭人伝のそれらしい。
九州王朝は中華人を含んでいたのではないか。だから漢字一文字の中華っぽい名前を使うグループもいた。一方で卑弥呼とか倭名を使うグループもいた。邪馬台国は倭人の小国を30国ほどまとめた連合国だったわけだから、考えられる。
大陸のような国同士の戦争が日本でも行われていたのは当然と思う。中華人が移住してきていたのだから。