12 Jan 2019

獅子舞に繋がる呪術史


呪術

古代日本の呪術略史

飛鳥時代仏教と共に伎楽の一部として師子が伝来した。飛鳥時代末期から奈良平安時代にかけて律令制が施かれ、呪術を用いる呪禁師が典薬寮の官職とされていた。古代日本の政治、医療には祭祀や呪術が用いられていた。信仰、呪術の観点から歴史をたどってみる。
  • 3世紀まで 魏志倭人伝によると卑弥呼(?-242/248)が鬼道を以って民衆を能く惑わした。鬼道は黎明期の中国の道教を示した。骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占うとあり、卜術を行なっていたと考えられる。[Wikipedia: 卑弥呼][魏志倭人伝]
  • 4世紀まで 道教が流入。三角縁神獣鏡や呪術文様から道教と推測される。
  • 552/538 百済より仏教伝来。呪禁師、遁甲方術(占術)も伝来。伝来したのは大乗仏教。6世紀までに密教は断片的に伝わっていたらしい。
  • 577 百済が呪禁師を日本に献じた。[日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察]
  • 612 伎楽伝来。楽を以って供養すべしと詔が出され、広く寺社に伝搬し演じられた。
  • 660以降 百済が滅亡し、倭へ僧が渡ってきた。[日本書紀]
  • 673-686 天武天皇在位。道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。「天皇1」を称号とし「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。[Wikipedia: 天武天皇]
  • 676 陰陽寮設立。
  • 691 本格的に呪禁師を導入。[日本書紀]
  • 701 大宝律令制定。呪禁師が官職に定められている。
  • 710 平城京遷都
  • 710-794役小角が修験道を創始した。修験道は神道と仏教の融合したもの。道教の呪術も取り込まれた。
  • 715 神宮寺2の建立始まる。神仏習合が始まる。
  • 718 養老令で(757養老令施行) 厭魅3蠱毒、遁甲を禁止。陰陽寮を明記。
    養老令で陰陽寮が設置される。成立当初は、占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを行い、天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言していた。神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかった(略)[Wikipedia: 陰陽師] つまり僧侶は呪術を行っていた。
  • 732 修験道の開祖役小角の弟子である韓国広足が典薬頭に就任。初期の典薬寮は呪術的傾向が強かったものと考えられる。
  • 752 東大寺大仏開眼供養。
  • 767 聖武天皇が主に疫病対策として諸国国分寺で悔過法会を行わせた。
    飛鳥時代以後、渡来人や遣隋使、遣唐使、商船によって、日本に免疫のない病気が流行した4。予防法、治療法はなく、自然に収束するまで犠牲者が出つづけた。朝廷のとった対策は、基本的に神仏に頼ることだった。日頃から神仏に祈りを捧げさせ、事あれば大社に奏幣し、大寺に読踊させた。貴族の間では過去の罪を悔い、罪報を逃れる悔過法会が行われていた。
    疫病は度々発生し続けた。朝廷は新たな原因を見出し対策を講じた。それが政争に負けた者達の怨霊の祟りを国家の祭礼で慰めるというものだった。これを御霊信仰と言い、その鎮魂の儀式が御霊会(ごりょうえ)である。
  • 769 県犬養姉女らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪(神護景雲2年条)[続日本紀]
  • 772 井上内親王が蠱毒の罪によって廃された(宝亀3年条)[続日本紀]
  • 788 最澄が一乗止観院を建てる。
  • 794 平安京遷都
  • 806 天台宗が朝廷から認められる。空海が唐で密教を本格的に学び日本に持ち込んだ。
    政治を担っていた貴族は度々起こる疫病の流行に対して対策を打てず、ただ恐れおののいていた。寺院に引きこもって仏像に祈るだけの奈良仏教を見限り、呪術を行う密教に期待した。
  • 816 空海真言宗を開く。
  • 824 東寺と西寺が祈雨で競い合い、東寺の空海が勝つ。神泉苑が東寺の支配下になった。
  • 863 疫病流行。神泉苑御霊会
    朝廷は近衛府主導で神泉苑にて御霊会を行わせた。僧による読踊、稚児、唐人、高麗人の舞い、散楽を行い、馳射、騎射、走馬、相撲等武芸で競い合った5。近衛府は馬術や相撲、弓矢など武芸の競技を見せることで怨霊を楽しませようと考えた。盛りだくさんの技芸が用意され、都人も参観できた。
  • 869 疫病流行。祇園御霊会
    祇園社で祀られている牛頭天王6の祟りとみて、それを鎮める御霊会が行われた。66本の鉾7を立てて、神泉苑まで行進。以後疫病流行の際におこなわれた。
    京都の八坂神社(祇園社)では元々牛頭天王を疫神として信仰していた。疫病神の疱瘡神やかぜの神を祭ることによって、これを防ぐもので御霊信仰に類似している。全国で八坂神社、祇園神社、八雲神社を称する神社には、かつて牛頭天王が祀られた例が多い。それらは大抵、「○○天王」という別称をもつ。明治の宗教政策により、現在は素盞嗚尊を祭神としている場合がある。[Wikipedia: 御霊信仰]楠町本郷の楠村神社には牛頭天王の碑が残されている。かつては天王祭が行われていた。[楠町史]
  • 969 疫病流行。祇園御霊会
    祇園社での疫除けの祈祷会を比叡元三大師良源が行った。比叡山(天台宗)が御霊会に影響し始めたと考えられる。
  • 970 疫病流行。祇園御霊会が恒例の官祭となる。
  • 974 疱瘡が大流行。祇園御霊会
    祇園社は興福寺(藤原氏の氏寺)から延暦寺の別院になっており、朝廷は比叡山に疫除けを行わせた。これに興福寺は抗議したが、以後祇園御霊会は比叡山によって行われる。
  • 984 疫病流行。伊勢神宮諸社へ奉幣、五畿七道8で仁王会を行った。疫病は収束しなかった。神輿を2基作り、疫神を祭って北野の船岡山に安置して御霊会を行った。しかし、民衆は神輿を桂川へ捨てた。政治家である貴族にとっては政争の敵であった怨霊は慰め、鎮め、祀るものであったが、民衆にとっては追い出すものであった。
  • 1011 疫病流行。紫野御霊会
  • 1071 後三条帝が伏見稲荷と祇園に行幸。以後慣例化し、祭礼も合わせて行われる。年中行事絵巻に両方の御霊会の絵図がある。獅子、田楽楽人、鉾を持ち鳥兜を被った鼻高面が描かれている。田楽は田植えに際して行なう地鎮の呪術であった。田楽法師によって行われた。天台宗によって田楽には僻邪、疫除け呪術を付加され、怨霊を鎮め、疫神を祓う御霊会にも登場するようになったと考えられる。
  • 1096 永長の大田楽。
    京都の人々が田楽に熱狂し、貴族から民衆まで加わって仮装行列と化していた。御霊会の前後1ヶ月がお祭り騒ぎになり、朝廷が禁をだす程であった。[洛陽田楽記][Wikipedia: 田楽]
  • 1106 京で田楽が大流行。
  • 1154 紫野御霊会禁止。
[田楽考]
[Wikipedia: 御霊信仰]



呪術系行事

田楽は田楽法師のみ行なうことが許されていた呪術である。師子舞も呪術的要素を含む。現代の能にも呪術的要素がある。その他にも呪術的要素を含む芸能や行事があった。古代日本は国家の政策として呪術行事が盛大に行われていた。
  • 節分 元は追儺という鬼を祓う中国の行事。大舎人による方相氏9という鬼祓い役が侵子と呼ばれる童子20人を引き連れ、大内裏10を「鬼やらう」と言いながら駆け回った。殿上人はでんでん太鼓を鳴らして楽しんだ。
  • どんど焼き 陰陽道の呪法+密教の護摩法=延命の呪法。正月に陰陽師、唱文師が行った。赤熊の髪と鬼の翁面2が舞い、嫗面2が太鼓、童子2腰鼓を打ち、囃すとき「止牟止也」「波阿」と言う。天狗祭とも呼ばれる。
  • 相撲の節会 地固めの呪法。力士は全国から集められた。先導する陰陽師が入場の際に反閉11を行い、衛門庁の前庭で3回乱声12を発する。力士は天皇の御前でシコを踏み、邪気を祓う。左方、右方に分かれて、競ったと見られる。雅楽も奏され、散楽も行われた。
  • 地鎮祭・立柱式・上棟式 建築など建立する際に神職や僧侶に依頼して立柱式や上棟式等の建築儀礼としての地鎮祭が行われる。土地の中に神が存在し、土を掘ったりすると土の神に触れ犯すことになり、犯土によって祟られる。これを鎮めるため儀礼は東アジアに共通する宗教観念である。地面の下の神とは古代中国後漢(25-220)における土公である。日本では鎌倉時代以前は密教僧や陰陽師が担当していた。江戸時代以降神職と大工による儀礼に転換した。考古発掘によって真言宗、天台宗の密教が地鎮・鎮壇儀法を持っていることがはっきりした。
    651
    孝徳帝が難波に築かれた新宮に遷居する前に安宅神呪経・土側経などの経を尼僧に読ませた。安宅神呪経は飛鳥時代(592-710)に伝わったもので仏典としては偽者である。[日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察]

仏教医学

インドでは仏教医学は仏教の集団生活と苦行による各種疾病の予防と治療、大慈大悲思想の実践、現世利益として疾病による苦痛の軽減、布教の手段として必要なものであった。インド医学に基礎をおきつつ単純な呪術や祈祷に依存しない科学的色彩が強い医学であった。
中国に仏教を布教した僧達は中国の老荘思想や陰陽五行思想等呪術的なものを混合して仏教を広めた。医学もこれに含まれ呪術と称して病気を治療しながら布教された。
朝鮮半島の百済(300-350から660)は541に中国の梁(502-557)に仏教の教義や医工を求めている。577には倭からの使いの帰途に合わせて禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工等を従わせている。呪禁師は呪文と祈祷を通じて伝染病を治療する僧侶であった。
日本書紀には百済の滅亡後(660以後)、百済僧が倭に渡ったと書かれている。日本書紀の天武紀(673-686)には百済からの渡来僧の呪禁博士沙宅万寿が見られる。[百済の呪禁師と薬師信仰]

律令制の呪禁師

呪禁を扱い主に伝染病を治療した。医療系の典薬寮13の官職。691に律令で14制定された。は出産時にも呪禁が行われて母子の安産を図った15。古代においては一種の病気治療(主に伝染病)の手段の1つとして考えられ、呪術によって病気の原因となる邪気を祓う治療などを行った。
奈良時代に厭魅16蠱毒17事件(道教系の呪術か?)の続発によって呪禁そのものが危険視され、養老律令(757)で厳しく禁止された。平安時代以降も度々詔を出して禁止されている。
8
世紀末頃には事実上廃止され、9世紀には呪禁師の制度自体が消滅した。一方で道教由来の陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。[Wikipedia: 道教]
仏教の呪禁師は以後も仏教の供養等の行事で見られる。

仏教の呪願師

「雅楽と法会」小野功龍に1083年の法勝寺塔の供養会について書かれている項に咒願師が登場する。再度引用する。師子舞の後に導師と咒願師が参入する。
  • 江家次第 法勝寺塔供養会1083
    1
    開眼作法2寢儀諸
    着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。

7師子舞の後に入場する咒願師は文章博士等によって作成された祝詞を読み上げる役と考えられる。[平安中後期の仁王会と儀式空間]
東大寺のお水取り(修二会、十一面悔過法)に咒師の役がある。修二会は757年施行の養老令に国の行事として記載されている。咒師は密教的修法を行う役割をする。大中臣祓詞を黙誦し、御幣で練行衆を清める(神道の行事)、咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱える(密教的な儀式 呪師走り)、鈴を鳴らして四方を結界し四天王を勧請する等。[Wikipedia: 修二会]この呪師の作法が猿楽の楽人に任せられ、後に能に発展する。

雅楽の呪師

教訓抄の盤渉調の項にある剣気褌脱という曲は相撲の節に演奏され、この曲の演奏中に猿楽(ジャグリング、雑技等)が演じられた。”呪師もあり”と説明の末尾にあり、鎌倉時代に猿楽・田楽と並んだ芸能と考えられる。[教訓抄]これは仏教の咒師と関係があるのではないか?
参考文献
  • [Wikipedia: 呪禁師]
  • [呪禁師ー国史大辞典]
  • [呪禁師ー日本史大事典]
  • [呪禁師ー平安時代史事典]
  • [Wikipedia 蠱毒]
  • [Wikipedia: 修二会]
1「天皇」は道教に由来するという説がある。[Wikipedia: 天皇大帝]
2神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。[Wikipedia: 神宮寺]
3魔術
4このような伝染病の流行は、文明人が南アメリカの原住民に接触した際にも起こっている。
5後世の神事に武芸が入るのは、この時近衛府が御霊会を担当し、武芸で競い合ったのを引き継いでいるから。
6新羅の牛頭山の神。猿田彦と同一視されていた。明治政府によって牛頭信仰は禁止された。
7両刃の刀に長い柄を取り付けたもの。武具を僻邪の祭具として用いたのは近衛の発想。
8日本全国を意味する。
9大晦日に陰陽師が行う悪鬼祓い”追儺(ついな)”で先陣を務める鬼神。4つ目の金色の仮面を被り鉾と盾を持つ。
10平安京の宮城
11陰陽道系の僻邪法。相撲のシコ踏み等。
12声による邪気払い。雅楽では笛、打楽器の乱打。
13医師、針師、按摩師、呪禁師で構成され、宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行ってた。[Wikipedia: 典薬寮]
14中国の制度を参考にしながら、7世紀後期(飛鳥時代後期)百済滅亡後から10世紀頃まで実施された。8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。Wikipediaより
15雅楽の性調の長命女児、千金女児と関係があるか?
16魔術
17古代中国で用いられた動物をつかった呪術。犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として『医学綱目』巻25の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるためこれを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが、「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ。」と記載されている。Wikipediaより

雅楽の獅子舞

雅楽の駒形舞
雅楽には師子のように2人立ちで舞う駒形舞が幾つかあった。

蘇芳菲


[教訓抄]の説明によると頭上に1本の角がある駒形舞いで、子を連れている。次の図は信西古楽図にある蘇芳菲。見た目は師子で頭には角がない。同図の巻末に藤原通憲(1106-1159)が数点描き足している。その中に教訓抄の記述に合致する図がある
拍子9。この曲は五月の節会で、御輿1の前で舞う。弘仁(810-824)より競馬の行幸にこれを奏し始めた。右方の狛龍(子馬形乗り)が番舞い。蘇芳菲の体は師子の姿で、頭は犬の頭のようである。口が細くて面長。中実装束(中に入る人の装束)は左方の騎手装束である。木帽子(木製の獅子頭)、踏懸(脚絆のようなもの)、糸鞋(舞人の履く靴)である。子が2頭いる。装束は犬(狛犬?)の様である。面帽子あり、履物なし。この舞人は楽所の末席の者である。子はそれぞれ従い出る。乗り尻(騎乗)の前に参じ、向い、この曲を奏する。御車に向い、御幸に付く。舞いの体は、まず身を振って、左を運び、右を運び、次に2度拝む。膝を屈めて這う。御車に先立つ。御車が御所に寄り終わった後、また先のように運んで、還烈の時3度拍子を加える。
旧記によるとこの舞いは弘仁より始まって、競馬行幸に奏す。この舞体は師子の様である。頭は金色で1本角があり、身体は(記載無し)色。詠子2人。面の形は色が白く出る様で、紺帽子、犬蚊の様だ。
また、船楽にも奏す。それ故に古楽と記した。古楽に用いる時、口伝がある。拍子を加える時に、初めの拍子を除いて、第2の拍子より古楽揚拍子を打つ。極秘である。仁安(1166-1168)の日吉の競馬の御幸の舞いと建仁3年(1201-1203)の7社の競馬御幸「蘇芳菲」の作法がかなり異なる。古いものを正説とすべき。[教訓抄]
新羅狛


信西古楽図にある新羅狛は教訓抄にある右方の駒形舞の犬なのかはっきりわからない。
狛犬
破、拍子11又は12。急、拍子14。一説によるとこれらが序破。相撲の節会に用いる。舞い出る時に先ず高麗乱声を吹く。打球(ホッケーのような球技)では勝負の舞いとされ、球を取る毎に奏される。舞人は2人。口取2人(右近将曹以下府生以上)を用いる。舞い入る時に松明を含ませながら入る。楽に破急がある。乱声、狛犬出て、乱声、伏し、破が吹かれる時、舞い始める。急を吹き、火を食い舞い入る。以上多資忠日記より。古譜によると乱声を吹き、出曲とする。犬が出て、伏せる時、序を吹く。次に大真人(身分の高い人)が出る。犬が大真人を追い、噛みつくとき、乱声を吹く。次に破を吹き入るべし等。この案では序は破か?破は急である。第4巻に注す。
還城楽の番舞いの一つが狛犬。他に桔桿、納蘇利など。高麗笛の秘曲。この曲様の乱声がある。序破を舞う。[教訓抄]
狛龍
「高礼竜」とも書く。破、拍子12。急、拍子12又は8。五月の節会(競馬行幸)の輿出入の間御前で奏された。子馬形に乗って2人で舞う。模様の入った衣を着て、冠を被る。右方の舞人が舞う。旧記ではこの舞は御輿に向かい筋替えを打って舞う。この間急を吹く。早物唐拍子を打つ。破を吹かない。競馬行幸、御幸の時、蘇芳菲に対して急を奏する。高麗楽の随一の秘曲。この舞いの体は旧記と異なる。([教訓抄]
相撲や打球で吹くか、競馬で吹くかが狛犬と狛龍の用途の違いの様子。駒形と子馬形は異なるのかもしれない。
其駒
唐招提寺の其の駒4月8日倍臚の答え舞である。子馬舞と名づけられている。アヤイ笠、赤い衣に水干を着る。一般的な其駒には全く似ていない。常相楽を定めている。破 拍子4末に3拍子加える。唐拍子物を兼ねる。高麗笛又は倍臚の笛にて平調で吹く。(教訓抄)
其駒については詳しくわからない。御神楽に神楽歌として其駒がある。平安時代を通して改革された雅楽では舞楽を左右にわけて、同種の舞いを番舞いとした。装束から想像するに稲荷御霊会の先導をする貴徳の体ではないか?
寺社での供養、法会での師子の番舞いは菩薩2である。
まとめ
競馬:蘇芳菲、狛龍
相撲、打球:師子、狛犬
蘇芳菲の舞いの体:舞いの体は、まず身を振って、左を運び、右を運び、次に2度拝む。膝を屈めて這う。この舞体は師子の様である。
狛犬の舞いの体:2人立ちの1頭の狛犬に付き口取2人。舞い入る時に松明に火をつける。曲に破急がある。乱声、狛犬出る、乱声、伏す。次いで破が奏される時、舞い始める。急が奏される時、火を食い舞い入る。
古譜によると乱声、狛犬出て、伏す時序を吹く。次に大真人(身分の高い人)が出る。犬が大真人を追い、噛みつくとき乱声を吹く。次に破を吹始める。

獅子舞曲


楠町本郷の箕田流獅子舞の曲

元々の音階

楽曲は筒音をド(主音)とするドレミ(-1/4音)ソラシの6音音階を基本に出来ており、ファ#が時折用いられ、極一部でファが用いられる。ミ(-1/4音)はミとミbの間の音である。ミとミbの間が雅楽で言う1律、洋楽で言う半音1個の差があり、さらにその半分のところにミ(-1/4音)がある。この音階は古代中国の俗楽にも無く、日本の雅楽にもない。また現代に一般的に使用される鍵盤楽器を正しく調律した状態ではこの音は基本的に使えない。
昭和40年に奉納された獅子笛ではミがミとミbの中間にあり、この笛で演奏された旋律に深みがあるかのように聞こえる。下箕田や石薬師南町の箕田流で使用されている笛はm熱田の菊田雅楽器製で、現在の標準とされている440hzよりも1全音低い392hzで調律されており、ミは1/4音低くない。1
正倉院に残存している横笛はとても音程が悪く[正倉院の楽器]、調律されているとは考えられない。その調律の悪さから、それらの横笛は合奏を前提とする雅楽に用いられたのではなく、伎楽の様に独奏に用いられたのだろう。獅子笛がこれらの残存の横笛を手本に作られているのならば、元々調律された音階を持っていない可能性が高い。
獅子舞の楽曲を記憶している人に曲を口ずさんでもらうと、その旋律は基本的に五音音階で歌われる。基準音を平均律の音程のどれかに移動して歌ってもらえば採譜時の困難さが軽減される。

採譜に際して一部変更された音階

獅子舞の楽曲を五線譜に採譜した際、このミ(-1/4音)をミで置きかえると全体に明るい旋律になった。ミbで置き換えると元々の旋律にあった深い印象を通り越して陰鬱な旋律になった。結局、平均律で演奏する際はミを基本として、ところどころでミbで置き換えることとした。これによって獅子舞を構成している音階はドレミファ#ソラシになった。西洋の教会旋法のリディアン音階と同一である。この音階の2全音高いものが沙蛇調として日本雅楽や古代中国の俗楽用の調に残っている。沙蛇調はインド由来の調と考えられている。

楽曲の特徴

日本の伝統音楽は主音とその4度上の2つの核音(主音ドに対するファ)の上下を漂うように構成される。楠町本郷の箕田流獅子舞の曲では主音と5度を骨格としている。これは雅楽や洋楽に見られる特徴であり、この曲は日本の伝統音楽ではない。また一定のテンポではっきりしたリズムで演奏され、日本の伝統音楽というよりはアジアから輸入された音楽のように聞こえる。
現存する雅楽(宮内庁雅楽部の演奏も同様)は原曲の4-16倍程度遅く演奏されている。これは伝承の過程で後継者の実力が十分つかないまま継承されたり、荘厳に感じられるようにテンポを遅くした演奏が要求されたためと考えられる。結果原曲が分からないほどゆっくり演奏され、間延びした音は伝統的奏法によって表現される。これは基本的な技量が乏しい奏者による誤魔化しである。
楠町本郷の獅子舞の曲は希薄な拍子感で随所に綻びが認められるものの欠損はないように見える。雅楽におけるテンポの大幅な低下や誤魔化しの伝統的奏法などは見られない。
個々の楽曲、座付、だんちょ、こっこっこ、舞出し等と雅楽の古譜にある駒形舞の獅子、蘇芳菲、犬、狛龍等と比較しても其々がより長い。また両方に共通する楽句は認められない。楠町本郷に伝わる箕田流の獅子舞の曲が雅楽の駒形舞に繋がるものとは考えられない。楽曲構成は雅楽の古譜と比較すると複雑過ぎる。よって平安時代までに成立したものとは考えにくい。江戸時代後期には神社が地域文化の中心となっていたことからその時期に成立したのではないか?
明治期に伝承された羽津地区の箕田流の曲とはとてもよく似ている。2細部は異なる。楠町本郷の曲は変拍子が随所に見られ、拍子感が希薄になっている。伝承においては前の代の演奏をそのまま受け継ぐことが前提とされており、誤った箇所を修正することができなかったようである。そのため不完全な曲に慣れてしまい、音楽性が充分に育たなかったと思われる。この点から採譜した楽譜をそのまま郷土芸能の資料として使うことは全く勧められない。楠町本郷の楠村神社では著者による編集を行った楽譜を元に著者が演奏を再興している。氏子達の会議で数ヶ所の訂正箇所について説明し、それら訂正が悪意によるものでないことを示したが、先の祭礼の後にも氏子からは演奏が従来の物とやや異なる点に不満を抱き、若い者を走らせ「よくも変えてくれたなー」と著者に恨み言を度々吐かせている。

座付

舞いと太鼓を伴わず、笛だけで演奏される。この楽曲は湯の花神事でも用いられる。羽津地区の箕田流獅子舞ではこれを壇兆、次の曲を座附と呼んでいる。曲の名称は伝承の過程やその地域の神社の祭礼の様式に合わせて代わったのだろう。
4/4
拍子ではっきりしたテンポを明示せず、ゆったりとした体で低い音域でトリルをふんだんに使って演奏される序奏3、次に序の雰囲気を破り2/4拍子で次のだんちょに似た旋律が演奏される。旋律の中心がミ、ソと移って行き、より華やかに演奏され、換頭4を経て曲の中間部分が繰り返される。楽曲の最後には再び破の冒頭の旋律が再現され、締めくくられる。雅楽の序破急の音楽形式の影響を受けていると思われる。

だんちょ

この曲より舞いが加わる。口取と師子が共に舞う。雅楽の舞楽では舞人が舞台に入場する時に乱声を演奏して舞台を祓う。だんちょと乱声は音が似ており、曲名は乱声に由来するのかもしれない。陰陽道では大声を発して魔を祓う乱声がある。
2/4
拍子、先ず太鼓のみでこの曲の基本のリズムパターンが演奏される。笛は先の座付の2/4拍子の部分と同じモチーフがやや変更されて演奏される。途中突然6/8拍子になって雰囲気が変わり、短調な繰り返しに慣れた耳が驚かされる。この曲と座付は構成上とてもよく似ている。どちらかがベースとなって一方の曲が作られたのではないか。

間奏

楠町本郷の箕田流獅子舞は全曲を通して音楽が途切れることなく演奏される。曲と曲を繋ぐ間奏曲が幾つもある。それらは座付の序奏部分と似ている。だんちょうの後の間奏部分は座付の序奏とほぼ同じ旋律で始まる。

こっこっこっ(獅子起こし)

この曲のタイトルは鶏の鳴き声なのか?曲中では桴で太鼓の縁を”こっこっこっ”と繰り返し叩いており、鶏の鳴き声に聞こえる。口取は長鳴鶏の一種東天紅を模した甲を被っている。口取の直近のモデルは雅楽の散手や貴徳と言った武舞いと考えられる。それらは竜甲、鳳凰甲を被って舞われる。雅楽の一般的な甲は鳥甲である。その名称から鶏甲とし、より具体的な形状にしたものが使われている。他地区では起こしと呼ばれている。師子を目覚めさせるからである。
初めに口取が独りで舞う。これは地面の下に住む魔物を祓う呪術である。陰陽道の反閉や相撲のしこ踏みも同様の呪術である。地面の下に住む魔物とは元は道教の土公のことだろう。新築のお祓いでも祀られる。この間師子は眠っているが、自身の廻りを飛び跳ねて踊る口取の舞いによって目を覚ます。
2/4拍子、太鼓の演奏から始まる。前振りの3小節は曲中で用いられるパターンではない。4小節目から太鼓の縁を叩く、そこから4小節間が基本パターンである。旋律のフレーズは長短まばらで太鼓の基本パターンとは12小節に1回合う程度である。笛は弱拍から吹き出される。この曲の旋律はソから始まり、ここまでの曲とは印象が変わる。その曲調は次の舞出しに近い。最低音のドから最高音のドまで全音域が使われ、難易度が上がる。楽曲はほぼ全体が部分的に繰り返して演奏される。シラソの3連符を複数回繰り返すフレーズは座付にも使用されており、全曲の最後に奏される舞上げにもつかわれており、楽曲に統一感を与えている。後半の最低音から始まる旋律は弱拍から始まるものと強拍からのものがある。拍子感の希薄さから生じた誤りと考えられる。3拍子が部分的に頻発する箇所は雅楽の夜多羅拍子5の影響だろうか?太鼓は一拍ごとのパターンを繰り返し拍子感は表出されていないため希薄である。それによって3拍子と2拍子が交互に繰り返されるおもしろさは伝わってこず、ただ不明瞭でよくわからない感じが立ちこめる。この箇所は他地区では見られない特徴であり、初めて聴く際には驚いたが楽譜にして調べてみると効果の上がる構造ではないことがわかる。このような不出来な楽曲を鵜呑みで継承させようとするのは酷いとしか言いようがない。音楽的教養の低さと実力の伴わない見栄の高さのためのはったりであろう。

間奏

師子舞人の交代あり。口取はささらから扇に持ち換えて舞う。
前曲の勢いのあるテンポをそのまま引き継ぎ、低音域で短いフレーズの繰り返しで演奏される。繰り返し部分が多数あり、その回数2回、4回、7回と個々フレーズによって異なる。最後に1オクターブ上で演奏され、そのままのテンポで次の舞出しに入る。

舞出し(舞出し1

時折師子を扇で煽る。師子は扇を取ろうとする。飼い猫を猫じゃらしでじゃらす様子を元にしているのか?
速いテンポでアーフタクト6と装飾音が応酬する。舞出し独自のテーマが細切れに演奏される。少し演奏しては途絶え、次に途中から演奏が始まり、また途絶える。この手法はテーマを通常通り演奏し、それを細切れにした場合に十分有効だと思われる。しかしながら楠町本郷では小節数数が増えており、通常通り演奏したテーマと隠された部分がずれてしまい、不明瞭さがもたらされている。ここからの一連の舞いにはこの独自テーマの使い回しが多用され、曲名毎に明確に曲を区別することができない。曲は間奏部分によって5つに分けられる。舞いの名称による区別はここで言う楽曲の構造上の区別とは一致しない。

舞出し2

低い音域でテンポを落として演奏される間奏から始まる。先の舞出しにほぼ同じ。

別れ扇(舞出し3前半)

口取は正座したまま伏せた師子を扇で煽る。師子は釣られて立ち上がり、扇を銜え取ろうとする。師子が扇に噛みつく瞬間に口取が扇をかわす。笛は高音のドを連続して吹くが伝統的手法がここには全く見られない。

跳び扇(舞出し3後半)

口取は扇を師子と自分の間に置き、閉じた扇子を叩いて師子を一層煽る。置かれた扇子を挟んで師子と口取が舞う。師子は時折扇を取ろうとするも口取に阻まれる。うなだれた師子を口取が扇子を叩いて鼓舞する。最後には口取が扇子を拾い上げる。
この曲の後半部分では師子が扇を取れなくてがっかりしたり、扇を再び取ろうと再燃している心情を笛の旋律が表現している。中音ミの連続した旋律をレの装飾音で切って演奏する伝統的手法が見られる。舞出しの各曲に共通して使用される快速のテンポのテーマにソからラにかけてポルタメントが付加され演奏される。他曲ではこのポルタメントは付加されない。

銜え扇(舞出し4

口取が正座の状態で扇で師子を煽る。師子はそれに釣られて立ち上がり、扇を銜え取る。扇を銜えたまま、師子だけが舞い、喜びを表現する。口取は柏手を打って頭を下げる。扇を取った師子の喜びの舞い。
ここでも師子の落胆のテーマが演奏される。

隅扇(舞出し5

舞台の対角線上に口取と師子が向い立ち舞う。其々が舞台の隅で転げる。正座した口取に師子が噛みつくが、口取は何ともない。口取が神通力で師子の噛みつきを無効化したということらしい。この呪術的な設定は山伏、修験道、陰陽師、仏教系呪師、呪禁師などの古代宗教の呪術に由来すると思われる。地区によっては噛みつかれるタイミングで剣印を結ぶところもある。師子は口を開けたまま呆然として後ずさりし、離れて伏せる。師子は最後に扇を口取に返す。
ここまでが一連の舞いらしい。この後の花の舞との間には間奏は無い。

花の舞

この舞いのモデルは中国南部の獅子舞の採青と考えられる。笹に三角のクッションを数個吊るし、その下で師子が舞う。口取は登場しない。師子が笹に鶴されたクッションを噛もうとする。低音の静かな部分と軽快なテンポの部分が交互に出てきて、師子の舞もそれに合わせて大胆に変化する。最後には師子が転ぶ。間奏曲はなく、続けて太鼓の軽快なリズムで舞上げが始まる。
楽曲は間奏部分から始まる。そして花の舞のテーマが演奏される。ゆっくりしたテンポでリズムが明確に表されず、採譜に苦労した。このテーマを15回繰り返す。その間にテーマは短くされたり、別のテーマが付加されたりして変形する。Coda(結句)は本局だけでなく全曲を通して全く同じものが用いられている。曲の統一感をもたらしていはいるがあまりに変化がなさ過ぎ、個々の曲の独自性が損なわれている。
  • 1間奏(序奏とも言える)+テーマ
  • 2テーマ
  • 3テーマ
  • 4テーマ
  • 5テーマ短い版+独自部分テーマ
  • 6テーマ短い版A
  • 7テーマ短い版B
  • 8テーマ短い版A
  • 9テーマ短い版C
  • 10テーマ短い版A
  • 11テーマ短い版C
  • 12テーマ短い版A
  • 13テーマ短い版
  • 14テーマ短い版再構成版
  • 15テーマ短い版+跳び扇のテーマ+[シラソ]+Coda
本曲ではミとミbが明確に使い分けられている。楽曲は低音レを必要としておりそのために第7孔を開ければ、ミbはクロスフィンガリングか音孔の半開、唄口による調整で出さなくてはいけないが、楽曲での使われ方からはそれらの方法は難易度高すぎる。おそらく元々調律がなされておらず、正確な音程で作られた楽曲ではなかったのではないか。しかしながら平均律の音程で書き表すことができる点がおもしろい。

舞上げ

だんちょで使用された軽快な旋律が再び奏でられる。口取が再登場し、師子の横に並んで共に軽快なテンポで舞い、一連の演目が閉じられる。

飼い慣らし

楠町本郷の箕田流には無い。地域によっては貝鳴らしと書く。他地区の旋律からだんちょや舞上げで使われる軽快なテンポの部分と考えられる。一連の舞いからは独立しており回壇において使われたと考えられる。

おかぐら

楠町本郷で春秋に行われる神事では獅子舞の楽曲以外に比較的短い行進曲風の楽曲が演奏される。ほとんど同じ楽曲が石薬師南町の箕田流獅子舞にも受け継がれている。石薬師北町の山本流獅子舞ではこの曲は使われない。南町ではこの曲を”おかぐら”と呼んでいる。その演奏は優雅な装飾音をともなって雅やかである。楠町本郷の演奏では風雅な雰囲気は全くなく、実直さが目立つ。
楠町本郷のおかぐらには導入部分が残っており、常にそれから演奏を始め、本曲に入る。その導入部分の調はドレミbファ(ソラシ)である。(ソラシ)は導入部分では使用されない。本曲ではドレミ(ファ#)ソラシで作られている。(ファ#)は使用されない。獅子舞と同じ笛を用いて演奏され、本曲の音階は獅子舞と同じ音階とも考えられるが、元々ファ#が存在しないドレミソラシの6音音階とも考えられる。全曲が2/4拍子である。歩く位の速さで演奏される。太鼓と銅拍子を伴う。獅子舞では銅拍子は用いられない。
1正確に言えば獅子笛のミはピアノのレであって、獅子笛は1全音低い。譜読みを容易にするため移動ドで表現している。
2Youtubeに昭和57年撮影の動画がアップされている。
3実際には一定のテンポの2/4拍子で演奏される部分とほぼ同じテンポだが4/4拍子で数えられるのでゆったりと聞こえる。序奏は1小節が4拍。テンポが上がる部分は1小節が2拍。
4繰り返しの際に演奏される部分。雅楽の楽曲にしばしば見られる。
5平安時代に京都の楽人が考案したという変拍子である。
6フレーズが弱拍から始まること。

伎楽と獅子舞の楽器

伎楽と獅子舞の楽器

612年に百済から日本に伝来した[日本書紀]伎楽に師子が含まれている。笛、腰鼓、鉦鼓(後に銅抜(銅拍子)に代わる)によって演奏される。これらは仏典に出てくる楽器である。[仏典に現れた楽器・音楽・舞踏]
これらの内笛と腰鼓は田楽にも用いられている。田楽は田植え前に田の地鎮を行なう呪術で、田楽法師によって行われていた。腰鼓は音量が小さく、笛1本とバランスをとるために10個を要したらしい。笛は6孔であったらしい。[正倉院の楽器]
年中行事絵巻の御霊会に見られる田楽では板切れを多数結びつけたささらが、笛、腰鼓とともに使われている。図1の御霊会の行道の獅子舞では1頭毎に笛太鼓の囃子が付くが、その太鼓は現在の締太鼓とは異なっている。
楠村神社の祭礼では7孔の笛(獅子舞共用)、締太鼓、銅拍子が用いられる。笛と銅拍子は伎楽と共通している。締太鼓とは鞨鼓がやや大型化した太鼓である。笛2本に対して十分な音量がある。北勢地区の仏教系の神事、西日野、東日野の大念仏、下箕田の虫送り等、様々な大きさの物が使われている。鞨鼓は雅楽で用いられる楽器で楽曲を指揮する役目を受け持つ。

田楽

もともと耕田儀礼の伴奏と舞踊だったものが、仏教や笛太鼓による囃子と結びき、芸能として洗練された。平安後期には寺社の保護のもとに田楽座を形成し、田楽を専門に躍る田楽法師という職業的芸人が生まれた。神社での流鏑馬や相撲1、王の舞2等と共に神事渡物の演目に組み入れられた。
中世3以来、各地に伝わる民俗芸能の田楽をまとめると、共通する要素は次のようになる。
  • びんざさら4を用いる
  • 腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない
  • 風流笠など、華美・異形な被り物を着用する
  • 踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを行なう
  • 単純な緩慢な踊り、音曲である
  • 行道のプロセスが重視される
  • 王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い
現在までに、びんざさらを使う躍り系の田楽と、擦りささらを使う田はやし系の田楽とに分かれてきた。躍り系の田楽には、豊穣を祈念するものと、魔事退散を祈念するものとがある。擦り系の田楽は稲を植える前に水田の中に入って地鎮の呪術として奏された。

まとめ

伎楽は奈良、平安時代には寺社で広く演奏された。伎楽で使用されていた笛、腰鼓が田楽にも用いられ、呪術として一定の格式を構成したのではないか。田楽が廃れた後も地域の祭礼の楽器として現在まで残ったのではないか。北勢地区の獅子舞は、水田の地鎮の呪術としての擦り系ささらを用いていることから呪術系の田楽に由来するのではないか。また田遊び、湯の花神事を伴っている例もあり、豊穣を祈願するという点からも田楽の一種、獅子田楽と考えられる。
田楽は元々面を用いない呪術であった。[日中韓の仮面劇]同時代にあった猿楽では鎌倉時代以降に寺院での供養で面を用いて行なう呪術劇を任され、以後創意工夫ががなされて発展し能になった。田楽の獅子舞、王舞い等面を用いる楽舞は、能のような創意工夫の発展の後が見られないことから、より後代に付け足されたものと考えられる。
北勢地区の獅子舞は鈴鹿市の伊奈冨神社を中心にした4流派を受け継いでいる。その獅子舞の演劇の内容は全ての流派でほぼ同一である。しかし楽曲は異なる。2017年に復活した都波岐奈加等神社の中戸流の曲は楠町本郷の箕田流と共通するモチーフが使われている。
元々伊奈冨神社を中心に4つ程の田楽座があり、飢饉に対する呪術として獅子頭がもたらされ、獅子舞を行なうことが許された。舞とその内容が伝えられたが、曲は伝えられなかった。そこで各田楽座が自分たちで曲をつけた。それが4つの流派として今に受け継がれているのではないか。
北勢地区の獅子舞は江戸時代末期から明治にかけて鈴鹿市の周辺へ伝承された。江戸幕府が倒れ、開国して異国の文化が流入し、世の中の急速な変化の中で、伝統文化の継承に危機感を感じたからではないだろうか?
[Wikipedia: 田楽]
[田楽考]

獅子笛

正倉院所蔵の班竹の横笛が楠村神社に昭和40年に奉納された横笛に近い。菊田雅楽器製の箕田流の獅子笛はより遠い。
横笛比較図(正倉院の楽器 日本経済新聞社 1967
これらの笛はその調査記録からいずれも音程がとても悪いことが分かる。また総じて現在の雅楽よりも1全音低い傾向がある。笛の外周直径が22-25mm程度あり、指穴の位置に対して、内径が太過ぎて最低音辺りの調律がとれない。その指穴の位置が内径に対して狭すぎる。獅子笛は神楽笛と同じ程度の基準音程で演奏される。神楽笛と同じ19-20mm程度の外径で作ると調律のとれた笛ができる。但し、神楽笛は6孔であり、獅子笛の曲のために7孔を追加する必要がある。指孔を全て塞いだ最低音をドとすると7孔はレになるように開ける。元々指穴が7孔ある龍笛では第7孔は最低音レに対してレ#である。共に7孔の指穴を持つ北勢地域の獅子笛と龍笛であるがこの点が異なる。7孔をレにすることで他調の演奏に制限が加わるが、楠町本郷の箕田流の曲は1つの調性のみで演奏されるので問題はない。7孔の笛の完成度5としては半分以下の性能になる。昭和40年に楠町本郷の楠村神社に奉納された獅子笛4本の第7孔はレ#に近い。従って楽曲の音階に沿って作られたものではない。楠町近隣の獅子舞(他流も含む)で使用されている獅子笛もその第7孔の配置から楽曲の音階に沿って作られたものとは考えられない。


正倉院に現存する横笛は総じて音程がとても悪い。調律された笙や箏、琵琶と一緒に演奏されたとは考えにくい。これらは現在の獅子舞や祭り囃子のように独奏やユニゾンでの演奏に用いられたのではないか?飛鳥時代以降伎楽が寺社に普及し、その楽器が田楽に用いられるようになった。その呪術的性質から現在まで笛を改良することなく、低い基準音を守って使用され続けているのではないか?
伎楽は朝鮮半島の百済からもたらされたが、元々は中国と西域、インド由来の演劇であったものが朝鮮半島を通って日本にもたらされただけであり、雅楽で朝鮮由来の曲を演奏する高麗笛(神楽笛より2全音高く、指穴は6孔)を用いなかったのかもしれない。
参考文献:
  • [正倉院の楽器]
1宮廷の相撲では獅子舞、狛犬等の駒形舞が舞われた。
2鼻高面を着けて鉾を以って舞う。
3鎌倉幕府1192から室町幕府滅亡1573まで。
4多数の板切れをつなぎ合わせたささら。
57孔の横笛はインドで発明されたと考えられており、シルクロードを通って大陸の東西へ伝搬した。1600-1750西洋のバロック時代には室内楽用に7孔の笛が開発され、使用された。笛1本で全ての調(24調)が演奏できる性能を持っていたと考えられる。著者による複製製作研究によって確認した。

獅子


師子

伎楽の師子

612年に伎楽の一部として師子が日本に伝来した。古典の音楽書に伎楽について書かれている。
  • 48日仏生会、715日伎楽会と言う。(略)この舞いは聖徳太子の時代に百済より未摩之という舞師が伝えた妓楽である。先ず盤渉調音取り、次に同行音声または同行拍子を奏して行道をする。列の順序は先ず師子、次に諸曲の舞人、次に笛吹き、帽子冠を被った者、三鼓2人、銅拍子2人。先ず師子が舞う。その曲壱越調音、陵王の破に似る。喚頭1あり。古い書物には破、喚頭3回、高舞3回、口下3回、何事哉。(略)[教訓抄]
  • 伎楽の笛は戸部氏相伝の曲。笙、篳篥の曲ではなく、三鼓も用いない。横笛の秘曲である。興福寺の混同で毎年48日に演奏される。曲は残っているが、舞いは断絶している。[楽家録ー伎楽之笛相伝]
伎楽も龍笛の秘曲であった。上記教訓抄の記述では、伎楽の師子は壱越調で陵王破に似ており、繰り返しの際に演奏される喚頭部分があった。壱越調は、箕田流獅子舞よりも全音1個高い調で、音階はレミファ#ソラシドである。古い書物からの引用の、“破”と”喚頭”は曲の構成部分と繰り返しを意味していると考えられる。高舞と口下についてはわからない。
[雅楽ー古楽譜の解読]に伎楽を五線譜に書き直したものが掲載されている。師子も含まれている。この師子は[伎楽曲新考]で述べられている秘曲師子とは異なる曲である。

秘曲師子

古典の音楽書に師子が龍笛の秘曲であると書かれている。
  • この曲は序破急2がある。御願供養3で演奏される。笛太鼓鉦鼓が用いられた。戸部氏が伝える秘曲である。次の詠がある。西に向かって唱える。
    獅子天竺 問学聖人 瑠璃大臣 来朝太子
    飛行自在 飲食羅刹 全身仏性 尽未輦車
    毘婆太子 高祖大臣 随身眷属 故我稽(首)礼[教訓抄]

  • 中華の曲において獅子荒序伎楽、高麗曲において狛犬吉簡を秘曲とする。この内獅子伎楽は横笛に限る。[楽家録ー横笛秘曲]
  • 獅子は笙、篳篥の曲ではない、横笛の秘曲である。戸部氏にて断絶後、京都楽人大神氏が相伝した。毎年天王寺にて215日と22日に演奏した。15日は秦氏が奏し、22日は必ず大神氏が奏した。音取りは秘するため伝えられない。曲は残って居るが舞いは断絶。先ず左方が菩薩を奏し、その後右方がこれを奏する。舞いの手順は獅子2頭が舞台に上り2回廻る。1頭は順方向、もう1頭は逆方向。1人は獅子頭を被り、もう1人は尾に入る。計4人。最後に楽屋に入って終わる。旧記によると、先ず乱声を奏し、この間に舞い人出る。次に音取り、そして当曲演奏。[楽家録ー獅子笛相伝]
師子については研究論文が幾つもある。林謙三による論文では、師子は壱越調で曲は雅楽の陵王破に似ていることを楽曲を分析して確認している。[雅楽ー古楽譜の解読]
鎌倉時代に写された伎楽の譜(琵琶)が残っており、五線譜に書き直されたものが[伎楽曲新考]にある。この伎楽の譜の師子は教訓抄、楽家録等の音楽書に見られる秘曲師子と考えられ、序破急の形式からなっている。[伎楽曲新考]
元々伎楽の一部であった師子が、それだけ取り出して法会に使われるようになった。
実際の演奏に際しては、その譜の音価を1/4にして演奏されていたと考えられる。短い序破急の形式からなり、箕田流の獅子舞の曲とは全く異なる曲である。

秘曲師子はどのように舞われたか

師子の演技の様子について書かれた記事を抜き出す。
  • 伎楽の師子
    古い書物には破、喚頭3回、高舞3回、口下3回、何事哉。[教訓抄]

  • 1214七条歓喜寿院供養にて(略)この左方は先人のものと異なった。法用が終わってから舞った。先ず左楽行事(次第を司る者)が召され、師子を舞うため、4を引き刷りながら楽屋より出て庭中へ進み、半ば辺りに立って甲を脱いで腰に着け、烏帽子を引き立てて古楽乱声を吹いた。その時に左の師子が起き上がって、舞台に上り、四角を拝して、正面に立って2度拝し、この後乱声が吹き止んだ。古くはここで詠5があった。次に序、破、急の形式で3回吹いた。師子が舞い終わった後、甲を着けて楽屋へ帰った。その都度異なる。不審がない分けではない。公の行事ではない時の師子の例。鴨神社の一切経会、清延が楽屋の中で吹いた。経頭馬一頭が引いた。天王寺・住吉社に師子がある。それはとても異なるものである。乱声も別物、曲を吹く様子も太鼓を打つ様子も替わっていた。なかなか本朝の師子より興味深い。(略)[教訓抄]
  • 1330舞楽の伽陵頻と胡跳が演じられた後、師子の乱声が鳴り、狛犬は地にふし、師子が舞台に登る。四方に礼し本尊と證誠を拝む。太鼓が三拍子になったら、つなとりが綱を獅子に打ちかけ、蝿払いと共に舞台の左右のすみに控える。[元徳二年三月日吉社並叡山行幸記呂一]
  • 龍頭鷁首6の船が現れ出て、獅子、駒犬、傀儡など船より神前に参り、菩薩舞い等種々の曲を行い、古式の様相を表した。駒形の舞楽の後2獅子2頭で獅子舞が行われ、鳥蝶舞楽、菩薩が行われた。[北和介文書放生会記、法鏡寺文書等 放生会の由緒]
  • 1開眼作法2寢儀諸着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師7参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。
    [雅楽と法会]


中国の獅子舞

伎楽由来の日本の雅楽や寺社の師子は北勢地区の獅子舞と似ている部分が少ない。日本よりも古くから獅子舞があったと考えられる中国の獅子舞はどのようなものか?


漢代の壁画や石刻に“舞巨獣”というのがあり、これが中国南北朝時代(日本では古墳時代)になると獅子舞として、百戯の1つとなり、唐代には”五方獅子舞”と称せられた。(略)もっとも獅子舞はイラン原産でシルクロードを経て中国へ入ってきたといわれている。[新装新版中国文化伝来事典:獅子舞]
獅子舞の発展の歴史は長い。漢代(BC206-AD220)の「象人8」、北魏(386-534)の「避邪獅子」、唐代(618-907)の「五方獅子舞」、宋代(960-1279)の「獅子戯球」、明代(1368-1644)の「大小獅子」と、たゆみ無く蓄積され発展していった。[舞龍舞獅]
清代(1636-1912)の頃の雑技には舞獅子という演目ではなく「太獅子」「少獅子」とある。太獅子は大人の獅子で、少獅子は子供の獅子である。[アジア演劇人類学の世界]

現在の中国の獅子舞

中国の獅子舞は発展して現在、南北二大流派が形成されている。一般に揚子江を境にして北と南を分ける。[アジア演劇人類学の世界]

北方獅子:

北獅は正月に演じられ、主として新年を迎えた人々に福をもたらす神獣である獅子が、邪気を祓う古儺の習俗を強く反映しているようである。また神を迎える賽会(祭礼)、雨乞いや厳粛なる祭儀などでも獅子舞が演じられることがある。
伝統的な演出形式は2匹の獅子と2人の舞人からなる。大羅漢の面見を付けた
矮胖和尚(背が低く腹が膨れた和尚)が獅子を引き出すののが原型で、仏教と獅子舞との関係に追遡できる。いかなる獰猛な獣も和尚の霊力によって意のままになることを表現している。この原型は南方より伝えられたとも言われる。[アジア演劇人類学の世界]
北獅は獅子の生態を真似た軽快な動きと玉乗りなど曲芸の要素を取り入れているのが特徴となる。二人で演じるのが大獅で、独りで演じるのが小獅である。大獅は文獅と武獅に分けられることもある。文獅はおとなしい獅子の姿を主に演じる。毛をなめたり、振り回したり、かいたり、また転げ回ったりする。武獅は、獅子の勇猛な性格を主に演じる。飛びかかったり、よじ登ったり、飛び跳ねたり、球を踏んだりする。大獅は二人、少獅は一人で演じる。獅子の身につけた装飾は長い毛によって隠されている。獅子を舞うときは獅子だけが見えていて、中の人は全く見えない[神事としての獅子舞]中の李英儒の説明より

南方獅子:

南獅は獅子の鱗状の文様が特徴であり、演技は武功を基礎として勇猛果敢である。どの獅子も2人で演じられる。ただ縁起中に中の人間が見えてもかまわない。
南方派もまた北方派も獅子を舞う間、銅鐸や太鼓が伴奏する。演じるとき、型で決まった動作があり、例えば球ころがしの獅子舞い、武士の獅子舞い、兄妹の獅子舞などである。獅子舞は地方によって違い、例えば河北には双獅、安徽には青獅がある。[神事としての獅子舞]中の李英儒の説明より
広東の瑞獅(醒獅ともいう)は梯子を登り、高いところで曲芸的なものを見せたりする。本来は竹竿の先に紅封包(お金を包んだもの)と一束の緑葉をつけたものを、獅子舞の後脚の者の肩の上に乗って、一歩一歩その竹竿に近づき、手を獅子の口から伸ばして紅封包を取るという採青から発達したものである。この演出は戯園(劇場)や広場で演じられることが多く、楼台の上に作られた椅子から下を眺めたり、ぐるぐると徘徊したり、見回したり、激しくぶつかったり、しゃがみ込んで歯を磨いたり、ときには身を伏して寝たりするように、様々な態を見せたりする。(略)湖南省の獅子舞は、毛を舐めたり、痒みを掻いたり、転げたりする。獅子郎は大羅漢の面見をつけ、手に大きな蒲扇をもって、獅子をからかったり、眠っている獅子に手を出したりする。[アジア演劇人類学の世界]

南北の共通点

獅子舞は中国の民族的行事の中でも最も一般的な民間舞踏である。長い間、獅子は人々の心の内で瑞獣であり、武威と吉祥の象徴であった。そのため、春節や元宵、縁日などの大事な祝賀行事に、各地の人々は銅鐸や太鼓を叩いて獅子を舞う。自ら楽しむと共に、邪気を祓い、福を求める願いを託した。[舞龍舞獅]
中国の獅子舞は、時代色や地方色によってさまざまであるが、悪霊の退散や招福を願うという点で、また民間で行われる芸能であるという点で一貫している。民間芸能としても今日でも盛んに行われている。[神事としての獅子舞]
安徽省9では病気になった人が寝ている寝室に獅子が入り舞うことで目に見えない病魔を祓い除くことができると信じられている。また幼い児を獅子の口内にいれて、咬んでもらうことをする。こうすれば病気せずに、丈夫に成長すると言われる。[アジア演劇人類学の世界]


まとめ

湖南省の獅子舞が、面を付け扇で獅子をからかったり、眠っている獅子に手を出したりするという点で、北勢地区の獅子舞に似ている。


日本の獅子舞

唐の獅子舞が日本に伝わり、舞楽として演奏されている内に、太神楽などで悪魔払いや豊作の祈祷として民間に定着したものである。[新装新版中国文化伝来事典:獅子舞]
日本の獅子舞は仏教行事から神事へと発展し、さらに見せ物的要素が加わり民間芸能として盛んになった。民俗芸能として広まったことにより、能の「石橋」、歌舞伎の獅子の演目として舞台芸能として発展した。[神事としての獅子舞]
舞いにおいては、雅楽や社寺の祭礼の師子の記録よりも、中国の南方の獅子舞の原型に近いと思われる。
まとめ
北獅子と南獅子の両方ともその原型においては獅子使いが羅漢の面ををつけていたのは興味深い。しかし原型がいつ頃のものかはわからない。
北勢地区の獅子舞は、年中行事絵巻にある祇園、稲荷の御霊会の絵図にある獅子舞とよく似ている。獅子頭の形、幌の装飾、行道においては先に鉾、次いで鼻高面、獅子と続き、行道の並び順と同じである。一方でその舞いは四方祓いのみが雅楽や社寺の祭礼の師子の舞いと共通している。全体としては中国南方湖南省の扇を使って獅子にちょっかいをだす獅子舞に近い。広東の瑞獅の原型である採青は花の舞の原型のようにも見える。これら南方の獅子舞の舞いが別個に日本に伝わったため、花の舞が一連の獅子舞とは別個になっているのかもしれない。
この中国の獅子舞の原型がいつ頃のものであるかわからない。日本でも獅子舞は仏教と共に発展した。口取は仏教にちなむ役割、インド人仏教僧の導師、呪禁師等ではないか。

中国との国交

飛鳥、奈良、平安時代を通して中国に対して朝貢し、冊封されて交易を行い、密教、舞楽が伝来した。894に遣唐使が停止され、907には唐が滅び、遣唐使も消滅した。
960に北宋が起こり、九州では商人達による私貿易が行われていた。
1126南宋成立。私貿易が続く。
1173に平清盛が正式に国交を開き日宋貿易を振興した。
1185-1333鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、幕府は民間貿易を認めていた。
南宋の滅亡(1279)後も延長として元との日元貿易が行われている。
1401室町幕府(1338-1573)によって日明貿易が本格的に再開される。遣唐使消滅からここまで日中の交易は私貿易が主だった。
1603-1867江戸幕府の鎖国政策によって貿易が制限されつつ行われた。貿易の相手はオランダ東インド会社や、中国の明・清の商人、李氏朝鮮、琉球王国、アイヌだった。[Wikipedia: 日本の貿易史]

まとめ

平安期より後には公的権力によって貿易が独占されることが少なく、中国の民間の獅子舞が日本に流出する機会はあったと考えられる。
1雅楽の唐楽において,曲の冒頭に演奏した部分と入替えて演奏する部分。
2日本雅楽の楽曲構造
3
4奈良時代以降の束帯および衣冠着用のときの上着。
5詠とは楽曲中で読まれる詩である。[教訓抄]には次の詠を西に向かって唱えるとある。
獅子天竺 問学聖人 瑠璃大臣 来朝太子
飛行自在 飲食羅刹 全身仏性 尽未輦車
毘婆太子 高祖大臣 随身眷属 故我稽(首)礼
6平安時代、船遊びに用いた21対の船。鷁は想像上の白い水鳥。
7呪禁師ではないか?
8動物等のものまね芸
9上海、南京に近い。