12 Jan 2019

口取

口取
中国の民間の獅子舞の原型では、獅子使いは羅漢1の面を被っていた。[アジア演劇人類学の世界]羅漢は仏教僧を意味する。
伎楽の鼻高面飛鳥時代に日本に伝来した伎楽は師子を含んでいた。伎楽とは仮面を着けて行なう演劇でその内容は仏教の教えに沿うものだったと考えられる。その行道の先頭、師子の前を歩くのは治道である。多数の伎楽面が現存しており、それらの内治道と婆羅門の役柄用の面が良く似ている。
婆羅門の方は頭頂部分が欠損している様に見える。婆羅門はバラモン教の僧だろう。治道は剃髪した仏教僧で、両者とも鼻が長いのはインド人(アーリア人)の特徴ではないか?両方とも現在の鼻高面よりも鼻が下向いている。
御霊会の鼻高面
年中行事絵巻 国会図書館デジタルライブラリー
平安時代に始まった祇園御霊会では行道の先頭は鼻高面を着けた舞い人が散手破陣楽という舞を舞っている。この鼻高面の舞人は行道の間に御輿を置く場所を祓って清めることも行っている。
図1の右下で右手に剣印を結び、左手に鉾を持った鼻高面が見える。剣印は道教や密教において用いられる。稲荷の御霊会では鼻高面を腹部の前につけて馬に乗り、顔を蔵面のような白い布で隠している者が行道を先導している。その鼻高面は雅楽の舞の貴徳の面と説明されている。[日本絵巻大成] 平安時代に整理された雅楽では、唐由来の舞楽を左方に、朝鮮由来の舞楽を右方に配置した。散手と貴徳はそれぞれの方に属する番舞である。左に赤、右に緑が配色され、舞人の衣装もこれらの色を基調とされた。両方とも鉾を持ち、剣印を結んで舞う。散手は竜甲を被り、貴徳は鳳凰甲を被る。但し貴徳の面は白っぽい肌色である。両方とも仏教に由来せず、一国の王をモチーフにしている。武勇に優れた王による天下太平の舞である。江戸時代に成立した[楽家録]の舞い面図では散手の鼻は高くない。貴徳はやや高いが伎楽の治道には全く及ばない。両方とも髭がついている。他の面では菩薩も鼻高ではない。地久と胡徳楽、陵王はやや鼻高に描かれている。陵王の頭に龍がついており、散手の面に竜甲を被った様に似ている。陵王も印を結んで舞う舞いである。
信西古楽図の鼻高面
覆刻日本古典全集 信西古楽図 政宗敦夫 現代思潮新社 1980
唐代の宴饗用の舞楽を描いた[信西古楽図]にも鼻高面が描かれている。これも剣印を結んで、鉾を使って舞う。この鼻高面には髭が生えており、太刀や鉾を持つことから散手や貴徳の様に武人の舞いに見える。この図では鳥甲を被っているが、散手では竜甲、貴徳では鳳凰甲を被り、よりシンプルな形の鉾を使う等細かな違いがある。
古代中国の俗楽に「安公子2」という曲があるが、安弓子と同一の曲かどうかはわからない。王令言という楽人は音律を熟知していた。その息子が隋の皇帝煬帝が江都へ行幸する折にその供をすることになっていた。息子が戸外で琵琶「安公子」を弾いたのをを聞いた令言はその曲の主音の反射音が無かったことに気づき、主音は皇帝を象徴するものだが、それが返ってこない。帝は戻ってこれない程危険なことになるから供を辞めるように言った。[随書][隋唐宮廷音楽史試探(1)]この記述は煬帝の音楽への知識が薄弱なことを批判する狙いもあったと考えられる。
安弓子の名を持つ曲が平安時代末1177以降に成立した楽譜集[仁智要録][三五要録]に収録されている。それぞれ箏、琵琶のための楽譜である。
安弓子は性調に分類されている。性調には4曲だけが収録されており、その内千金女児、長命女児は新楽で産屋で奏されたらしい。安弓子もこれらに似た曲調である。[平安朝の雅楽 古楽譜による唐楽曲の楽理的研究]によるとこれら3曲は雅楽の平調の曲と同様の装飾音の傾向がある。
結局のところ安弓子がどういった内容のものだったかは全くわからない。信西古楽図の安弓子は名称を付け間違えたのかもしれない。
音が似た呪術がある。
インドで密教が成立する以前、アングリマーラ経を唱えることで安産を願うなど、仏陀によって説かれた経典を唱えることによって祝福するという習慣が存在した。
難波宮へ遷宮する際に安宅地鎮のため真言密教の尼僧によって飛鳥時代に伝来した安宅神呪経が読み上げられた。
まとめ
伎楽の面が現存最古の鼻高面で、治道はインドの仏教僧と考えられる。婆羅門の面も高い鼻を持つので、それはアーリア人の特徴と思われる。
平安時代の御霊会では雅楽の武舞いの散手と貴徳が行道を先導した。これらは武に秀でた国王をモデルにしている。
北勢地区の獅子舞の口取は鼻高面を着けて舞う。その源流は伎楽の鼻高でインド人の仏教僧であったが、平安時代には武舞の散手と貴徳に鼻高面を付けたものに置き換わった。それらが直接のモデルになり、鶏甲を被って鼻高面をつけた口取になったのではないか。
口取の赤い衣装は雅楽の散手にちなんだものと考えられる。地区によっては緑や青を使っているところもある。江戸時代には士農工商の階級制度があった。ある界曹の人々は藍染しか着ることが認められなかった。それと関係があるのか?

獅子の歴史


獅子舞の歴史

獅子舞は古くは師子と書かれた。師子に関する記述等を歴史書、歴史的遺物から年代順に抜き出しつつ、関連要素を述べる。師子は社寺の法会に用いられた伎楽(娯楽)という演劇に含まれていた。それ故伎楽についての記述もここに挙げている。
  • 301-400 古代中国北魏の都洛陽では各寺院で釈迦の降誕を祝う降誕会の行列の先祓いとして獅子舞が舞われていた。魔(仏道を妨害する悪魔)除けの獅子であった。散楽1も行われていた。[洛陽伽藍記]
    日本各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から4世紀までに流入していたと考えられる。6世紀に仏教が伝来するのでそれ以前には道教系呪術があったことになる。宗教としての道教が流布されていたのではなく、その思想や呪術の一部が取り入れられていた。[Wikipedia: 道教]
  • 386-534 北魏の頃には寺廟の百戯2として獅子舞が多く演じられた。
  • 420-589 中国の南北朝の頃には仏教が伝わり、邪霊を祓う雑技の一つとして獅子舞が広まっていた。獅子舞は仏教と共に浸透していったと考えられる。
  • 531-572 呉の国王の血をひく和薬使主が、仏典や仏像とともに伎楽調度一具を朝廷に献上した。[Wikipeia: 伎楽]この時の用具に治道の面、獅子頭が含まれてたかどうかは不明。
  • 581- 中国の西域でも降誕会の行道が行われていた。[南海寄帰伝]獅子舞は西域で発祥し、仏教と共に盛んになった。隋唐では宮廷の舞楽に取り入れられた。隋は仏教を奨励し、仏教による平和統一を図った。降誕会の行道の獅子舞が独立して舞楽となり太平楽(五方獅子舞、五穀豊穣、天下太平)として唐に引き継がれた。
  • 612 百済の未摩之が中国の呉3で学んだ伎楽を携え帰化し、奈良(大和桜井)で少年を集めて教えた。教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあり、寺社(法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺など)へ伝習され、供養のための演目となった。[Wikipedia: 伎楽]
  • 686 新羅からの使者をもてなすために、伎楽調度一式が筑紫(九州)へ運ばれた。
  • 712 古事記編纂。天孫の一段を先導する役として鼻高の猿田彦が描かれる。伎楽の行道を先導した治道になぞらえたか。伎楽伝来から調度100年後に当たる。
  • 752 東大寺大仏開眼供養で伎楽が表演される。師子を含んでいたと考えられる。この時使用された横笛等が正倉院に残って居る。班竹の笛は楠町本郷の獅子笛、菊田雅楽器製箕田流獅子笛に近い。それらは数度調査されていが、その周波数からは音程はとても悪く、調律されているとは到底考えられない。[正倉院の楽器][正倉院御物横笛の音律に関する研究]
  • 1083 江家次第 法勝寺塔供養会
    1
    開眼作法2寢儀諸
    着座3乱声発楽4振鉾舞う5師子舞う6衆僧入場7師子舞う8導師、咒願師参入9十天楽発楽 供花 10菩薩11迦陵頻12胡蝶(略)[雅楽と法会]
    この師子は飛鳥時代に伝来し、寺院の式楽として摂受された伎楽の演目から取り入れられたと伝えられている。2頭の大師子がゆうゆうと舞台を廻る。天王寺の精霊会でも2頭の獅子が舞台上を廻る。

  • 1118 最勝寺供養にて小部正清が甲を着けて太鼓の前に立って笛を吹いた。[教訓抄]これより師子が演奏された記録が急に増える。音楽書に記録があるのは、官祭として舞われたものに限られ、寺社独自の祭礼で演じられたものは含まない。
  • 1136 鳥羽勝光明院供養にて小部正延が吹いた。右方の楽屋より出て太鼓の元に立って吹いた。[教訓抄]
  • 1168-1180 当神社には舞い神楽と唱う儀式あり、高倉天皇(80)の御代(仁安3-治承4(1168-1180))より始まり[久久志弥神社の栞]
  • 1195 東大寺供養にて小部清景が有康に習って吹いた。甲を着けて太鼓の面に立って吹いた。入場するときに甲を脱いで腰につけて入った。太鼓は筑前守有康が打った。ある話では尾張包助が太鼓を打った。有康は拍子を教えた。[教訓抄]
  • 1200~1300と推測 伊勢国(現在の三重県北中勢辺り)山田郷(伊勢神宮外宮の鳥居前町)で毎年正月中旬に箕を2つ合わせて獅子頭を作り、村野飢饉疫病の魔祓いのため、上の家から下の家まで、笛、鼓を伴い、獅子頭に疫神を取り付かせた。その後燈火で焼き払った。「[筠庭雑考]
  • 1214 七条歓喜寿院供養にて小部正氏が住吉神社の神主津守長盛に習って吹いた。権神守津守経国が束帯で太鼓を打った。この左方は先人のものと異なった。法用が終わってから舞った。先ず左楽行事(次第を司る者)が召され、師子を舞うため、4を引き刷りながら楽屋より出て庭中へ進み、半ば辺りに立って甲を脱いで腰に着け、烏帽子を引き立てて古楽乱声を吹いた。その時に左の師子が起き上がって、舞台に上り、四角を拝して、正面に立って2度拝し、この後乱声が吹き止んだ。古くはここで詠があった。次に序、破、急の形式で3回吹いた。師子が舞い終わった後、甲を着けて楽屋へ帰った。その都度異なる。不審がない分けではない。公の行事ではない時の師子の例。鴨神社の一切経会、清延が楽屋の中で吹いた。経頭馬一頭が引いた。天王寺・住吉社に師子がある。それはとても異なるものである。乱声も別物、曲を吹く様子も太鼓を打つ様子も替わっていた。なかなか本朝の師子より興味深い。[教訓抄]
  • 1233 教訓抄成立。師子、妓楽について書かれている。2人立ちの師子のような舞いは獅子以外に数種類あった。
  • 1280 伊奈冨神社に「弘安3(1280)庚辰正月稲生三大神」の墨書銘入った獅子頭が現存。日本最古と考えられる。
  • 1321 宇佐宮仮殿の遷宮を行なうので、弥勒寺堂内壇上で獅子菩薩の舞楽を行おうとしたが、新造の堂内で流血事件があったので、まず清祓が終わらなければ仏神事を行うことができない。[弥勒寺本家石清水八幡宮の牌]
  • 1330 舞楽の伽陵頻と胡跳が演じられた後、師子の乱声が鳴り、狛犬は地にふし、師子が舞台に登る。四方に礼し本尊と證誠を拝む。太鼓が三拍子になったら、つなとりが綱を獅子に打ちかけ、蝿払いと共に舞台の左右のすみに控える。”師子の舞いにはつなとりと蝿払いも居た。舞いの間は師子には綱がついておらず、舞いが終わる時につなとりが綱をかけた様子。社寺に現在も多数の妓楽面が残されており、その鼻高面の裏書に”ツナヒキ”と書かれたものもある。[日本の美術185 行道面と獅子頭]おそらく口取、つなとり、ツナヒキは同じ者を意味し、鼻高面をつけていたと考えられる。笛は戸部政躬。[元徳二年三月日吉社並叡山行幸記呂一] 師子の他に狛犬も演じられたらしい。
  • 1334-1338 虚空蔵寺山本村狛犬2頭、法鏡寺2頭等、覚満建立の薬王寺来縄郷狛犬2[建武中放生会記]
  • 1515 木製で彩色を施した獅子頭が作られた。牛頭社、今の社、須原大社、藤ノ社、茜社、箕曲社(宇治山田市箕曲神社)、落獅子社(世木社)に付属の獅子頭であり、各社に祭られる神の名は知られていない。村人は産土神(産沙紙)と崇めた。木製の獅子頭は作られて数百年を経て御神体と考えられるようになり、神事の最後に村の外れの橋の上に持っていき、太刀で切り払い清められた。頭以外は大かがり火、積木の炎で焼き祓われ、村人はその周りで円陣を組み、踊り狂った。[筠庭雑考]宮廷や寺社の獅子舞では火を使った記録はない。火を使う所から密教系の呪術ではないか。
    現在の伊勢市御園町高向の御頭神事(国指定重要無形民俗文化財)が火祭りを伴う点で、山田郷の獅子舞に似ている。
  • 1616 大かくら獅子舞と申すは伊勢大神よりはじまり、いせの国いのうというむらに天よりふりし獅子かしらありて毎年一国のうちを廻り給うなり。それを学びて国々にあまねく獅子つかひはじまりける。[このころ草] ”いのう”神社に朝廷から獅子頭が与えられたという意味か。
  • 1690 音楽書楽家録成立。師子、妓楽について書かれている。
  • 1763 大宮(本社)、西宮、三大神、菩薩堂(現在の鈴鹿)の獅子4頭が3年に1回丑、辰、未、戌の年に各々の氏子地区に出かけ数ヶ月かけて回壇。[三国地誌]
  • 1886 楠の獅子頭が作られた。[楠町史]

まとめ

獅子舞は1700年程前に中国の西域、現在の新疆ウイグル自治区以西で始まった。仏寺で行われるた邪霊を祓う雑技の1つであった。行道の先祓いとして用いられていた。
仏教と共に広まり、中国の隋唐代には国家の饗宴演目:五方獅子舞(太平楽)として取り上げられた。
日本へは7世紀に伎楽の一部として伝来し、元々は伎楽と一体で演じられていた。寺社、宮廷の祭礼の形式が整えられるに従って、師子だけが別個に用いられた。
伎楽における治道が口取(綱取り)だったかどうかははっきりしない。口取が鼻高面を被っていたかどうかも分からない。口取は獅子に綱をかけ、他に蝿払い役が2人いた。音楽は伎楽とともに戸部氏の龍笛の秘曲として伝承されていたが、途切れ、大神氏によって引き継がれた。
1多種多様な芸(雑技、大道芸、ジャグリング、雑技)を含む散楽。散楽が後に文楽、手品、大道芸、猿楽、能に発展した。
2散楽に同じ。
3中国の呉ではなく、古代朝鮮の久禮、現在の韓国洛東江中下流に位置したという説がある。3c-6cにかけて伽羅という小国家群があり、倭国に従属していた。[韓国仮面劇と日本伎楽の比較研究]
4奈良時代以降の束帯および衣冠着用のときの上着。

地方の獅子舞


前書き

本稿は三重県の北勢地区、四日市市楠町本郷にて明治より継承されていた箕田流獅子舞の楽曲についてのレポートである。北勢地区には鈴鹿市に拠点を置く4流派の獅子舞が広く分布しており、箕田流獅子舞もその1つである。楠町本郷の氏子の方々から本研究に際して獅子舞全曲の動画資料を提供して頂いた。ここに感謝を述べる。

三重県北勢地域の獅子舞ー特に楠町本郷の獅子舞

三重県北勢地域の獅子舞は伊奈冨神社を中心に行われていた太神楽としての獅子舞が元と考えられる。太神楽とは伊勢神宮への参詣の代わりに各家庭を周り、お祓い、お札の交換を行なう神楽である。江戸時代には桑名、四日市に拠点を置く伊勢太神楽が日本全国を回壇した。伊勢太神楽は四山の獅子の1つである山本流から伝習し、改良を加え、曲芸を追加したものである。その結果この地域に受け継がれる獅子舞とは全く異なったものになっている。一方この地域の獅子舞は江戸時代末期から明治初期にかけて鈴鹿、四日市近辺の20数社の神社へ伝習されて広がった。昭和の初年までは舞い年になると旧正月7日〜33日まで津〜四日市までを回壇。その後伊奈冨の春の大祭に集合し舞いを奉納していた。
「民族芸術」三ノ一に藤堂家が寄稿した[伊勢の獅子舞]にもう一寸詳しい記述がある。古来第一の格式に位置づけられた伊奈冨神社の獅子舞神事は4年毎の416日に「舞い込み」、17日に「練り込み」の行事を行なうものであった。獅子舞には必ず神職が付き添い、舞曲中に祈祷の神符を授与した。獅子頭を明神と崇め、男子が紋服を新調すると、この明神に銜えてもらって縁起を祝う習わしもある。獅子を冠る者をししとりと言い、他に口取といって、鳥甲、猿田彦面にささらをとった童子がつく。囃子は普通笛と太鼓で、門舞と本舞とがあり、門舞は門前で一寸舞うもの、本舞いはあらかじめ場所を設けて、四方に竹を立て、注連を巡らし、供え物をして舞うものであった。観音堂の本舞いには、扇の舞い、花の舞い、起こし舞い等、稲生には、乱調、中起、扇舞、子供の芸、神扇、からすとり、打上等があった。
楠本郷は明治に下箕田の久久志弥神社より伝習した地域の1つである。その獅子頭は明治19(1886)に作られた記録がある。3月の第3日曜と10月の体育の日に行われていた。青年団1を中心に10人以上で構成。湯の花神事2は獅子舞の曲中で笛太鼓を伴って行われていた。舞う場所に蓆を12枚程敷いて舞台を作った。口取りは子供たちがたちつけ姿、(袴の一種、膝から下を脚絆(すねにきっちり巻いて歩き易くする布で旅行等に用いた)にして舞った。だんちょう(祈祷)は保存会の者が神主代わりとなり、行なった。楠の獅子舞は獅子の動きに静と動、笛に強弱がり、旋律は優雅で舞いの間に弱く奏でる影の笛の音色が美しい。北か西を正面にして演じられた。太鼓は曲げ物胴の締め太鼓。この太鼓は雅楽で使われるかっこが大型化したものに見える。笛2人、太鼓1人、口取1人、獅子2人を交代で薬45分途切れることなく演じた。現在、本拠の下箕田も含めて楠近隣の獅子舞には45分間決めれなく続く曲は残っていない。楠の獅子舞ではほぼ完全に残っており、それに加えて花の舞いがあった。また湯の花神事に演奏される楽曲が残って居る。その曲は笛とかっこ、銅拍子で演奏される。下箕田にはかつて獅子舞の他に神前に奉納する御神楽があったが現在はない。箕田流の獅子舞を継承する石薬師南町には同じ曲(おかぐらと呼称)が残っている。楠よりも優雅な装飾音が使われる。同北町の山本流では使われない曲である。
実際には神事としての獅子舞を担う家系があり、村の者なら誰でも参加できるわけではなかった。地域によっては郷土の者でも自由に参加できない因習が現在も維持されている。一方で自分が住む地域の獅子舞なら誰でも参加できる獅子舞に変化しここ20年近く盛況をきたしている地区もある。



まとめ

北勢地区の獅子舞の演技内容ほぼ共通していると考えられる。先ず四方を祓い、次に眠っている獅子をわざわざ起こし、扇を使ってちょっかいをだす。戯れた末に噛まれてしまう。最初の四方祓いが呪術的内容を持っているが、他は自業自得の内容の音楽劇であり、これといって深い教訓はない。この一連の舞い全体が神事のためのものとはとても思えない。
参考文献:
  • [長倉神社獅子舞演技説明]
  • [久久志弥神社の栞]
  • [伊奈冨神社栞]
  • [三重県下の特殊神事]
  • [四日市史]
  • [筠庭雑考]
  • [三国地誌]
  • [このころ草]
  • [日本の美術185 行道面と獅子頭]
  • [伊勢太神楽]
  • [楠町史]
  • [神事としての獅子舞]
  • [伊勢の獅子舞]
1村の成年男子によって組織されていたグループ。若連中、宮守、若衆組、若者組とも。村部落単位に独立し、祭礼や諸種の村野行事で重要な役割を担った。鎌倉時代以前からあると考えられる。15歳前後で加入し妻帯と同時に退く。若衆入りすると社会的に一人前と扱われる。
2初めの頃は天王祭に行われていた。大釜に天明4と書かれている

伊勢大神楽

慶長年間(1596~1615)までに江州(滋賀県)佐々木ノ一党から桑名郡上野村に移り、その西の太夫村を開拓した。江戸時代以前に太夫村に住み着いていた人々は近江派の陰陽師、阿倉川には山伏と考えられる。そこへ織田信長に滅ぼされた近江源氏の六角佐々木氏の残党が逃れてきて住み着いた。
山本流の獅子舞を習い、稲生、山本、伊賀国敢国神社の獅子舞と曲芸を組み合わせ、日本全国を回壇した。昭和56(1981)重要無形民族文化財平成12(2000)ユネスコのアジア太平洋無形文化遺産のデーターベースに登録された。かつては桑名市太夫町と四日市史東阿倉川の2箇所が本拠地であり、江戸時代(文化年代(1804~1818))を頂点に活躍。明治22~23伊勢大神楽禁止令が新政府より出され、東日本を回壇していた阿倉川は滅んだ。回壇が布教活動にあたるため、自分たちで神道系の宗教団体を立ち上げて合法的に回壇を行っている。古代中国では獅子舞が元々曲芸であったこと、大道芸、雑技の一種だったことからその元々の姿に近いと考えられる。[伊勢太神楽]

16 Oct 2018

Memo

懐中譜 大神惟季 東京国立博物館
仁智要録 藤原師長 国文学資料館
三五要録 国文学資料館
三五中録(高麗笛)藤原 国文学資料館

31 Aug 2018

Japanese traditional flute for Lion Dance

I'm going to brush up the traditional flute like european baroque flute. I have almost fixed my way of making traditional flute.
At first, The pitch is 414~415.
After enlarging the bore between emb & 1st tone hole to tune octave of G, It sounds at 409, After rounding emb hole's edge, It sounds 406.
The material is bamboo, outer diameter is 20 mm, legth between knots is 50 cm. Traditional kagura flute's length is 42 cm. The other Kagura flute used in Gagaku, its length is 45 ~ 46cm.
The taper of the bamboo is too less than baroque flute. Although the bore is enlarged to tune octave of G(123 456 -), but the octave of B(1 --- -) isn't matched. So harmonique fingering is used for it like renaissance flute, baroque oboe.

Fingering & scale e designed by me.
A 12- --- 7, High A 12- 456 7
B 1-- --- 7, High B 1-3 45- -
C -23 --- 7, High C 123 45- 7
1st hole is tuned for C -23 --- 7
2nd hole, for Bb 1-3 45- -
3rd hole, for A 12- --- 7
4th hole, for G 123 -
7
5th hole, for Mid F 123 4-6, then Low F 123 4-6 7
6th hole, for E 123 45- -
7th hole, for D 123 456 -
Lowest note is C 123 456 7

F# 123 -5- -, 123 -56 -

Avairable scale
Major:
C, D, F, G, A
Minor:
d, (f), a, b

Outer diameter is 20mm for 400hz.

Scraping bark for varnishing.




cleanning bore by sanding.




























30 Sept 2017

Making traditional flute 2

To make this traditional flute, I read many books & articles written about japanese traditional music. Then I dictated Local lion dance's music played flutes & a drum from DVD movie. I found the used scale. It's tuned at about 1 whole tone below than 440hz.
The 3rd note is tuned 1/4 flat E or 1/4sharp Eb. Main reason for the tuning is for hiding player's low music sense & playing technique. Sub reason to sound E & Eb with only emboucher. We can bend the tone more sharp & flat with the larger emboucher hole 12 x 16 mm. The ancient flutes left at Shosoin since 8c have small embouchurhole 8 x 10 mm. The measurements is similar to european baroque & classical flute's.

The 7th hole is opened for Low & midle D. The flute for Lion Dance has 7 holes for fingers. It means it was from china. Japanese & korean flute have only 6 holes for fingers. The lowest note & next note is minor 3rd degrees.
In the case, Lion flute, the scale CDEF#GABC#. It can be said baroque flute plus C foot. Pricisely the 7th hole is used for Eb/D# on baroque one. The figering system is almost same. It was useful to solute the enigma of the Lion flute. Because No local players know the music was written with tuned scale..

Local players never learned modern theory of music & they did only imitate of the playing. They never study the music.

This time, I analyse the music, the found scale, & I noticed I can repaire a little of the music. Mainy a little broken parts.

The japanese traditional music is written in 2/4 4/4 mainly. But In Local Lione Dance's music otfen has 3/4 measures. In the future I solute them to take back original form with original beat.

I copied a few music for shrine's ritual. In this month 9th 13:00, I play the music. I'm not religionist. I just help the traditional music as an reseacher studies ancient music.